75p1
気にくわない男であるが、商人としての腕は確か。
向く方向が異なるとはいえ、同じ神を信奉する同胞。
何より、気前が良いのがこのサウロスという男の厄介な所である。
「では、新たな集会場の件は、そのように進めてもよろしいのですねシモン殿」
「ええ、よろしくお願いいたします」
これで、我々が負う借金はいくらほどになったのだろうか。
金など我々は持っていない。
しかし、このサウロスという男は、平気な顔をして我々の求める教会を建ててくれる。
この熱心な商人に、将来我々が持つ教会の権益をどれほど抜き取られる事になるのか。
天の国が遠のいてゆく気分だった。
そもそも貧乏所帯で、ローマ人どころか同じユダヤ人からの評判も悪い我々は、土地や建築材を集める金も方法も何も持たない。
ただ同じ信仰心を持ち、正しくある事だけが重要だった。
「重ねてお礼申し上げる。サウロス殿には」
「良いのです。同胞の信仰の助けができることは、私にとっても嬉しいことなのですから」
言葉を遮られるのも、慣れたものだった。
契約は笑顔と共に結ぶけれども、お前らの説法は一切聞かない。という事なのだろう。
サウロスは、契約というものに対してのみ誠実な商人という生き物なのだ。
「では、失礼させていただきます」
「わかりました。すぐに来客があるはずなので見送りはできませんが。シモン殿にいつもの物を」
サウロスの言葉を聞いた屋敷の使用人が、さっと下がって行く。
私は襤褸の外套を羽織って部屋を後にし、屋敷を出る。
その際に屋敷の使用人から、ずしりと重い袋を受け取る。
下らない。
信仰の要石たる私に、袖の下が通用すると思っているのか。
金貨など、そこいらに投げ捨ててしまいたい気分だ。
そして、受け取らざるを得ない私自身が、何よりも下らない。
気が滅入る。
そのことをサウロスに、すっかり把握されているという事が、残念でならない。
サウロスほどの有能な人物が、我々の本当の支援者になってくれたのならば、どれほど心強いか。
私が、金策をせねばならないなど、笑えない冗談である。
「主よ、不明な私をお許しください」
ローマに帰ってきたは良いが、順調とは程遠い。
そもそもローマの民と我々の神の教えは、相性が悪い。
全てを飲み込み、同化することで巨大な国家となったローマには、寛容さ、というものが根源的に育まれている。
それは侵略した国家、民族、地域の神々を排斥せず迎合し、それはローマのものであると定める所にも如実に表れている。
それは勝者特有の、ローマ人の下に付くのであれば、敗者の神も文化もある程度は認める。という、妥協と寛容であろう。
神にでもなったつもりか。
気にくわない。そもそも侵略など下らない。神も文化も認めるのであれば、侵略し奪うことなど下劣の極みではないか。
皆神の元で平等であり、そのような強者の驕りなど、我々は認めない。
唯一絶対の神の元で、我々は生きているのだから。
と、私ですらこう思うのだから、ローマ人も同じようにユダヤ人を悪く思うのだろう。
異なる精神性を持った異なる思想が、共存するのは難しい。
しかし、主はそれを望まれておられる。
特別の力を持たない我が身には大きすぎる試練と思える。
いや、自問自答をしている場合でもなかった。
何をしようとしても、誰しも腹は減る。
私自身も、私の帰りを待つ兄弟たちも、ローマの民も、皆一緒だ。
まずはこの金貨をもって、我々は肉と血とを得なければならない。
胸の悪くなる豪邸を後にしようとすると、二輪車が門前に止まっているのが見えた。
あれは、ウェスタの巫女なるローマの神官のみが使うことができるものだ。
真っ白な、特別上等とわかるパルラを頭から被り、護衛を十一人も引き連れている。
比べることに意味はない。
贅沢は悪ではないが、それを一度得てしまうと、無為に悪徳に誘われるものである。
たった二人の巫女を守護するために、屈強な戦士が十一人もつけられる。
私はこのローマにおいてクリストス派を主宰する者のはずだが、誰一人として護衛などつけられない。
しかし、彼我のまとう布切れ一つ、状況を比べてみても、これだけの差がある。
我々には、物がない、金がない、人がない、あるのは不断の信仰心のみである。
異教の巫女相手にすれ違うにも、頭を下げねば、安心して通り過ぎることもできぬ我が身のなんと哀れなことか!
