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サムライフローマ  作者: いぬっころ
第二章 気がつけばローマ市民
41/122

41

 大嫌いな病院から外に出ると、俺は大きく深呼吸をする。

 あの湿ったような、温いような、薬臭い不快な空気を吐き出したいのだ。

 新たに肺に入り込むのは、湿った海風を太陽光とアスファルトが温めた海沿いの街特有の夏の空気。

 むっと来る湿度、汗が噴き出る温度、僅かに混ざった磯の香り。

 不快度は病院内と良い勝負だった。


「ああ、暑いなぁ」

「うん、汗が気持ち悪いー」


 空調により完全に管理された病院内から外に出たせいで、二人とも一気に汗を噴き出していた。

 すでに学生服の上着を脱いで手に持ち、ワイシャツの第三ボタンまで外している俺はいくらかマシだが、セーラー服姿の勇姫は見るからに暑そうだ。

 勇姫はあまりにも急に汗をかいたせいか、セーラー服の胸当ての部分を指先でつまんで、ぱたぱたと風を送り込み涼をとっている。

 勇姫がどんな風に涼をとっても自由だし、本来なら俺がどうこう言う事ではないのかもしれないが、その行為を始めてから、ちらちらと肌着が見えている。俺がすぐ隣に立っている事を忘れているか、全く気にしていないかのどちらかに違いない。

 暑いのは理解できるが、さすがに目に余るので注意しようと決心する。

 しかし、どのように指摘するかが、なかなかに難しい。安直に肌着が見えるぞと、事実を指摘すれば変に照れてへそを曲げるに決まっている。

 だから、俺は冗談めかして言う事にする。こういう場合は直接的な言葉と態度を使って見せるのは悪手に違いないと俺は経験から知っている。


「こら勇姫ちゃん、はしたないからやめなさい」

「それ、良子さんの真似?にてなーい」


 俺の下手くそなモノマネを可笑しそうに笑いながらも、勇姫は胸当てから手を離した。

 無事目標は達せられた。これで帰りの道中、勇姫の肌着がすれ違う人たちの視界に映る事はないだろう。手のかかる幼馴染である。


「残念、祥子()()()の真似です」


 勇姫を叱るうちの母さんなんて俺には想像できない。だから、これは勇姫の母である祥子()()()の真似のつもりだった。二人とも勇姫の事を勇姫ちゃんと呼ぶから、勘違いしたのだろう。

 俺はモノマネが得意ではないので、伝わらないのは仕方がない。しかし目的は上手いモノマネを披露する事ではなく、勇姫の無警戒さを注意する事にあったのだから、下手でも糞でも何でもいいのだ。


「うちの母が、姉さん呼びを強要させてごめんなさい。似てないけど」


 勇姫が冗談めかして言う。

 俺としては姉さん呼びを求められる事に対して、特に不満はない。のであるが、個人的には姉さんと呼ぶよりも、()()()と呼びたいという欲求がない事もない。

 祥子姉さんの見た目は、勇姫の姉と言われれば、なるほどと信じるほどには若々しいのだが、通年ぴしりと着物をまとう姿はどこぞの若女将の如しである。

 倉内家が管理する幾つかの会社の代表取締役は、書類の上でこそ金勘定をすると眠くなると言って憚らないおじさんではあるものの、実際的には祥子姉さんなのだから、思わず姐さんと呼びたくなるような風格も納得せざるをえないだろう。


「別に良いよ、とっくに慣れた。帰ろう。歩いたほうが涼しい」

「うん」


 外では、二人横に並ぶようにして歩く。当然、自称モテ男一直線のありがたい教え通り、俺は車道側だ。

 今まで必要になった事は一度もないが、俺は勇姫の幼馴染であると同時に護衛役でもある。

 本当なら勇姫に先を歩いて貰い、俺が後ろについて行きながら、周囲に気を向けるのが最も望ましいと思っているが、勇姫がそれは絶対に嫌。と徹底抗議の姿勢をとったので諦めた。

 何が嫌なのかは尋ねていないので不明である。理由をきちんと尋ねたとしても、絶対に嫌、という結果がどうせ変わらないので尋ねない。基本的に勇姫の言う通りにしていれば、泣かれる事もないし、怒られる事もないのだ。

