無自覚な毒
深夜、ホテルの製菓室。
百合は一人、大理石の作業台の上で、溶かしたチョコレートをパレットナイフで広げていた。
「テンパリング」と呼ばれる、チョコレートの温度を調整して美しい艶を生み出す、パティシエにとって最も繊細な作業。
けれど、今日に限って、どうしても上手くいかない。
自分でも、理由は分かっている。
最上階に常設されたバーで、冴子さんとあの人が二人きりだから。
パレットナイフを動かすたび、脳裏に今朝の沙織の『貴方は冴子のタイプじゃない』という言葉が蘇り、指先が微かに震えてしまう。
「……ダメね」
これで、もう4回目の失敗。ボウルの中のチョコレートは、どこか濁った色をしていた。
バーなんて、見に行かなきゃ良かったのに。
見に行かなきゃ、これほどまでに傷つくことはなかったのに⋯⋯
百合が小さくため息をつき、おでこに手を当てた、その時。
コンコン、とガラス扉が叩かれた。
入ってきたのは、スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくった冴子だった。
酔っているようには見えないけど、少しお酒の匂いがする。
(あれ、もう解散されたのかしら⋯⋯⋯それに、何だか雰囲気が違うような)
「百合、まだやってるの。海外のVIPに贈るチョコレート、苦戦してるみたいね」
「あ……総支配人。すみません、納得のいく味がなかなか決まらなくて……」
百合は慌てて作業台を片付けようとするが、冴子はそれを制し、台の上に置かれていた試作品の小さな一粒をつまんで、ひょいと口に放り込んだ。
じっと味わう冴子。百合は、自分の心臓の音が聞こえそうなほど緊張して、その横顔を見つめる。
やがて、冴子は少し眉をひそめ、百合を真っ直ぐに見つめた。
「……百合、あなたらしくないわね。なんだか、迷いがある味。甘さの中に、トゲがあるというか」
核心を突く言葉だった。
百合の作るスイーツは、いつも優しくて完璧に調和しているはずなのに。今のチョコレートには、百合の想いがそのまま、いびつな苦味となって現れてしまっていた。
「どうしたの?何か悩み事?あなたがこんなスランプになるなんて、珍しいじゃない」
「いいえ……何でもありません。ただの、少し寝不足なだけです。お見苦しいところを……」
百合はそう言って、視線を落として取り繕おうとした。
だが、冴子は「寝不足?」と呟くと、心配そうに百合の顔を覗き込んだ。そして——
「ちょっと、顔見せて」
言うが早いか、冴子は百合の細い肩をそっと掴み、自分の顔をぐっと近づけた。
驚いて息を呑む百合の額に、冴子は自分の額を、コツン、と優しく当てた。
熱を測るための、冴子なりのごく自然な、悪気のない行動。
けれど百合にとっては、世界が止まるほどの衝撃だった。
至近距離にある、冴子の美しい瞳。
お互いの吐息が触れ合うほどの距離。
冴子の額の心地よい体温が、百合の肌を通じて全身に駆け巡る。
あまりの恋しさと切なさに、百合の目元がじわっと熱くなり、涙が溢れそうになる。
「……ん、熱はないみたいだけど。でも、やっぱりちょっと目が赤い。疲れてるのよ」
そう言って、冴子は額を離し、何事もなかったかのように百合の肩をポンポンと叩いた。
「心配だわ。今日はもうおしまい。総支配人命令よ、早く帰って寝なさい。ね?」
そう笑いかけて、満足そうに製菓室を出ていく冴子。
残された百合は、崩れ落ちるように作業台に両手をついた。
冴子の体温が残る額を、震える手でそっと押さえる。
「……ずるい、」
どんなに冷まそうとしても、冴子の一言で、一瞬のスキンシップで、自分の心の温度は簡単に跳ね上がってしまう。
適正温度を失ったチョコレートのように、もう自分の感情のコントロールが効かなくなっている。
それなのに、当の冴子には、好きだと伝えることができない。
溢れてしまいそうになるこの思いを、必死で、我慢しなければならない。
百合は、濁ったチョコレートのボウルを見つめながら、ただ一人、静かに涙をこぼしていた。




