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私は、予想外の同伴者を得て、別宅の中に入る。
管理人を起こし、気を回されるのも嫌だから、静かにローと名乗った男を庭に連れ出す。
庭の手入れは万全だったが、今日に限って言えば、完璧ではなかった。
お気に入りの椅子と、つまみや果実酒などを置くための小さな机があるだけの質素な庭。
椅子は一つしかない。そしてそれは私の座る椅子だ。
椅子がもう一つ必要だと感じて、別宅の中から気軽に持ち運びできる椅子を選んで庭に出す。
景観の素晴らしい庭で、小さな机を挟むようにして椅子が二つ並んでいる光景は、私の心に小さくない感動をもたらした。
「ロー、それに座って待っていてくれ」
「?わかった」
私の言った通りに椅子に腰を下ろすローを横目で確認し、少しだけ急いで飲み物とつまみを漁る。
水差しと取っ手の付いた酒壺、杯を二つ用意する。つまみは、いや、今日はいい。語り合いにつまみは無粋だ。
小さな机にそれらを置いて、まずは客人をもてなすために声をかける。
「果実酒は?」
中にはそのまま飲む好き者もいるが、このままでは甘すぎるので、水で割るのが当たり前だ。しかし、どの程度で割るかは人それぞれ。
一般には既に水で薄めたものが流通すると聞くが、ここには、そんな安物は無い。
「果実酒?」
もしや、果実酒を知らないのか。
そう思って果実酒の入った酒壺をローの目前に差し出し、香りを嗅がせる。果実の豊かな香りと、すっと抜ける様な酒精の香りが鼻を過ぎれば、これが何かはすぐにわかる。
「っ、果実酒はいらない」
嫌そうに顔をしかめたローは、そう言った。
面白い。私が勧めた果実酒を、いらない、と断られるなんて初めての経験である。
「水ならどうだ」
「水なら良い」
並べた杯の、片方には水だけを、もう片方にはちょうど半々ぐらいで割った果実酒を注いで、水の入った杯をローに手渡し、私も自分の杯をもって椅子に座る。
「ローは何処から来た?」
程よく薄められた果実酒で喉を潤し、そう尋ねる。
西方か、東方か、北方か、もしくは南方か。
黒髪は珍しくない。肌の色も、月明かりで白く見えることを加味しても、やや明るい程度で居ないほどではない。背の高さも高いには高いが、目を見張るほどではない。
しかしどうみても、ローはローマ人ではない格好をしているし、顔の作りが根本的に異なるように見えた。
であれば、どのような場所から来たのかと興味がわいた。
「ジャパン、あー、ヤパン?」
「ヤパン?」
聞かぬ名だった。
ローマにそのような名前の土地は無い。近隣諸国にも、そのような名前を持った国はない。
「それは北か?南?それとも東か?」
「?わからない」
自身がどこから来たのかわからぬ者が居るはずがない。ゆえに、言葉が分からないのだろう。
言葉が通じないというのは、不便なものだ。これでは満足に話も出来ない。
思わず、空を仰ぎ見る。
きらめく星々が、視界一杯に広がっていた。
そも、既に比肩する物がない大国であるローマ、その主要な言語であるラテン語が通じないことがあろうとは。
ローはどれほどの辺境からやってきたのか、いや、このローマの影響を全く受けないような遠方からやってきた、という可能性もあるか。
「あれは北極星。カリストの腰の真上にある。最も強い輝きを持つ星だ。北極星がある方向が、北」
星を指さしながら、ローに話しかける。
方位の教え方は、これ以外に思いつかない。
どこからローマにやってきたにせよ、旅人であれば北極星ぐらいはわかるはずだ。方位を図る方法も知らず旅に出るなんて命知らずであれば、その限りではないが。
古くから北極星は方位を知るための大事な目印で、その知識は、ローマだけに限らないはずだった。
「あれが北?」
「北だ」
「あっちから来た」
「東か」
「東?」
「あっちは東だ」
「東から来た」
