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サムライフローマ  作者: いぬっころ
第二章 気がつけばローマ市民
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 私は、トーガをパルラのように着直して顔を隠し、堂々と外に出る。

 誰も、私がこのように女性の真似事などしてまで外出を企てるなどとは思わないだろう。

 今の私は、さながら清廉な巫女のように見えるに違いなかった。

 その証拠に、今まで誰からも声をかけられたことがない。

 目指すのはエスクイリヌスの丘。ローマの七丘の内で最も高さがあり、ローマが始まったその時から、ここに住まう人々を見守り続けた偉大なる丘。

 私の一番のお気に入りの場所。

 静かに考え事をするには一番の場所である。

 太陽に照らされたローマを眺めるのも素晴らしいが、月光に照らされたローマは、格別の美しさを見せつけてくれる。

 恐ろしい暗闇の中、広々と広げられた都市部が月光をささやかに照り返し、その存在を堂々と主張する。

 ローマの礎となった過去の偉人たちと、ローマに住まう人々すべての祖先が作り上げたものである。

 私はそれが何よりも美しく、愛おしいと感じる。

 偉大なる神々と先人に倣い、ローマを守り、更なる発展を促すのは、私に与えられた最も優先すべき使命である。

 たとえ、最も信頼するブッルスを失った直後であっても、それは揺るがない。

 たとえ、当代一の知恵者であるセネカが保身に走り、責任ある立場を放り出した直後であっても、揺らいではならない。

 たとえ、二人の後任達が、自己の利益ばかりを求める野心家で、実務的には無能な愚か者ばかりであっても、何とかしなければならない。

 私はローマの第一人者。誰よりもローマを愛し、ローマのことを思い、ローマのために働かなくてはならない。

 だが、どうやって。

 ローマは、すでに比肩するもののない大国。一人の英傑が牽引しなければならないような状況にはない。そのことは、私のような凡才の者が第一人者に据えられていることから明確だ。

 誰が好んで十六の若造を第一人者に据えるのだろう。

 浅学の若輩者をローマの代表に据える。このことに大きな意味を見出すのは、権力欲にどっぷりと浸かった野心家だけであろう。

 私にとって不幸なことは、そのローマ最大の野心家が、実の母であったことである。

 母は聡明で、政治的感覚に優れた人物であった。男性であれば、かの神君カエサルに匹敵する優れた政治家として、栄光あるローマの歴史にその名を刻んだであろうことは想像に難くない。

 第一人者の母であることを利用し、思うが儘に権力を行使したが、かの神君カエサルほどの自制心は持ち合わせていなかったために、三年前、自らが重用したセネカによって暗殺され過去の人となった。