 通い慣れた感のある病院から最寄り駅までの道のりには、中々の都市っぽさがある。田圃と小さな商店街があるだけの家の周辺とは異なり、道路は一車線じゃないし、車の行き来もなかなかに激しい。当然田圃は一切ない。

 駅までは徒歩数分程度の距離だから、二人で会話をしていればあっという間に到着してしまう。


「良」

「なに?」

「進路決まってる?」

「山形大学」

「なんか意外。道場は?」

「今すぐにでも道場継ぎたいんだけどな、父さんが教員免許取ってこないと継がせないって」

「そっか」

「勇姫は?」

「わたしも進学」

「頭良いもんな、将来は祥子姉さんの後を継いで女社長か?」

「それは、いさみ姉さんが継ぐでしょ」

「竜兄の名前が出ないあたり、倉内家は揺るがないな」

「竜兄は米バカだから」

「いや、うん、竜兄の作った米。美味いよ。うん。毎年新米をありがとう。あ、いさみ姉さんは元気?最近道場来ないけど」

「今EU」

「EU!?」

「国はちょっとわかんない。EUにウチの酒の旋風を起してやるゼ!って行ったっきり、連絡よこさないし」

「はー、すげぇな。相変わらず」

「うん、相変わらず」


 特に深い考えもなく言葉を交わしていたが、勇姫の声が沈んだ雰囲気を含んだものになったことを俺は聞き逃さなかった。

 駅を目前に控えた横断歩道の信号が赤になる。

 勇姫は少しうつむいていたから、信号を見ていないに違いない。

 赤信号をそのまま進みそうになった勇姫の腕を捕まえて引きとめる。


「え?」


 倉内いさみは勇姫の姉で、俺が竜兄と呼んで慕う倉内竜一の妹、倉内家三兄妹の二番目、倉内家の長女。バイタリティ溢れ出る天才にして暴走機関車。あの人を止めるには燃料切れを待つ以外の方法はない。

 高校に入学してから大分改善されてきたとはいえ、生来内向的な勇姫が、正反対とも言えるような実の姉に対して、少し思う所があるらしい事を俺は知っていた。

 話の流れとはいえ、歩きながらいさみ姉さんの話をしたのは俺の失敗だった。

 ごうっと空気を押しのける音を響かせながら大型トラックがすぐ傍を走って行く。

 夏の空気と排気ガスの臭いが混じり合って、極めて不快な空気を俺と勇姫に叩きつけていった。

 まったく、ぞっとしない。

 何がと言えば、俺自身が勇姫を危険な目にあわせかけたと言う事実が、である。

 祥子姉さんは、末娘の安全を心配して俺に同行を頼んでいると言うのに、俺が原因を生みだしてどうするのだろうか。

 しかし、自称モテ男一直線の言葉もバカにできない所がある。車道側を歩いていて本当に良かった。

 たった一歩分でも、勇姫が俺よりも車道から遠い位置に居てくれたおかげで、問題なく勇姫の腕を掴む事ができた。どんなことにも意味があるのだと感心する。


「ばかたれ、ちゃんと前を見て歩きなさい」


 おどけた調子を装って、勤めて平坦に言う。


「う、うん、ごめん」


 勇姫は気の抜けた奴ではない。呆ける事は稀だと断言しても良い、普段は割りとしっかりしている方なのだ。

 しかし俺と居る時の勇姫は、心なしか無防備な雰囲気があるのも事実だった。幼少時に道場で顔を合わせて以来、何かと世話を焼き過ぎたのか、俺が問題を解決してしまうのが勇姫の中で当たり前になり過ぎているのかもしれない。


「で?勇姫の志望大学どこなんだ?」


 今も俺らしくも無く、勇姫がささやかな失敗で済んだ事を気にし過ぎないようにと、ほとんど反射的に道化を演じる自分がいる。おじさんの母さんに対する過保護ぶりをバカにできない有様である。

