42
俺と勇姫の他には、指折り数える程度の乗客しかいない。がらがらと言っても良い電車内で、適当な座席に腰を下ろす。
勇姫はいつもと同じように俺の隣に腰を下ろしたので、手荷物は足元に置く。
空調が機能しており、電車内は快適だった。
目的の駅までは、各駅に停車しながらも十分前後で到着する予定である。
家に帰れば、腹をすかせ夕食を心待ちにしている父さんが待っているはずだ。
帰る途中、商店街に寄って、夕食の材料を買って行こう。たくさん買い貯めしても、うっかりしていると冷蔵庫の中でダメにしてしまうものが出てくる。それはあまりにももったいない。
だから、できるだけその日の食事の材料は、その日に買うのが母さんが入院中の習慣になっている。どうせ平日は学校に通うのだし、下校ついでに買い物を済ませるのは大した手間とは思わない。土日は逆に学校に行く用事がないから、買い物の時間を作る事はむしろ容易だった。
「今日はカレー。明日の朝は和風だから、魚の切り身でも買えば良いな。あ、豆腐も」
「良は女子力が高すぎると思うんだよね」
俺の独り言に勇姫がすねた様な反応をした。顔色は落ち着いて来ているし、思ったほど機嫌は悪くないのかもしれない。電車内を涼しく保ってくれる空調様に感謝である。
「まあ、習慣だ。家事なんて慣れてしまえばどうにかなる。勇姫も練習しているなら、すぐに上達するんじゃないか?」
昔から母が入院する度に、俺と父さんで家事をこなしてきたせいだろう。一般的な男子高校生よりはできる自信はある。
「良のカレーかぁ、良いなぁ食べたい」
「食いに来るか?別にかまわないぞ?」
「え、悪いよ」
「二人分作るのも三人分作るのも、大して変わらないな」
「いや、でも」
「ちなみに米は竜兄の米だから、タダだぞ。新庄家の食費が異常に安いのは、主に倉内家のお陰だ」
遠慮している様子の勇姫に、俺は事実だけを告げる。
我が新庄家では、俺が覚えている限り、米を買った事がない。
なぜなら、新庄家には米俵がある。その米俵は、倉内家から頂いたものだ。それを食べきれば、次の俵が倉内家の白い軽トラックに乗せられ運ばれてくる。それが無くなればまた次の俵が。
別に食べきった。と報告している訳でもないのに、米が無くなったその日に、白い軽トラックを運転した竜兄がやってくるのだ。
はっきり言って、異常だと思う。
昔、きちんとお礼をしなければならないと、試算した事がある。
父さんも俺も日常的に激しい運動をしているせいか、米を良く食べる。
毎日二人で一升は消費する。なんと新庄家のキッチンには、朝用、昼用、夜用の炊飯ジャーが用意されているのだ。どうせなら常に炊きたてを食べたいと言う、父さんの一存で決定した。
母さんは食が細い方なので、誤差の範囲内で収まってしまう。
毎日一升の米を消費した場合。
一か月で約三十升。
三十升は三斗であるから、四分の三俵。
一俵は六十キログラムだから、新庄家では毎月約四十五キログラムの米を消費する計算になる。
一年間では五百四十キログラム。つまり九俵である。
九俵とは、あの誰もがイメージする米俵九つ分である。
九俵あれば三段積みができる。さぞ写真映えする事だろう。
お店で良く見る十キログラムの米袋に換算すれば五十四袋だ。販売店の一角並みである。
当然ながら、竜兄の丹精込めて作った米が不味い訳がないので、一袋ちょっとお高めの五千円の米だと仮定した場合。五千円かける事の五十四袋となり、年間で二十七万円となる。
一袋五千円と仮定しなければ、もっと高いはずだ。安いと言う事は無いだろう、もっと目玉が飛び出るほど高い米なのではないかと疑っているのだが、竜兄は絶対に米の値段だけは教えてくれない。
それをタダで貰っている。俺が物ごころついてからずっと、である。
ただの学生である俺が、個人的に返せる値段ではないと絶望したのは、良い思い出だと思う事にしている。でないと、勇姫に思わず敬語を使ってしまうかもしれない。