東方か。
東方と言えば、交易だ。最近は陸路よりも海路が主要交易路になっている。
アルメニアの動きが不穏であるとの報告もあったはずである。どうせ、パルティアが余計なことをしているに違いない。
陸路も、海路も、それぞれに問題がある。改善困難な問題が。
そして、莫大な貿易赤字には頭が痛い。内需で取り戻せるため国庫は痛まない、とはいえ、ローマの金貨が東方に流れるばかり、というのはどうにかならないものか。
かといってティベリウス帝が行ったような緊縮政策は、私が目指す豊かなローマの生活とは程遠い。
ゆえに、交易を断つという選択肢は取りたくないし、上質な東方の品々が手に入らないとなれば、有力な貴族や権力者たちが、何をしでかすか分かったものではない。
理想は、ローマからも金貨が取り返せる強い特産が供出できる環境を作り上げ、東方の外交問題の解決を図ることだが、いずれも簡単には進まないであろう。
胸の悪くなるような悩み事を、果実酒で飲み下ろす。
自分で果実酒をつぎ、水で割る。
「大きな水の、あっちから来た」
大きな水。
海か。
私は海を渡った経験はないが、貿易の報告はもれなく確認しているから、知識として知ってはいる。
特にまだ若い海路に関することは、可能な限り新しい知識を得るため、現場からの報告書も上げさせている。
その向こう側から来た。
と言っても、近くには我らの海があり、東方には黒い海、赤い海があるし、もっと向こうには、アラビア海もある。どのあたりから、とローに尋ねても理解しないだろう。
まて、このローという男、海案内記にサータヴァーハナで取引したと書かれていた、ティンという絹の産地の商人の特徴と似ているのではないか。
確か、癖のない艶やかな黒髪と、ローマ人よりも白い肌、凹凸の少ない幼げな顔つき。前合わせの服を腰帯で留めた姿は、海案内記に記された取引相手と同じ特徴である。
人の姿など、いくらでも個人差というものがあるが、民族に共通する特徴というものも確かに存在する。
もし、ローがその絹の産地に住む民族の出身なのだとすれば、とてつもなく遠い所からやってきた、ということになる。
「そうか」
果実酒をあおる。
どうして、そのようなことになったのだろう。
国を追われるような悪事を働いたか。
違うだろうと即座にわかる。
見るからに純朴そうな、邪気をまるで感じさせない男である。
では、自ら望んでローマにやってきたのか。
それも、違うような気がする。
まっとうな精神を持ち合わせているのであれば、言葉に不安がある異境に、わざわざ危険な旅をしてまでやってくる者は居ない。
何か確かな目的があるのであれば、言葉を学んでからやってくる。ぐらいの慎重さは持ち合わせておくべきではあるまいか。
どのように考えても、どうにもしっくりこない。
何か理由があって、仕方なくローマに流れ着いた、そんな不自然な印象を受ける。
であれば、なんと、不憫な。
知らぬ土地、知らぬ文化、頼れる者も多くはあるまい。
その苦痛たるや、いかほどのものだろう。
どれほど心細いであろう。
そう思ってしまうのは、私の生い立ちと立場ゆえだろうか。
果実酒をつぎ、水で割る。
一息で飲み干して、もう一度果実酒をつぐ。
椅子に腰かけ、深く息を吐く。
疲労ゆえか、酒精が頭に回るのを感じる。
少し駆け足で飲み過ぎたか。
しかし、飲まねばやっていられない。
素面で話せる話ではない。
そういう話を、私はしようとしている。
ローの方へ顔を向けようとするも、首が思うように動かせなかった。
瞼がやけに重たく感じた。
しかし私は、この男に、私と同じような状況にあるローという男に、言ってやりたい言葉があるのだ。
その苦労は、よくわかると。
私もお前と同じだと。
力になれることがあるのなら教えて欲しいと。
私の、友になって欲しいと。
ネロ・クラウディウス・ドルススと言う名の一人の男は、そのように言いたかったのだ。




