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よくよく考えてみれば、夜に仕事を探しても、見つかる訳がない。
ローマの夜は、はっきり言って寝る時間である。
もしかしたら、という気持ちで出かけてみたものの、灯りがついているのは、酔客に溢れた酒場、やたらと薄着の女性が大勢いる様な店、もしくは、足を踏み入れる事すら気が引けるやたら立派な建物ばかりで、俺の現在のラテン語力では勤めることが難しそうな場所ばかりだった。
ローマの街を何の当てもなく彷徨って、何の収穫も得られず、帰路につく。
本当ならば薪割りを終えてから午後に仕事を探そうと思っていたのだが、なぜか毎日だれかしらに連れ出され、自由な時間がまったく持てなかったのだから、仕方がない。
今の状況が続くのであれば、午後の自由な時間に何か仕事をする、という思惑が根本から崩れることになる。
困った。
お金は欲しい。
とりあえず必要な物は、剣闘の報酬でどうにか賄えたが、刀の手入れに使う油を始めとした消耗品もいくらかある。
いずれ、金は尽きる。
しかし、どうやって稼げばいいのか。
やはり、刀を手放すか。
いや、それはちょっと、かなり嫌だ。
ローマの治安がかなり良さそうだとは言え、日本ほどではあるまい。
今までに刀を使う機会がなかったからと言って、これからも使う機会がない保証はないのだ。
もし何者かが刃物を持ち出して来ても、こちらも刃物を持っているぞと態度で示せるのは大きなアドバンテージになる。
腕を組み、うんうん悩みながら歩いていると、テルティウスさんの勤め先である立派な建物が目前にあることに気が付く。
今日も、誰かが竈の番をしている。
白いひらひらした服が竈の炎に照らされて、何となく幻想的な雰囲気をまとっているように見えた。
明日も、朝から薪割りの手伝いをしなくてはならない。
食事と寝床の恩を僅かでも返せるのは、現状では薪割りと簡単な家事手伝いぐらいであるから、これらの手を抜くことはできない。
「はぁ」
ため息が漏れる。
月明かりに照らされた、地面が視界に入る。
盛り場まで足をのばして、何も得られず帰ってきただけ。
すさまじい徒労感だ。
無駄に体力を消耗しただけ、と思うと途端に嫌になりそうになる。
帰ろう。そして寝よう。夜の仕事探しは、時間の無駄に違いなかった。
視線を道の先に戻し帰ろうとすると、何か動くものが、すぐそばにある大きな石造りの建物から出てくるのが見えた。
月光に青白く染められた、ひらひらした布。
ティベリア達が外出時、頭にかぶる布と同じものだろうか。
であれば、あれは女性なのだろう。
その女性は、よどみなく歩き始めたのだが、傍に同伴者の姿はない。
こんな夜中に、女性が一人で出歩くなんて、危険なのではあるまいか。
余計なお世話かもしれないが、気づいてしまった以上、放っておくというのも気分が悪い。
声をかける、というのも俺のラテン語力では面倒だし、あの女性が目的地に到着するまで、何かあったら即座に飛び出せる程度の距離でこっそりとついていくことに決めた。
女性はすたすたと歩みを進めた。
どれほど歩いたのだろう。すでにテルティウスさんの屋敷に到着して、そこからまた勤め先に行けるほどは歩いている。
傾斜を上る。女性にしてはなかなかの健脚のように思う。
周囲の建物が、ずいぶんとまばらになってきたのが印象的だった。
ここいらは市街地とは違って、建物でぎっちり、という感じではない。余裕のある空間が確保されていて、なんだか高級住宅街みたいな印象を受ける場所だった。見たことはないけれど。
「誰だ」
不意に声を掛けられ、緩んでいた気を引き締め、声の主を探すと同時に、周囲の様子を伺う。
剣呑な声色を発したのは、前を歩く女性に違いなかった。
女性にしては低い、どこか重い雰囲気すらまとった、存在感のある声だった。
「私をプリーンケプスとわかっているのか?」
振り向いた女性の顔の殆どは、白い布で隠れていて見えない。
どのような表情をしているのかは、伺えない。
知らない言葉が混じっていて、なんと言ったのかも、完全には理解できない。
しかし、俺に対して、並みならぬ警戒感を抱いていることだけは、はっきりとわかった。
そうだよね。
俺、よく考えたら、ストーカーみたいなことをしている真っ最中な訳だ。
女性が警戒するのは当然だ。バカか俺は。
「ごめんなさい。私は、悪い人ではないです」
自分の語彙力が貧相であることを、こんなにも不安に思ったのは、いつ以来の事であろうか。




