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執務室に入ってすぐに、クラウディア様が私に向かって手招きをした。
「ああ、ティベリアはそこで。少し待っていてください、すぐに済みます」
私と一緒になって歩き出そうとしたティベリアを、クラウディア様は少し困ったような顔で制止した。
はて、私はどのような用事で呼び出しを受けたのだろう。
ティベリアの説明にならない説明によると、何かを確かめるために、私が呼ばれているという話だったが。
もしかすると、何かローに関わることで問題が起きたのだろうか。それも政治的に対処しなければならないような段階の大問題が。
少し、体が、緊張で強張るのを感じた。
「ユリア、もっと近くに、耳を貸してください」
至極真面目な表情のクラウディア様は、何か重大なことを口にしようとしているに違いなかった。
優しさをそのまま形にしたような風貌。落ち着きのある完璧な振る舞いは貴族の子女として見ても別格としか言いようのない風格を生み出している。
しかしその風格が、誰かに重圧を与えることはまれである。ささやかなうっかりや失敗を自ら演出し、どんな相手でもたてることができるその優しさと気遣いは、まさしく神の采配のごとしであり、すべてのローマ人が理想とする母親像とは、このクラウディア様以外には存在すまい。
ローマで最も頼もしく、同時に最も恐ろしい女傑が、当代のウェスタ神官長である。
その女傑が、躊躇いに瞳を揺らされている。
どんな問題が起きたというのだろう。
口に出すのも憚られる、そんな致命的な、取り戻すことが難しい、この私にすら言いにくいことだというのだろうか。
クラウディア様の頬が、ほんのりと赤く染まる。
そんな場合ではないと理解しながらも、言いようのない艶っぽさを見せられて、思わず喉を鳴らしてしまう。
目を見張るほどの美人だ。しかも可愛らしい。そんな本来相反するであろう要素が、クラウディア様には同時に宿っている。はいはい、良いです、わかりました。カエサル家はウェヌスの末裔の自称を捨てます。クラウディア様にさしあげます。
いや、そんな些末事はどうでも良い。今は、クラウディア様が言いよどみ、赤面させるような、とんでもない大問題を受け止めるための、心構えを整えなければならない。
もう、私とクラウディア様の距離は、通常であればありえないほどに近い。
それこそ、クラウディア様の吐息がかかりそうな距離である。
なぜ、この人はこんなにも良い香りがするのだ。質素を至上とする巫女の慣習から、不要な香油、つまりは贅沢と思われる芳香用の香油や香水など、クラウディア様は一滴たりとも使っていない。つまり、この香りはクラウディア様自体の香りと言うことになる。
本当に人間なのかこの人は。
もしや、神では?
末裔がどうこうではなく、美の女神そのものなのでは?
「ユリア、その、ティベリアは、どこまで理解しているのでしょう?」
クラウディア様は、下手をすればこの距離でも聞こえないほど小さな声で言った。
常ならざる距離まで近づいた距離、未だ赤みの引かない上気した頬、鼻孔をくすぐる言いようのない良い香り。耳朶を撫でるように打つささやかなつぶやきは、まるで睦言のような色を持っていた。いや、実際に聞いたことはないのだけれど、詩的な表現として。
誰に言い訳しているのだ私は、阿呆か。
「何をでしょうか?」
私は阿呆な考えを一まとめにして捨て去り、極めて小さな声で聞き返す。
「その、ええと、い、異性の事を」
「は?」
私があまりに予想外だった言葉が理解できず、普通の声量で間抜け声を出してしまった。
「声が大きい!」
クラウディア様が咆哮する。
クラウディア様が誰かを叱りつける時以外で、こんな大きな声を聞くのは初めてのことかもしれない。
さらに驚いたのは、思わず離れてしまった距離を、クラウディア様が私の肩を抱く形で縮めたことだ。
すごい圧迫感。どこがどこによって圧迫されているのかは考えまい。しかし、あと少し時間がたてば腕がしびれてしまっている危険性があるとだけ覚悟しておこう。
「し、失礼しました。それで、ユリア、あなたならティベリアが、その、どれっくらい、い、い異性について知っているか、わかるでしょう?」
「はあ、まあ多少は?」
年頃の娘ばかりが集まっているのだ、気楽なお喋りの時間においては、その手の話題も少なくない。無論巫女として問題のない程度の清らかな、文字通り、穢れの知らない可愛らしさを感じる程度の下品さである。
別に、特別私が穢れているとか、そういうことはない。私とて、胸を張って清らかな乙女であると宣誓できる。
しかし、私は陰謀の巣窟たるカエサル家の娘である。
多忙ゆえに気の立った男連中の下品な話を耳にする機会は、巫女たちに比べれば、桁違いに多い。
何より決定的な、主にそのせいであろうと予想のつく明確な原因が一つある。
それも、カエサルが残した遺産。
有力者の妻を買収し構築した独自の情報網である。
女好きで有名だったカエサルだが、実際はそうではなかった。
カエサルは生来浮気性のローマ男にしては珍しく、一人の女性を愛することを好む男だったという。
ではなぜ、女好きなどと言われるのかと言えば、カエサルがそう見える様に振る舞ったからである。
一時では元老院議員の三分の一は妻を寝取られたのではないか。とまで言われている。
不倫に見せかけ、堂々と密会をし、夫に不満のある妻たちに報酬を渡しては、表沙汰にならない秘密を無数に買っていたのだ。
無論、思う所があるとはいえ、自身の夫を喜んで売る妻はいない。夫の失脚は自身の失脚に等しいからである。
だからカエサルは、無理に夫の秘密を買うことはしなかった。他の誰かの秘密を買っていたのだ。
その秘密も重大な秘密事ではない。ささやかな秘密である。
