百合への尊敬
夜の静けさに包まれた館内を見回りながら、私はふと、製菓部の厨房から漏れる柔らかな明かりに気づいた。
足音を殺して近づき、硝子越しに中を覗き込む。
そこにいたのは──百合さんだった。
一人、黙々と新作のデザートに向き合うその横顔。真剣な眼差しでクリームを調整する指先、凛とした佇まい。
「⋯⋯綺麗⋯」
あぁ、やっぱり。私がこのホテルで一番尊敬してやまない、最高のパティシエ。
品があって、私と違って何処にも隙がなくて完璧な人。
そう。私は百合さんの隠れファンなのだ。
百合さんは美人で落ち着いていて、気品があって、何でも出来てしまう上に努力家。
教わっている製菓部の若手達は皆、百合さんをパティシエとしても、人としても尊敬しているらしい。
なので、このホテルにも私のようなファンはそう少なくない。
きっと、本人はご存じないと思うけど。
思わず見惚れてしまい、ああ、私なんかが見たら減ってしまうかも⋯と顔を下げていたその時だった。
「そこにいるのは……玲さん?」
ハッとして顔を上げると、百合さんがこちらを見つめていつものように美しく微笑んでいた。
慌ててドアを開け、「夜遅くにすみません……!」と弁解しようとした私に、彼女は優しく首を振った。
「ううん、ちょうど今、焼き上がったところなの。
そうだわ、良かったら試食してくれる?」
(……えっ……?)
思考が数秒、完全に停止した。
今、百合さんが作っている最中の新作デザートを……私が、一番に試食させてもらえる……?
心の中で盛大にどよめく歓声を必死に押し殺し、私は震える手で差し出された小皿を受け取った。小さなフォークで一口すくい、口に運ぶ。
瞬間、口いっぱいに広がる繊細な甘さと、計算し尽くされた味わい。
……美味しい、なんて言葉ではきっと足りない。
「……すごい……。百合さんは、本当に……天才です」
気がつけば、心からの称賛が自然と口をついて出ていた。
すると、百合さんはふわりと柔らかく微笑んだ……のだが、その瞳の奥に、ほんの微かに切なげな影が揺れた気がした。
「……ありがとう。でも、冴子さんにも……気に入ってもらえるかしら」
ぽつりとこぼされたその言葉に、私は深く頷いた。
(さすが百合さん、どこまでも仕事にストイックでプロ意識が高い……。)
いつも完璧な総支配人のチェックをパスするために、こうして夜遅くまで努力を重ねているんだ。
「玲さんはいつも総支配人と仲が良くて素敵ね。……あ、」
そして、私の制服の襟元にふと視線を落としたかと思うと、困ったような、お姉さんのような笑みを浮かべた。
「……玲さん。ボタンが外れてるわ」
「えっ……あ、ほんとだ……」
私が自分の首元に手をやろうとするより早く、百合さんがスッと一歩、距離を詰めてきた。
その美しい手つきで、緩んでいたブラウスのボタンに指が触れる。
──近い。近すぎる。
真剣な眼差しで手元に集中する百合さんの顔が、ほんの目の前にある。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼女の上品で甘い香水の匂い。そして、指先から伝わってくるかすかな体温。
(……百合さんの顔、綺麗。いい匂いがする……距離が近すぎて心臓がもたない……)
胸の奥でサイレンが鳴り響く。
顔が沸騰するように熱くなり、私は息を止めたまま、人形のように固まるしかなかった。百合さんにこんな至近距離でボタンを留められるなんて、限界突破して本気で気絶しかけている。
そういえば、お昼も総支配人にこうやって髪を直してもらったけど、百合さんにしてもらう方が何十倍も新鮮でドキドキしてしまう。
(カッコいい⋯大好きなんて思うのも恐れ多い⋯)
「これで良し。……夜の巡回中でも、身なりはきちんとしなくちゃダメよ」
そう言って、百合さんは何も知らずに、優しく微笑みながらスッと体を引いた。
「……はいっ⋯ありがとうございます、百合さん」
必死に声を絞り出したものの、私の顔はきっとトマトのように真っ赤だったに違いない。
百合さんは不思議そうに首を傾げていたけれど、そんな無自覚なところも含めて、やっぱり私の憧れの人。
私は自分の熱を持った頬を両手でそっと押さえ、激しく鳴り響く心臓を必死に宥めるのだった。