頭をあげ、歩き出す。
ここに居れば、いつまでも惨めな気分に浸っていなければならなくなる。
一人の護衛の男が巫女達を追ってきていた。
彼にまで頭を下げねばならない理屈はない。
しかと顔を見据えてすれ違い、そして気が付いた。
「お待ちください」
思わず、引き留めた。
見覚えのある顔だったように思う。
「なにか?」
簡潔な、悪く言えばぶっきらぼうに聞こえる言葉と共に振り向いた男は、確かに覚えのある顔だった。
やけに幼げな顔つきのくせに、人並み以上に背が高い。外套のせいでその内にどのような服を着こんでいるのかはわからないが、私が一度しか見たことがない服を着ているに違いないと確信する。
「私の事を覚えておりませんか?」
「あなたを?ん~?私はらて」
「半年ほど前、十四区の辻で私を助けてくれたお方では?いや、見間違える筈もない。私は覚えております。縁もない、利益もない、それなのにあなたは私と老人とを暴力から助けるため身を挺した!さらには、暴力に暴力で応えることなく場を納めた!あなたこそ真に心あるお方、我らの神の教えを体現するお方!まさしく我らの信仰を守護する戦士に違いない。このローマの地で試練に直面し、力及ばないながらも努力し続け、多大な苦労とほんの僅かな成果ばかりを得ていた私にとって、あなたのようなお方がこのローマの地にも存在するという事実が、主のお言葉にも等しい幸福な贈り物に違いないと確信し、非力な我が心の支えの一つとしておりました。どうか私にあの時のお礼をさせて欲しいのです。ああ、ああ!主よ!この幸福な再会に感謝いたします」
「私は、ラテン語が、あまりわからない」
「今なんと!?」
「私は、ラテン語が、あまりわからない」
「それは素晴らしい!あなたは言葉もわからぬような苦境にあってなお、隣人を思いやる清い心を持っているという事だ!そしてなんと幸いなことか、あなたの心の内には、すでに我々と同じようにクリストフの教えが根付いているに違いない。さあ、我らの信仰を守護する戦士殿、あなたほど父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるに相応しい者はおりません。聖なる名は本来であれば聖霊が授けるものですが、私には聖霊の声を聞くことができません。ですのでどうか私に、あなたの聖なる名を名付けることを許してほしい。なに不安に思うことは何もありません、あなたであれば必ず我々と心を一つにできると確信しております」
「ローマの民を惑わすのは止めてもらえますか、ユダヤ人。ユダヤ人よね?」
ぴしゃりと冷たい言葉が投げかけられ、私の発火したような熱意は、急速に温度を下げさせられた。
声の主を探せば、先ほどすれ違ったウェスタの巫女の二人組がこちらを向いている。
随分と身長差がある二人であった。
一人は比べてみると見習いのようにも見える。幼い体躯を精一杯伸ばして、私の事を興味なさげに眺めている。
もう一人は、困ったような笑顔でこちらを見ている。
強敵だと直感する。
笑顔で辛辣な言葉を吐ける者は強い。
体と心の内を別々に、効率的に操ることができるという事だ。
「確かに私はユダヤ人ですが」
「どこ見てんのよ、私が言ったのよ」
「は?」
不機嫌そうに顔を歪めた背の低い巫女が私に向かって歩み寄って来る。近くで見てみれば、確かに小柄だが、小柄すぎるというほどではなかった。
もう一人の巫女が、女性にしては背が高すぎるのだ。並の男よりも上背がある女性などそういない。
「私はウェスタの巫女であるユリア。そちらの男性はロー。所用のため同行させていますが、彼も女神ウェスタに仕える立場。無粋な勧誘は謹んで貰いたいものね」
