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サウロスに言われるがまま、シモンとか言うユダヤ人を無視して屋敷に上がる。
「柄が悪いユダヤ人と付き合いがあるのね、サウロス。まさかあんなのと会わせたかったわけ?」
「はは、まさか。違いますよ」
わざわざ手紙まで寄越してティベリアとローを呼びつけたサウロスが何を狙っているのか。
役に立つかもしれない人と会わせたい。などと要領の得ない手紙だったが、商人としてのサウロスの能力を一応は信頼して二人を連れてきたというのに、出鼻を挫かれる形になった。
「わざわざ渡りをつけてあげたお返しがこれなの?」
「いいえ、会わせたい男というのは別の者です。そして、その件では本当に助かりました。今伝手を作っている所です。そうだ、戦車競技会には興味がおありですか?もし」
「戦車には興味ないわ。サウロス、野心家なのは結構ですけれど、初めから大物を狙ってもそうそう上手く進まないものよ」
この業突く張りの商人は、いきなりローマ最高の権力者の懐を狙っているらしい。
ネロ帝の戦車好きは良く知られているが、下手な剣闘をやるよりも食いつきは良いとしても、それだけで招待を受けてくれるほど、ローマの第一人者は暇ではないはずだ。
伝手を作っているとサウロスは言ったけれども、私が紹介した者自体はそこまで影響力のある人物ではないし、賄賂を受け取るような性分でもない。
もしネロ帝を招待する戦車競技会が本当に開催できるならば、サウロスの手腕はちょっと並のものではないと言わざるを得ない。
「それは残念です。しかしユリア様、物事は総じて上手く進まないもの、百を目指して五十を得れたなら良い方だ。考えうる最高の成果を求めれば、それに応じて益を得られる、というものです」
この男なら、やれてしまいそうな気がする。
付き合いのある商人ならいくらでも居るが、ここまで欲に正直な者はいない。
皆、カエサル家という貴族の名門家を相手に商売することを、内心では恐れている。
ローマの薄汚い部分に大きな影響力を持っている権力者を相手にするのだから、怖気づくのは人間として正しい。カエサル家としては、それを利用している所もある。
しかし、サウロスからは怖気からくる遠慮を一切感じない。解放奴隷相手にサンダルを売るのも、カエサル家相手にサンダルを売るのも同じことだと、この男は本心から思っている。
徹底的な拝金主義者だ。なにもかもを金に換えて考える異常者だ。
だが、それゆえに役に立つ男でもあった。
金に関することであれば、信頼できる。
そして、この男に金に換算できない事柄は存在しない。
それを理解すれば、私とサウロスは、良い取引相手として共存できる。
「信仰よりも商売に熱を上げるとは、嘆かわしい」
そして、勝手に付いてきて小さくつぶやいた老人は、何の役にも立たない男だ。
信仰心を持つことは悪いことではない。
しかし、信仰心を持ってさえいればよい、と考える者には発展がない。
信じていれば良いと満足しているのだから、変化する必要がない。
信じる。というものは、そういうことではない。
殆どのユダヤ人と殆どのローマ人が相容れないのは、きっとここに原因がある。
この手のユダヤ人と付き合いを持っても、私には何の益も無いだろう。
見ていて腹が立つだけに違いあるまい。
シモンは今も機をうかがってローに話しかけようとしている。
不意にローを強奪されそうになったティベリアは、気が気でないらしく、さっきからそわそわそわそわと落ち着きがない。
ウェスタの巫女は名実ともにローマで最高位の神官だから、押しの強い態度を向けられたことがない。
そういう相手の対処の仕方なんて知らないに決まっている。
それでもローとシモンの間を歩き、訳が分からないまでも身を挺して守ろうとしているのだから、ティベリアの強情も大したものだ。
ローは、何も理解していなさそうだけれど。
「温めた果実酒などいかがですか?」