 母が暗殺されたことは、実の息子として悲しく思いもするが、私は自身の私的な感情で行動することはできない身である。

 セネカは優秀な政治家であったため、そのまま私の腹心として働いてもらっていた。

 そのセネカもすでに第一線を退き隠棲している。

 公私にわたり私をよく支えてくれた最も信頼するブッルスも、既にいない。

 とにかく人が不足していた。

 大国であるローマに外敵はすでにない。目下最大の難事であったブリタニアの件は、去年一応の決着がつき、現在は安定化を図っている段階だ。

 しかしローマの敵は内側にある。

 優秀な者は、互いの陰謀で無駄に命を散らして数を減らし、少しでも賢明で自制心のある者は、政治の舞台に上がってこようとはしない。

 そうして私の周囲には野心ばかり持ち、実力はからっきしの有象無象ばかりが集まる結果になる。

 こうした状況が、民衆の政治に対する関心を奪い去る。享楽に耽り、探求を蔑ろにする。この精神の堕落こそが、やがてローマを衰退に導く最大の敵であると私は考えていた。

 強欲が身を破滅に導くことは、歴史を紐解けばすぐにわかる。その破滅を受け入れられないのであれば、自らの強欲を自制する力が必要だ。

 幸いなことに、私には第一人者という立場がある。その自認と責任の重さ故に自制心を持つことは難しいことではない。

 しかし、ローマの民すべてに立場を与えることはできない。

 答えの出ない問いかけを続けるうちに、目的地のエスクイリヌスの丘に作った私的な、極めて小規模な別宅(ドムス)に到着した。

 遅い時間であるため、管理人を起こさないよう静かに庭に出る。

 庭は十分に管理が行き届いており、ローマの都市部を見下ろすことができる位置に簡素な腰掛椅子が一つだけ用意されている。他には何もない。何もいらないのだ。

 なぜ人は、ささやかな幸せで満足できないのだろうか。

 こうして、一人で簡素な腰掛椅子に座り、この世の物とは思えない美しい月を眺め、自分の果たすべき責任に思いを馳せる。

 それだけで十分ではないだろうか。

 いや、違う。

 私にも欲はある。

 もしもこの場に、もう一つの腰掛椅子があり、そこに何の気負いもなく本心を晒し、一晩語り合える友人が座ってくれていたならば、どれほど幸福だろうか。

 それはどれほど満ち足りた気分になるのだろう。もう忘れてしまったような気がする。

 しかし、居ない者は居ない。無い物は無い。

 それは悲しく、心細く、なんと切ないことだろう。

 無いことを無いと諦めることが、どれほど難しいことだろう。

 神殿の柱を一本減らせと言われたならば、建築家は途方に暮れる。

 柱は必要だから、そこにある。石材がないから諦めろと言われても、そのままにすることはできない。

 そのままにした神殿は、そう遠くないうちに崩れてしまうから。

 人の心も同じこと。

 全体がみすぼらしくなろうとも、つっかえ棒の一本でも入れてやらなければ、心配で見ていられない。

 人の心の不足してしまっている部分を、何かが支えてやらなければならない。

 ローマの民に疫病のように蔓延する精神の堕落を食い止めるためには、そういう何かが必要だ。

 私には、特別な才能は何もない。

 画期的な閃きも、誰しもを牽引する統率力も、ローマの第一人者として望ましい能力のほとんど全てを、私は持ち合わせてはいない。

 ゆえに私は歴史を学んできた。

 歴史とは、挑戦の証明であり、偉業の記録なのだ。

 凡才の身ではあるが、過去の偉業からいくばくかを学び取り、必要な部分を組み上げることは、根気さえあればどうにでもなる。

 神話、伝説、寓話、逸話、国史、戦史、無数の記録を私は知っている。

 物語とて、例外ではない。

 その中でもローマの民ならば誰でも知っているアエネーイス、その原点であるイーリアス。それらは燦然と輝く英雄たちの物語で、登場する英雄たちは、ローマ人にとっては憧れの肖像と言ってよい。

 憧れは具体的な目標となり、目標は自身の心の不足した部分を埋めてくれるかもしれない活力を生み出す。

 ローマ人は、今こそギリシアから学ばなければならない。

 ギリシアが重視した優れた学問、優れた芸術、優れた肉体。これらのいずれも心を満たす要因足りえると私は確信する。

 ゆえに私は、学問の探求を奨励しよう。芸術の発展を推奨しよう。肉体の鍛錬を欠かさぬ習慣を生み出そう。

 学問も、芸術も、すでにローマに根差して久しい故に、土壌はできている。若い世代が才覚を表すのもそう遠い未来ではなかろうと思う。

 しかし肉体の鍛錬には、どこか否定的な気風がある。それを改善するには、やはり、第一人者の一手が必要になるだろう。

 次の議会でこそ、体育館の建設案を通して見せる。

 政治下手の私が案件を通したいのなら、事前の準備が不可欠だ。真摯に目的と利点を説き、万事慎重な姿勢を崩さない元老院議員の共感を得るため、努力しなければならない。

 今までは、その手の準備が得意なセネカがいた。

 今は誰もいない。

 そう、誰もいない。

 私が、一人でなんとかしなければならない。

 気分が落ち込むのを、確かに感じた。

 頭上に輝く美しい白銀の月すらも、浮かない顔をしているように思える。

 私は、あの空に浮かぶ月と同じだ。

 傍らに自らと等しく輝く物は無く、いつもいつも悪目立ちしている。

 振る舞いの定まった役者のように欠け、満ちる。

 つまらぬ演目だと罵られようとも、期待外れだと失望されようとも、独演会を終わらせることも許されない。

 月とて、好きであのように振る舞う訳ではあるまいに。

 月と太陽は友だろうか。せめて、そうであればよいのに。

 たとえ顔を合わせることがなかったとしても、友があれば、独りで演じることにも耐えられよう。

 では、月ではない私は?

 私には誰がついていてくれるのだろうか。

 ローマを背負う責任は重い。重すぎて、凡才な我が身では背から降ろせないほどに。

 だから私は支柱にならねばならない。皮膚が重みに悲鳴を上げようとも、耐えきれず肉が裂けようとも、せめて骨でローマを支えよう。

 私の後に続いてくれる者が現れるその時まで、私は一人でもローマを背負い続けるのだ。

 だが、でも、やはり、責任を分かち合うとは言わないまでも、せめて。

 愚痴を聞いてくれる友人の一人ぐらいは、求めても許されるのではないだろうか。

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