 目を白黒させている勇姫の腕をそっと離して、何もなかったかのように話を続ける。


「え、米沢の栄養大学だけど」

「栄養大学って何を勉強するんだ?」

「栄養学とか、食文化とか、食べ物関係で色々かな」

「料理人にでもなるのか?」

「調理師とはまた違うけど、それもいいかも」

「料理、できるのか?勇姫が料理してる所を見た事ないが」

「これからできるようになるもん」

「なるほど。今は、できないと」

「いいの!練習してるし!良が料理上手だから大丈夫!」

「意味がわからんぞ」

「だから!第一志望は良のお」


 またも大型トラックが目前を通り過ぎる。

 がらがらと盛大に吼えるエンジン音が勇姫の言葉をかき消してしまった。

 直後、蒸し暑い夏の空気と、不快な排気ガスが俺と勇姫に勢いよく吹きつけられる。

 会話に集中していた勇姫は、大型トラックの接近に気が付いていなかったらしく、口を半開きにしたまま固まっている。

 横断歩道の信号は、すぐに通行可能を示す青に変わった。信号が変わりそうだったから急いで通り抜けたのかもしれない。まったく、危ないからそういうのはやめてほしい。


「すまん。聞こえなかった。だからなんだって?」

「別に、何も、言ってないもん」

「そ、そうか」


 勇姫は暑さのせいか、少しだけ顔を赤くしながらそう言った。珍しくイライラした様子で駅を目指して歩きだす。

 普段なら、気の短い奴ではないのだが、今日に限って言えば無理もないのかもしれない。

 八月は一年で一番気温が高くなる月で、雨の多い土地柄、湿度も高めだ。つまり、夏は不快度指数がぐんぐん高まる。しかも今日は間の悪い事に、今年最高気温を記録しているらしい。

 気候の事は、生まれてからずっと変わらない事とは言っても、慣れると言う事もない。暑いものは暑いし、イラっとするものはイラっとするのだ。そんな時もあるだろうと受け止めるのが、良い幼馴染と言うものだろう。

 しかし、俺の考えなど一かけらも知らない勇姫は、会話をする気分ではなくなってしまったらしく、んーとか、むーとか唸っているのがすぐ隣から聞こえてきた。

 気もそぞろな勇姫は通学用の定期を鞄から取り出すのを手間取っていたから、俺は一足先に改札で定期を提示する。

 電車が到着するまでまだ時間があるので、いつもと同じようにホームに設置されている椅子に座って待てば良いだろう。


「置いて行かないで」

「なら手を引こうか?子供の頃みたいに」


 勇姫が不機嫌そうに俺の袖をつまんだ。

 当然のことながら護衛として、ずっと勇姫と周囲に注意を払っていた。信号の事もあったし、たいして離れてもいない。俺が、ほんの数歩先を進んだだけである。

 改札で少し空いた距離が、暑いせいでイラついた勇姫には耐えられなかったのかもしれないが、不機嫌にさせてしまった正確な理由は、よくわからない。


「座って待とう。ほら勇姫も、座らないのか?」


 より一層顔を赤く染め、機嫌を悪くした様子のまま固まっていた勇姫が、俺のすぐ隣に腰を下ろした。冗談とはいえ、流石に子供扱いし過ぎだろうか。怒らせてしまったかもしれない。


「冗談だ、もうそんな年でもないよな」


 今のは、ふざけ過ぎた俺が悪い。悪いと自覚すれば、謝罪は早い方が良い。長年にわたる付き合いで、勇姫の性格は把握している。変に意地っ張りな所がある勇姫には、俺が率先して謝った方が、仲直りは早く済む。

 下を向いて顔を赤くしている勇姫からはなんの返事もない。

 こうなってしまえば、俺ができる事は少ない。機嫌が直るまで話しかけ続けるしかない。適当な、どうでも良い様な些細な話題で場をつなぐ。

 勇姫が黙っているから、と俺まで黙りこむと、勇姫は結構な確率で泣きだしてしまう。

 電光掲示板についている時計を確認すれば、帰りの電車が到着するまで十分以上ある。明日も一緒に登下校するのだから、不機嫌なままでいられるのは、俺も気分が悪い。

 ご機嫌取りが良い感じの時間つぶしとなり、電車は時間を感じさせずに到着したが、勇姫の機嫌は真赤になっている顔色から察するに、回復する事はなかったようだった。

 俺の顔を伝う汗は、きっと今年一番の気温のせい。だけではないに違いなかった。

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