たとえ、倉内家の人たちから剣道の月謝は受け取らない、いつでも自由に道場を使ってよい。と言う事になっているとしても、ウチの道場の月謝は一人一万円なので、毎月最低二、三人はみっちり稽古を受けに来てもらわないと割に合わない。父さんとおじさんが親友同士で、どちらの家も剣道一家と言って良い家庭だとしても、忙しい倉内家の人たちが、そもそもみっちり稽古に出れる訳もない。
ただただありがたく、申し訳ない。
だから、倉内家の人を新庄家に招いて食事を振舞う。と言うのは、言ってみれば使い古された苦肉の返礼策の一つなのだ。少しでも、僅かでも機会を見つけては恩返しをする。
当然、料理上手の母さんほどではないが、俺も料理ができる。勇姫が食べたいと言うのであれば、断る理由は何一つないのだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「おう」
「お母さんに電話しないと」
「電車降りてからな」
「わかってる」
勇姫は今までの様子が嘘だったかのように、ご機嫌な様子になった。
ふにゃりと笑い、体を小さく左右に揺らしながらカレーカレーと連呼している。
そんなにカレーが好きだとは知らなかった。
勇姫の肩が、俺の肩に当たる。
流石に、はしたないと思ったのか、勇姫はすぐに姿勢を正して落ち着きを取り戻した。
「ところで、甘いカレーは平気か?」
「普通は辛さを聞くんじゃない?」
「父さんは辛いのダメなんだ」
「そうなの?でもなんか、らしいかも」
「ちょっと尋常じゃないぐらい甘いぞ?」
「大丈夫。甘いの好きだし、良の、いつものカレーが食べてみたい」
「そうか、わかった。蜂蜜も忘れずに買わないと」
「蜂蜜で甘くするの?」
「カレーにも入れるけど、父さんは気分次第で甘口カレーに蜂蜜をかける。減ってたから足りないかもしれない」
「そんなに?」
「そんなに」
とりとめのない話で盛り上がっていると、目的の駅に電車が到着した。
二人とも慌てて電車から降りる。降り過ごすと、大変な事になる。何せ一時間に一本程度しか、電車が運行していないのだ。次の駅で折り返そうにも、歩いて降り過ごした駅を目指した方が早い可能性がある。
太陽が傾いてきているとはいえ、まだまだ気温は高い。そんな中勇姫を歩かせるのはかわいそうだ。
電車を降りて、顔なじみの駅員の前を、定期を提示する代わりに声をかけてから通る。都市部に比べて大して利用者のいない駅など、すぐに顔を覚えられて顔パス状態になってしまう。便利だが、それでいいのかと思わなくもない。
駅の周りは、このあたりでは一番栄えている。商店街があるし、住宅も多い。
栄えているとは言っても、しかし、それだけである。少し道をそれれば田圃、農道、田圃の無限コンボである。
米処として、それなりに名の通った土地柄か、非常に牧歌的な風景が延々と続く。
駅前で横断歩道の信号待ちをしている間、勇姫は祥子姉さんに電話をかけて夕食を新庄家で食べる許可を得たようだった。一応俺も電話を代わって貰って、様式美の言葉を交わし、勇姫に携帯電話を返す。
横断歩道を渡ってしまえば、すぐに商店街だ。馴染みの店ばかりが並んでいて、俺と勇姫が並んで歩いていると、冷やかすような調子の声を必ずかけられる。
「またお嬢とデートかい?いいねぇ、美人な嫁!うらやましい」
「今日はカレーなんで牛肉を」
「スルーかよ、まあ、良いけどな、毎度」
「お!新庄の坊主!ウナギだ!ウナギにしろ精がつくぞ!夜の方もばっちりだ」
「朝食でウナギは重すぎでしょ。あ、そのサバ開いて下さい、一尾」
「お嬢も坊主が元気な方が嬉しいよなぁ?ああはいはい、悪かった。サバな、ちょいと待っててくれ」
「玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ。今日はカレーだな!剣術小僧」
「正解です」
「しかしこれだけだと色合いが悪い。ブロッコリーをおまけでつけてやろう、茹でて載せると良い」
「ありがとうございます」
「いつも一緒に買い物とは、仲睦まじいこってすなぁ」