「頂くわ。雑談をしに来たわけではないけれど」
応接間に到着し、勧められるまま席に着く。
「申し訳ありません。あらかじめ昼前には来るように伝えておいたのですが、どういう訳か来ないので、今使いの者を走らせております。まもなくやってくるでしょう」
「そう。で、シモン殿?あなたはお帰りになる所ではなかった?当たり前のように付いてきたけれど、商談の邪魔よ」
流石に椅子に座るのは遠慮して、入り口近くで立っていたシモンと視線が合う。
せいぜい、話が終わるまでそこで待つ。というのが彼の目的だろう。
サウロスがここに来るまでに退席を促さない所を見るに、居ても問題ないのだろうけれど、手持無沙汰に待たせるのも可哀そうだ、暇つぶしに付き合ってもらおうか。
しかし、無礼があれば即座に叩き出してやる。ぐらいは本気の暇つぶしに。
さあ、このユダヤ人はなんと言ってくるのか、お手並み拝見。
「お待たせしまして申し訳ない!いや、助かりました!危うく死ぬところで!おや?こちらにいるのは?」
見覚えのない年若い青年が、わめくようにして応接室に入ってきた。
言っている内容には脈略がない。
捉えどころのない、と言うと擁護しすぎか。頭の悪そうな言動の男だった。
「この糞が!よくも私の前に顔を出せたものだ!」
「ぺっ!」
劇的な動きを見せたのはシモンだった。
青年の声を聴き、顔を確認したと思えば、握りこぶしを青年の脳天に叩き落した。
「何ですか!いきなり殴ることもないでしょう!サウロスさん!この爺つまみ出してくださいよ!」
「何を言うかこの悪魔の手先めが!」
「仕方がないですね。おい、つまみ出してくれ」
使用人が二人掛かりでシモンを引きずっていく。
シモンの青年に対する罵倒は、応接室から引きずり出されても、しばらくは止まなかった。
「失礼しました。二人は師弟関係にありまして、半年ぶりに顔を合わせる機会を作ろうかと思ったのですが、私の知らない間に何か問題があったようですね」
シモンの声が聞こえなくなってから、ため息を一つ吐いたサウロスは、珍しく本当に申し訳なさそうに謝罪した。サウロスに限って言えば、それも演技という可能性は捨てきれないが。
「あの、お怪我はありませんか?いい音がしましたが」
ティベリアが、頭を強烈に殴打された青年を気遣って言葉をかけた。
シモンがつまみ出されたおかげで、周りを見る余裕が出てきたのだろう。
「え?ああ!大丈夫、大丈夫です!いやあ、女神のように慈悲深いお方だ。ありがとうございます」
「あ、いえ。大丈夫ならよいのですが」
青年のティベリアを褒めたたえる言葉がとどまることを知らない。
ティベリアも、若干腰が引けている。
「まさか、この男?」
「ええ、紹介したい男でして」
改めて、青年を見る。
栗色の癖が強い髪を持った、特別珍しくもない顔つきの普通の青年だった。
年の頃は二十代中盤ぐらいだろうか。
外套を羽織っているせいで体格はわからないが、逞しいというような印象は全く受けない。
これまでの言動から、ちょっと、紹介してもらっても困る類の人物のような気がしてならない。
「サウロス。正気なの?」
「ええ、もちろん私は正気ですが。ちょっと自信を失いそうです」
「あんたでも冗談を言うのね」
「紹介しましょう。シモン、少しだまりなさい」
「あ、はい!黙ります」
微妙に困ったような笑顔を浮かべたサウロスが青年に声をかけると、今までの姦しい様子が嘘のように、青年は直立不動に姿勢を改め、静かになった。
突然の変わり身にティベリアも面食らっているし、ローも状況をほとんど理解できていないのが困惑した表情からわかった。
「この青年は、シモン。全ての言葉が分かると言い張る男です」
「本当にわかるんですよ?」
「ついこの間まで、通訳として東方に行ってもらっていたのですが、今年は風の具合もよく、無事帰ってきました。もし本当に全ての言葉が分かるなら、皆さんのお力になれると確信してローマに呼び戻したのです」




