見てはいけないもの
総支配人室での書類提出を終えた涼香は、深夜の静まり返った廊下を歩いていた。
ふと見ると、製菓室の明かりがまだ点いている。
(百合さん、まだ残ってるんだ……)
昼間の、あの剥き出しの瞳を思い出し、涼香はほんの少しの野次馬根性と、それ以上の「放っておけない気持ち」から、そっと製菓室のガラス窓を覗き込んだ。
ちょうどその時、中には冴子の姿があった。
ガラス越しなので、二人の会話はほとんど聞こえない。
けれど、言葉なんて必要なかった。
冴子が百合の肩を掴み、自分の顔を近づける。
そして——コツン、と、お互いの額を合わせた。
(っ……!?)
涼香は息を呑み、咄嗟に壁の影に身を隠した。心臓がうるさいくらいに跳ねる。
総支配人の、あまりにも無自覚で罪深い距離の詰め方。
そして何より、涼香を戦慄させたのは、額を合わされた瞬間の、百合の表情だった。
以前見たものなんて、ほんの氷山の一角だった。
潤んだ瞳、きつく結ばれた唇、今にも張り裂けそうなほど張り詰めた空気。
それは、涼香自身が玲に抱いている「不器用で可愛い片想い」なんて生ぬるいレベルのものではなかった。
何年も、何年も、誰にも言えず、たった一人で巨大な総支配人という存在の隣に立ち続け、胸の奥で燃やし続けてきた、執念にも似た圧倒的な愛の強さ。
やがて冴子が部屋を出ていき、廊下の向こうへ去っていく。
涼香は、今度こそ百合に「大丈夫ですか?」と声をかけようと、影から足を踏み出しかけた。
だが、その足は完全に凍りついた。
製菓室の中の百合が、作業台に崩れ落ち、額を手で押さえながら、静かに、本当に静かに肩を震わせて泣き始めたからだ。
声をかけることなんて、できなかった。
昼間のように「美味しいお店、教えますね」なんて、軽口で踏み込んでいい領域では絶対にない。そこは、他人が1ミリたりとも触れてはならない、百合だけの、孤独で神聖な「聖域」だった。
涼香は、バインダーを抱える手に思わずギリッと力がこもるのを感じた。
百合の想いの圧倒的な強さと、その裏にある底なしの切なさに、ただただ気圧されてしまう。
同じ「片想い」だなんて、簡単に括ってはいけなかったのだ。
涼香は、泣き続ける百合の姿をもう見ることもできず、そっと目を伏せた。
そして、自分の足音で彼女の涙を邪魔しないよう、細心の注意を払いながら、暗い廊下を音もなく、ゆっくりと引き返していった。
胸の奥が、自分のことのようにズキズキと痛むのを感じながら——。




