エレベーター急停止②
「———あら、百合も居たの。心配をかけたわね」
エレベーターから降りてきた冴子さんが、ノートを閉じながら何気なく百合さんに視線を向けた。
その声には、いつも通りの絶対的な余裕と、信頼する部下に向けた柔らかさが含まれていた。
「……」
百合さんは、すぐには返事をしなかった。
いつもなら間髪入れずに「お怪我はありませんでしたか?」と上品な言葉を返すはずの百合さんが、ただ静かに、息を止めたように冴子さんを見つめている。
「……百合?」
わずかな沈黙に違和感を覚えたのか、冴子さんがほんの少しだけ首を傾げ、不審そうに眉をひそめた。その瞳にあるのは「体調でも悪いのかしら」という純粋な気遣いだけ。密室で二人きりだった自分たちに対して、百合さんがどんな想いで外で待っていたのかなど、1ミリも想像すらしていない顔だった。
ほんの一瞬、百合さんの瞳の奥で、張り詰めた糸が切れそうなほどの切なさと悲哀が揺れたのを、私は確かに見た。
けれど、百合さんはほんのコンマ何秒かで、完璧な「チーフパティシエ」の仮面を貼り直した。
「……お二人とも、御怪我がないようで、何よりです」
何事もなかったかのようにすっと背筋を伸ばす百合さん。
その声はどこまでも優しく、どこまでも穏やかで、先ほどまで白くなるほど強く握りしめられていた手は、既に綺麗に解かれていた。
「⋯⋯ええ、玲がとても冷静で助かったわ。さて、業務に戻りましょう」
「「「はい」」」
玲が持ち場へ戻る背中を追いかけながら、私はもう一度だけ百合さんの横顔を盗み見た。
完璧な笑顔で冴子さんを見送りながら、その瞳はどこか遠く、決して届かない場所を見つめているようだった。
冴子さんに何も届いていないこと。
そして、玲にも私の想いが何も届いていないこと。
「ねえ涼香、どうしたの?ぼーっとして」
「……なんでもない。行くよ」
百合さんが隠した手のひらには、まだ赤い痕があった。
無邪気に振り向く玲の無頓着さに、胸の奥がチクリと痛む。
私は百合さんの静かな悲哀を胸に刻みながら、届かない人を想う者同士の、苦い溜め息をそっと飲み込んだ。