親切にしてくれるのはありがたいのだが、何度否定しても俺と勇姫が交際している前提で話しかけられるので、少し疲れる。冗談半分でからかっているに違いないので気にしないようにする。
小さなスーパーで蜂蜜とその他の物を買い求めて、まずは勇姫を家まで送り届ける。
見慣れた倉内家の立派な屋敷は、蜂の巣を叩き落とした様な騒ぎになっていた。
立派な門の外にいても家の中の声が聞こえてくる。
『俺も良一郎の手作りカレー食べたい!食べてみたい!俺も勇姫と一緒に行く!』
『バカをおっしゃい!竜一!あなたお兄ちゃんでしょう!我慢なさい!』
『母さんだって食べてみたいだろう!?いっそ皆で一緒に行こう!』
『それはもちろん食べてみたいですが、ダメです!邪魔になります!自重なさい!』
『食べたい!食べたい!食べたい!』
『ダメったらダメ!』
漏れてくる話を聞くと、どうやら竜兄がカレーを食べたいと騒いでいる様子だった。
なんだか、申し訳ない気分になってきた。そこまで俺の作るカレーが興味深いのだろうか。
『勇姫が良くて、なんで俺はダメなんだ!?』
『そんな事もわからないのですか!』
『ああ!全く!わからない!』
『そんなことだから!あなたはいい年して独身なのですよ!』
『それは関係ないだろ!?』
『いいえ大ありです!いいですか』
「ちょっと!止めてくるね。良。ちょっと待ってて。絶対中には入らないで、ここで待ってて」
「あ、うん。わかった。待ってるよ」
勇姫は急に大声を出して門に取り付けられているインターホンを押した。思わずぞっとするような笑顔を浮かべながら俺に待っているように言った後、風の様な速さで門の脇にある小さめの通用門を開けて家の中に入って行く。
自分の家に入る時にインターホンを押す者は居ない。インターホンを鳴らすのは客人だけだ。つまり、勇姫はあの騒ぎを治める為、来客の存在を知らせるインターホンを鳴らしたのだ。
客人が来た。という状況で、先ほどの様な騒ぎを続ける事は難しいものがあるだろう。なかなか機転の利いた行動に、俺は感心した。
『お母さん!竜兄!ちょっと声が大きいんじゃない!?』
勇姫、お前も負けてない。
さながら雷でも落ちたかのように、倉内家は静寂に包まれた。
しかし、俺の作るカレーが大騒ぎの原因になってしまうとは夢にも思わなかった。そうまで言って貰えるのならば、竜兄にカレーを振舞ってあげたいものだが、生憎とタイミングが悪い。
母の入院が露見しかねない。それは、ちょっと困る。
「おや、良一郎。そんな所でどうしたんだ?中に入りなさい。勇姫はもう中かな?」
「あ、おじさん。今上がりですか?お疲れ様です。勇姫は中です。俺はここで待つように言われてます」
勇姫の言いつけ通り門の前で待っていると、少しくたびれた作業服を身にまとったおじさんが、肩にかけた手拭いで汗をぬぐいながらやってきた。田圃の見回りから帰ってきた所らしい。
「なんでそんな事に?結構な大荷物じゃないか。麦茶の一杯ぐらいご馳走するから上がっていきなさい」
そう言うおじさんは通用門を開けて中に入ろうとするが、今まさに出てこようとしていた勇姫と鉢合わせて、お互いに通る事ができない。
「お父さん、おかえりなさい」
「うん、ただいま。出かけるのかい?」
「うん、ちょっと良の家まで」
「そうか、いってらっしゃい。夕飯は?」
「良の所で食べる。お母さんにも言ってあるから」
「そうか、電話してくれれば迎えに行くからね」
「あー、うん。わかった。行ってきます」
「良一郎。勇姫をよろしくね」
おじさんは勇姫を先に通してから、入れ替わるようにして門をくぐった。
「そうだ、お母さんの具合はどうだい?」
俺の心臓が跳ねる。おじさんが俺に対してお母さん。と言うのは俺の母である新庄良子以外にありえない。
どう答えるべきだろうか。ただ体の弱い母さんの様子を気にしているだけに決まっているが、変な答え方をしてしまえば、なし崩し的に入院の事が知られてしまうかもしれない。
「入院しているんだろう?元気かい?」
