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赤みのかけた、どこか物足りないカレーを、俺は駆け足気味にかき込む。
やはりどこか味気ない気がする。いや、原因はわかりきっている。
福神漬けを買い忘れるなんて、俺はなんてバカなのだ。福神漬けのないカレーなど、面をつけ忘れて剣道の試合に臨む様なものだ。おいおい冗談だろ、それで試合ができるかよ。と冷やかしの声を頂戴するに違いない。
「これは美味いな!」
「うん、美味しい」
進藤と勇姫は、甘いと言うには甘すぎるカレーが気に入ったのか、スプーンを忙しなく動かしている。
父さんは、やはり蜂蜜を追加中だ。それはもうカレーではなく、カレー風味の蜂蜜なのではないか。という所で、ようやっとカレーは洗礼の如く頭から蜂蜜をかけられる苦行から解放される。
「おかわりもあるから、遠慮しなくて良いぞ」
「おははい」
凄まじい速さで一皿目をたいらげた進藤は、俺の言葉を聞くなり空の皿をつき出す。
おかわりをして貰えるのは嬉しいものだ。美味しく作れたという何よりの自信になる。
だがせめて、らっきょうがあれば、もう少し素直に喜べたのだが。
「進藤、ご飯もルウもまだある。安心しろ」
進藤の皿を預かって台所に戻る。
ご飯をよそって、ルウをたっぷりかける。一杯目があの勢いなら、余る心配はしなくてよさそうだ。冷蔵庫はすかすかだが、無理に明日に回す必要もない。食べたいだけ食べて貰うのが良い。
待たせるのも申し訳ないから、さっさと居間に戻って進藤に二杯目のカレーを差し出す。
「ん、茹で卵はもう無いのか?」
「あれは最初だけだ」
「そうか」
見るからにしょんぼりした様子の進藤を見ると、なんだか申し訳なく思う。けちけちせずに茹で卵を用意するべきだったのかもしれない。
用意した全てのご飯を平らげるのに大した時間はかからなかった。ありがたい事にご馳走様のご唱和を頂いた俺は、食器を片付けてしまう事にする。
話があると言っていた当の本人が、腹を撫でさすりながら、勇姫と楽しげに話し始めたからだった。
話の内容こそ洗い物の水音で隠れてしまい切れ切れに聞こえる程度だが、どうも、俺に関わる話で盛り上がっている。進藤という男は人懐こい性分らしく、試合の時の印象とは随分違う。
皿を洗い、調理器具を洗い、水切り台にさかさまに置く。明日の朝には渇いているだろうから、乾拭きしたり、棚にしまったりはしない。
次は炊飯ジャーの内釜を洗って、明日の朝食分の米を用意する。
「進藤!家に連絡はしたのか?」
ふと、気になったので声を張り上げる。
『おう、したぞ。もう遅いから勝太郎さんが泊って行けって』
聞いて良かった。明日の朝食の米は三人分だ。
「そうか、わかった」
進藤が泊るのであれば、時間にかなり余裕が持てる。これを済ませたら、進藤にも風呂に入って貰う事にしよう。
手早く米を研いで、内釜を戻す。炊飯ジャーの蓋を閉め、タイマーをセットする。よし、問題なし。
最後の確認を終えると、夕食後すぐに風呂に向かったらしい父さんが、ちょうど風呂から上がってきた。
「進藤、風呂だ」
『おう』
「着替えは、俺ので着れそうだから持っていく。風呂場にあるシャンプーとかは好きに使ってくれ。あと、洗面台の棚に予備の歯ブラシとかがある。話は一息ついてからにしよう」
寝間着に着換えた父さんが居間に戻ってきて、進藤を風呂場まで案内してくれるようだったから、進藤が使うであろう物を用意してから、俺は勇姫を家まで送る事にした。
勇姫は家に来た時、迎えを呼ぶ事はまずない。
すでに日も落ちているし、早く帰りたいだろうと親心を発揮して、初心者マークの張られた我が家の自家用車で勇姫を倉内家まで送ったのだが、とても微妙な表情で、とてもではないが本心と思えない感謝の言葉を頂戴した。
考えてみれば、俺が運転免許を取得した事を秘密にしていた事が不満だったのだろうか。言う機会がなかっただけで他意はまったくなかったのだと、次に顔をあわせた時に謝ろう。
さほど時間もかからず家に戻ってくると、進藤は父さんが振舞ったらしい棒アイスを咥えながら居間でテレビを見ていた。
「自分家かよ」
「おう、頂いてるぞ。夏はやっぱりアイスだな」
「ああ、わかるよ。暑いからな」
進藤が咥えている棒状のアイスが、例えば、俺の食べる予定の物だったとしても、そんなささやかな事で怒ったりはしない。客人はもてなされるのが仕事である。
そう考えれば進藤は正しい行いをしていると言ってよい。でも、お前ちょっと、あまりにもくつろぎ過ぎじゃないか?