可愛らしい外見とは裏腹に、発された声は徴税官の言葉並に冷酷で、痛いほどに皮肉げだった。
かっと頭に血が上るのがわかった。
思わず懐剣に手を伸ばしそうになって、もう若くないのだからと、立場ある身なのだからと、相手はウェスタの巫女なのだからと自分に言い聞かせ、頭を下げた。
「これは失礼をいたしました。私はシモンと申します。田舎者ゆえの不調法をどうかお許しいただきたい。されどもここローマにおいては信仰とは自由な物。それは例えいずれかに仕えていようとも変わらないはず、このお方が我らの神を信奉する機会を得たとして、誰がそれを責められましょうか」
ならん、と思っていても言葉が口を突いて出た。いつまでたっても治らない私の悪癖だった、気が短く、思い込んでしまえば自制が出来なくなる。
何度師に改めるように言われたことか。
「ユダヤ人が自由を語るか。確かに、それは認めましょう。ローマに住まう者はいかなる神を信じても許される。ですが、あなたは何も見えてもいなければ、聞こえてもいないご様子。しかとローの事をご覧になれば、あなたの言う自由がいかに空虚な物かわかるはず」
「何をおっしゃる?」
「今からでも彼の事を良くご覧になってみたらいかが?彼があなたの言葉をどれほどを理解しているとお思いか?あなたの先ほどの行いは入信の強要と取られても不思議はないほど強引な物だった。彼が自らの意志であなたの神を信じるというのなら、私にそれを止める権利はない。ですが、何も知らない、何もわからない相手に新たな信仰を強要するなど、真っ当な神官の行う事ではない。ローマの平穏を守護するウェスタの巫女として、そのような暴挙は見逃せません。しかし自らの行いの非を認めすぐに立ち去るのであれば、不問にしましょう」
この娘、愛らしいイエネコかと思えば、口を開けば獅子の類である。
一撃で痛い所を突いてくる。しかも加減するつもりもないらしい。
ユダヤ人は問題を起こさない限りはローマで生活することができる。それは法で定められているから、保証されていると言ってもよい。
しかし、ローマ人から陳情が行われれば、儚くも消え失せてしまうかもしれない程度の保証でしかない。
信仰上の相性の悪さからユダヤ人の印象は悪い。
信仰に関係する部分でユダヤ人は絶対に妥協できない以上、別の部分で妥協しなければならない。
ユダヤ人はローマ市民にもならず、義務も負わない代わりに大した権利も持たない。
住む場所だけを間借りしているような状況である。
ローマという国とユダヤ人はそのような契約で同居を認めているが、ローマに住む一般のローマ人たちからすれば、我々ユダヤ人は、何の責任も負わないくせに大きな顔をしているだけの異邦人である。
同じ土地に住み、同じ責任を負うという連帯感すら持てない有様なのだから、この関係の悪さは当然といえる。
もし、ここで私が引かず、このユリアというウェスタの巫女が本気で対処する気なのであれば、私が全てのユダヤ人からこの豊かなローマで生活する権利を奪ってしまうことになる。
それは、絶対に避けねばならないが、私とて、ただいたずらに年を重ねてきた訳ではない。
圧倒的強者がもたらす苦境も、逆境も、慣れ親しんだものでしかない。
ただ言い負かされるなどありえない。
正しさは常に主と共にあり、この場合においては私と共にあるのだから。
「皆さまそんな所で何をしているのですか?」
いざ反論しようとするが、いつもと変わらぬ笑顔のサウロスが使用人に連れられて、珍しいことにわかりやすく呆れた声を出していたので、どうやらユリアというウェスタの巫女との問答はお流れになったらしかった。