どこの誰の帰りが、最近遅くなった。だとか、急に羽振りが良くなった。だとか、その程度の事であった。
しかしそれらの無数の秘密を分析し、独自に調査しなおし、裏を取ってから、政敵に逆風を吹き付ける。カエサルがしたのは、言ってしまえば、ささやかな嫌がらせである。
一人や二人に嫌がらせ程度のことをしても大きな効果はない。
しかし、元老院議員の三分の一の妻がカエサルに秘密を提供したとして、横のつながりを重視する閉じた政治の世界で、その秘密の情報網から逃れられるのは、どれほどの数だろうか。
秘密を一つ売れば、もう一つ、もう二つと売ってしまうのは人の性だ。まして、そもそも夫に不満を持つ、しかし知性的な妻たちなのだ。誰かにバレることはなかった。
そして、カエサルに敵対する元老院議員のほとんどすべてが逆風に立たされたなら。
そんな明らかに異常な劣勢に立たされた政敵たちはどう思うだろうか。控えめに予想しても、生きた心地がしなかったであろう。
カエサルは手に入れた秘密を人質に、より苛烈な手段を選ぶこともできたが、それはしなかった。
この妻たちの情報網が、カエサルにとって有益だったからである。
元老院議員が入れ替われば、新たに議員になった者の妻とも交渉しなければならない。それは余計な手間に違いなかった。
だからカエサルは、敵対する政敵たちの秘密をつかみ、生かさず殺さずの絶妙さで力を奪い、自身の確かな地位を獲得したのだ。
そして、その秘密の情報網は、今も形を変えて生きている。
カエサル存命中に比べれば規模こそ小さくなったものの、有力者の妻の協力を取り付ける方針は変わらず、愛人のように、友人のように、あるいは師弟のように、複数の担当者が役割を分担し、秘密の入手を続けている。
無論、私にもカエサル家の人間として役割を与えられている。
幼少時の私に苛烈なまでの厳しさを見せた、礼儀作法や立ち居振る舞いの師である、ユリア・ルフス伯母様。伯母様の元で私と苦楽を共にした年上のクラウディア・パルブス。この二人から他愛ない噂話などを聞くのは、私の重要な仕事の一つであり、今でも欠かさず月に一度は話を聞きにお邪魔している。
私にとっては、二人とも長い付き合いのある気心の知れた相手だ。
しかし、当然すでに既婚者である二人は、私が何も知らないと思って、そういうことを平気な顔をして吹き込むのだ。
初めの内は素直にそんなものかと納得していたのだが、あまりにもよくわからないことを吹き込まれた際、果たして本当にそんなことがあり得るのか、と興味を覚え兄に尋ねると激しく叱られた。
以後はそういうことも、きちんと自分で勉強することにしている。
だから、私が他の姉妹たちの下品な話を可愛らしく思ってしまうほど耳年増なのは、断じて私のせいではない。
大して知りもせず、思わず口にしてしまい大恥をかく。なんてことを防ぐ為に学んでいるのであって、他意はない。
「そ、それで、どの程度の?」
私が反応を返さないことに焦れたのか、クラウディア様は頬を一層赤く染め、おずおず、という擬音が聞こえてきそうなほど慎重に、質問を重ねた。
「人並み程度、ではないしょうか。子供が神々から授かる物だとは思っていない。とは思いますが、そこはティベリアですから、話は聞いていても、きちんと理解していないかもしれません」
「では、ローが男性だということに気が付いていない可能性は?」
「流石にローを女性と見間違えるような事は無いと思いますが?」
「そ、そうですよね」
「根本的に、男性というものに実感がわかないのでは?何せ、若い男性と接する機会など、そうありません。ウェスタの巫女が顔を合わせる男性は、皆様かなり年上ですから」
「ええ、ええ、そうでしょう」
「若い男性はいろいろと持て余すもの、とは話で知っていても、実際には見たことがない。だから実感がわかない」
「も、もてあます。ええ、はい。そうですね」
「所で、どうしてこのような話を?」
「実は」
クラウディア様は、私にだけ聞こえる程度の小さな声で、事の顛末を説明してくれた。
ティベリアは、ローを連れて市街を散策し、より効率的に言葉を教えようとここ数日頑張っていたらしい。
なるほど、ティベリアは何もわかっていない。
ウェスタの巫女の処女性は堅持されなければならない。疑われることすら、本来ならば、あってはならない。
自分が、下手をすると、カンプス・セレイタス送りになりかねないことをした。と本人だけが気付いていない。
せいぜい、そうする必要があるからそうした。良い考えだ。ぐらいしか考えていないのだ。
実際、ティベリアとローが二人で出かけたとして、何か間違いが起こるとは思わない。
けれども大切なのは、他人から見られたらどうなのか、という一点のみなのだ。
次から次へと、よくもまあ問題を起こす。
何も察せず、のんきに私たちの話が終わるのを待っているティベリアの穏やかな表情が、微妙に腹立たしい。けれども、それでこそ。とも思ってしまう私も相当なものだ。
脅すようにして説明すれば、一時的には改善されるのだろうが、ティベリアがきちんと原因を理解していなければ、その内にまた似たような失敗をするに決まっている。
しかし、少し説明した程度で、ティベリアが理解を示すとも、行動を改めるとも思えない。
であれば、何か対応策を講じなければ、本当に問題になってしまう。
「では、こういうのはどうでしょう」
私は、思いついたことをクラウディア様に説明する。
クラウディア様も、私の考えに賛同してくれたので、早速その準備を始めなければならない。
まずは、周知徹底を図るのだ。
ぽかんとした顔のティベリアの脇腹をつつき、執務室から出る。
そしてクラウディア様は、ティベリアに特別指導をしなければならない。これは長くなる。お疲れ様です頑張ってください。
さあ、また、忙しくなってきた。