「父さんは?」
「勝太郎さんなら、客間の用意をしてくれてる。風呂いいぜ」
「そうか、わかった」
俺は進藤の言葉に、何となく納得いかない感じを覚えながらも、風呂に入る。
進藤は存分にくつろいでいる様子だったが、そもそも進藤は俺に用事があって家に来たのだから、と思いなおして入浴は手早く済ませる。
風呂から上がれば、客間の用意が済んだらしい父さんが、風呂掃除を買って出てくれたので、進藤に声をかけた。
「もう良いのか?」
「ああ悪い。待たせたな。で?」
両足を伸ばしてくつろぎきっていた進藤は、とたんに姿勢を正して真面目くさった表情で口火を切る。
「お前は強い」
俺は、進藤が何を言いたいのかが理解できずに、呆然とした。
俺にとって進藤の発言は、あまりにも唐突な言葉だった。試合で負けた相手にお前は強い。などと言われても、頭の中が混乱するばかりだ。
つきっぱなしのテレビから聞こえてくるバラエティ番組の司会者が、持ち味の辛口な冗談で爆笑を誘っているが、俺が欠片も笑えないのは、進藤の発言の意図が読めないせいなのか、それとも進藤の真剣な表情に呑まれてのことなのか判断がつかなかった。
「少なからず、俺よりは強い。絶対に」
進藤は聞くのにも苦痛が伴う様な声を絞り出して、真っ直ぐに俺を見ている。
その様子を見て、俺はさらに混乱した。
「俺には進藤が何を言いたいのか、わからないんだが?」
俺の本心からの言葉を聞いた進藤は、一瞬考える素振りを見せて、真面目な表情のまま唸り始める。
「ん、いや、そうか。そうだな、あー、オレはこう見えて結構強い」
「知ってるけど?」
唸りながら言う進藤から、先ほどまでの尋常ではない雰囲気が失せていたから、俺はなんだか肩の荷が下りた気分になって気軽に答えることができた。
今の進藤は微笑みじみた表情すら浮かべている。
「そうか、一年の時に米沢の小さい大会で試合した事を覚えているか?」
「ああ」
「オレとお前の初めての試合だったが、オレが負けた」
「ああ、俺が勝ったな」
その時試合をした相手の中で、進藤の強さが際立っていたので、覚えている。
試合と、稽古は全くの別物だ。試合の経験は試合でしか積む事ができないと考えて、当時の俺は多少距離が離れていても参加できそうな大会には積極的に参加していた。
勝ち上がればいろいろな相手と試合ができる大会は、とても勉強になったし、試合の度に発見があって面白かったのだ。
進藤は思い出話がしたいのだろうか、高校生活もじきに終わる。そういうセンチメンタルな気分になったとしても、おかしくはないのかもしれない。
「悔しかった」
俺は、自分の恥ずかしい思い違いを後悔した。
進藤の表情から、真剣な雰囲気が現れていたからだった。
俺はまたしても発する言葉を失ってしまう。
「同世代の相手と戦って、オレの腕前では全く通用しない。と感じたのは初めての経験だった」
「そのくせお前は、決勝で俺が負けた事がないような相手に、ころっと負けた」
「悔しがっている様な様子もない」
「ただ、楽しんでいる様な雰囲気しか見てとれない」
「ふざけるなと思った」
「俺は、毎日毎日バカみたいに竹刀を振るって、ようやっと自分でも満足できそうな程度の腕前になったっていうのに」
「剣道を遊びか何かと思っている様な奴に負けるなんて信じられなかった、そんな奴が俺より強いなんてムカついた」
「だからオレは、それからもっと稽古を頑張った。新庄良一郎の脳みそを叩き割ってやると意気込んでな」
「一年の時は試合する機会は何度かあったが勝てなかった。二年の時は一度も試合で当たらなかった」
「そのうちお前を大会で見かける事もなくなって、剣道をやめたか、腕がなまったかしたのだろうと諦めもした」
「でも高校最後のインハイ予選でお前の名前を見つけた時は嬉しかった。またどこか適当な所でころっと負けるんじゃないかと心配もしたが、お前は決勝トーナメントまで上がってきてくれた」
言葉を切りながら、進藤は喋り続ける。
「なあ、あの試合はなんだったんだ?オレの剣道は全国でも通用したぞ?そのオレの小手面を文句なしに完璧に外させておいて、お前は何であの時オレに負けたんだ?」
「勝ちを譲るつもりだったのか?俺は本当はお前に勝てるんだぞとでも言いたかったのか?真面目に剣道をやる気がないなら試合に出ないでくれよ」
加減の感じられない辛らつな言葉は、それだけで本心からの言葉だろうとはっきりわかる。
進藤心一は今日、この場で、剣道を剣術の稽古の一環としか考えていない新庄良一郎という不心得者を、脳天から真っ二つに斬りに来たに違いなかった。
俺は、確かに頭をかち割られたような衝撃を受けた。