俺は絶句した。呼吸すら止まっていたかもしれない。
「知っていたんですか?」
なんとか声を出すが、その内容は空っぽだ。知っている相手に知っているのか、と聞く事には何の意味もない。
「そりゃあね。祥子がそわそわして道場の事を気にかけているし、勝太郎も落ち着きがない。良子の体調が崩れやすいのはもうずっとのことだろう?いくら私が鈍いとはいえ、それくらいはわかるさ」
入院の事を知られている。と言う事にも驚いたが、それ以上に、おじさんがそれを知って何もしていない。と言う事に俺は酷く驚いた。
おじさんの母さんに対しての過保護っぷりを俺は実際には見た事が無い。しかし母さんからは、異常なほど過保護なのだと聞いていた。おじさんの過保護エピソードの暴露は母さんの十八番と言っても過言ではない。
そんな話を聞いていたせいか、俺は倉内竜生というおじさんは、母さんのことに関しては暴走する人だと勝手に思い込んでいた。
「なにか遠慮しているようだから、家からは何もしないし、言わないけれども。困ったことがあったら遠慮なく頼って良いんだからね?」
「はい、ありがとうございます」
俺は震えそうになる声をなんとか抑えつけて、それだけの返事をしてから、勇姫を連れて歩きだした。
少し心の整理が必要だ。
なんだか、涙が出そうな気分がしないでもない。
世話になっている一家に対して、隠し事をしていた後ろめたさから解放されただとか、善意だけしかない優しい言葉をかけられただとか、理由は色々とあるのだろうけれども、一番の理由はきっと、自分が情けないせいだろう。
自分は、それなりに何でもできると思っていた。剣術も剣道も他人より努力しているつもりだし、母が入院すれば家事もする。兄貴面して勇姫の世話も焼いているし、昔から子供らしくないなんて言われ慣れてもいる。自分でも一般的な男子高校生よりは大人だろうという自負もあった。
それがどうだ。
進藤との一戦以来、まともに剣術の稽古に打ち込めないし、入院中で体調の悪い母さんにも気を使わせた。勇姫が以前にもまして俺から離れようとしないのは、俺を心配しての事だろうし、おじさんにも心配をかけているに違いない。竜兄があんなにも俺のカレーに拘ったのは、俺の様子から何か違和感を感じ取ったからなのかもしれない。
そして心配して貰って、嬉しいと感じる自分が何よりも情けない。
情けない。格好悪い。なんて弱い精神だろう。
新庄良一郎はいつからこんなに貧弱な男になったのだろうか。体を鍛えて、技を磨いて、精神も相応に鍛えたつもりだが、まるで足りていない。
新庄夢想流の後継者を自称する男が、こんなもので良い訳がない。爺ちゃんはもっと強かった。父さんだって俺なんかよりもずっと強い。
俺は弱い自分を許せない。
なんで許せないんだろう。
剣術なんて流行らない。どれだけ強くなっても、誰かに認めて貰える訳でもないのに。
なんで俺は強くなりたいんだろう。
なんで剣道ではダメだったんだろう。
なんで、どうして、わからない。
「良」
勇姫の声を聞いて、正気に戻る。
考え過ぎだ。考えても分からない事は、考えない。
悩む時間があるのなら、努力をすべきだ。努力は必ず成功をもたらすとは限らないけれど、少なくとも、努力をしている間は安心できる。前に進んでいると信じられる。
「荷物、私も持つ」
「いや、そんなに重くないし大丈夫だぞ?」
「私も持ちたいの!」
「そうか?」
「うん、半分ね」
「半分とか無理だろ。一袋にまとめてあるし」
「そっちは持ってて」
勇姫は、買い物袋の持ち手を片方だけ掴む。一つの買い物袋を挟むようにして、二人で路側帯を少しはみ出しながら歩く。周りは田圃だらけで、歩道なんて上品な物はありはしない。
身長差があるから持ちにくいし、こんな運び方をした事がないから歩きにくい。
これなら俺一人で持った方がずっと楽だ。
でも勇姫は鼻歌が聞こえてきそうな程にご機嫌だった。
そんな勇姫の様子を見ると、たまにはこんな事があっても良いかと思う。




