私の知らない貴方
それは、まだ秋の気配がホテルを包み込む少し前の、ある平日のことだった。
その日、私は新作デザートの打ち合わせのため、冴子さんの待つ総支配人室へと向かっていた。
資料を抱えてノックをしようとした、その時。半開きのドアの隙間から、聞き慣れない、けれどどこか冴子さんと対等に響き合う華やかな笑い声が漏れてきた。
「ちょっと冴子、相変わらずその堅苦しいデスク周りね。もう少し華やかにしたらどうなの?」
「沙織、あなたねぇ……ここは私の執務室よ。遊び場じゃないんだから」
呆れたような、けれどどこか嬉しそうな冴子さんの声。
私は思わず手を止めた。冴子さんがあんな風に、プライベートな親愛を滲ませたフランクなトーンで誰かと話すのを、聞いたことがなかったからだ。
失礼にならないよう、もう一度ノックをし、冴子さんに促されてドアを少しだけ開いた。
中にいたのは、冴子さんと同年代のような、洗練された美しいスーツを纏い、ゆるやかに巻いた髪がよく似合う凛とした大人の女性だった。
その女性──沙織という人が、私に気づいてふわりと微笑んだ。
「あぁ、百合。ちょうどいいところに来たわ。紹介するわね、こちらは私の古くからの友人の……沙織よ」
冴子さんは椅子から立ち上がり、私にそう紹介してくれた。
なんでも、ホテルの業務で偶然この街を訪れていた沙織が、昔のよしみでふらっとホテルに立ち寄り、フロントから連絡を受けた冴子さんが急遽部屋に通したのだという。
「初めまして、チーフパティシエの百合です」
「沙織よ。よろしくね、百合さん。冴子から、優秀で可愛い自慢の部下だって……あ、もしかして今のは内緒だったかしら?」
クスクスと楽しそうに笑う沙織さんは、どこか余裕があって、そして何より冴子さんとの距離が異常に近かった。
「沙織、変なことを言わないの。……それで、本当に驚いたわ。最後に会ったのって、いつだっけ?」
「さあ? 確か、私が急に海外の支社へ異動が決まって、空港で見送ってもらった以来じゃない? ……もう、20年以上前かしらね」
20年。
その言葉に、私は内心でハッとした。
冴子さんが私と出会うよりずっと前から、この女性は冴子さんの「特別だった時間」を共有していたということになる。
「20年も連絡一つよこさなくて、よく今さら顔を出せたものだわ」
「だって、こうしてまた戻ってきたんだもの。……ねえ、冴子。今夜、時間が空いてるでしょう? 昔みたいに、二人でゆっくり積もる話でもしましょうよ」
沙織さんはそう言うと、ふっと表情を柔らかくし、冴子さんの肩に親しげに手を置いた。
その仕草があまりにも自然で、長年連れ添ったパートナーかのような親密さを醸し出していた。
私は、手元に抱えていた資料のファイルを、無意識にぎゅっと強く握りしめていた。
(この人は……一体、冴子さんにとってどういう存在なんだろう……)
ふと、沙織さんの視線が私から冴子さんへ、そして再び私へと向けられた。
その瞬間、私は背筋がゾクリと粟立つような感覚を覚えた。
沙織さんの瞳の奥に宿っていたのは、ただの「久しぶりに再会した旧友」に向けるものではなかった。
20年のブランクを飛び越え、再び冴子さんと出会った高揚感。そして、目の前にある「冴子さんの現在の世界」に深く入り込んでいる私という存在に向けられた、鋭くて、熱を帯びた独占欲の混じった視線。
それは、ついさっきまで私自身が抱いていたものと、あまりにもよく似ていた。
「……百合?」
冴子さんが不思議そうに私を呼ぶ声に、私はハッと現実に引き戻された。
「あ……っ、申し訳ありません。資料をお持ちしました」
「ええ、ありがとう。……沙織、少し仕事の続きをしていいかしら?」
「もちろん。邪魔しちゃ悪いし、ロビーのラウンジで待ってるわ。ねえ、冴子、あとで絶対付き合ってよね」
沙織さんはそう言い残すと、艶やかな足取りで部屋を去っていった。
残された空気には、まだ微かに彼女の香水の甘い香りが漂っている。
「ごめんね百合、驚かせちゃって。彼女とはね、昔の同期なのよ。まさかこんなところで再会するなんて思わなかったから……今日はこのホテルに泊まるみたいだから、よろしくね。」
少し照れくさそうに微笑む冴子さん。
その姿を見て、私は胸の奥が締め付けられるような、言い知れぬ不安と焦燥感に襲われていた。
私の心をかき乱す波が、静かに、確実に押し寄せようとしていた。




