第9話 七凪の発作と神域のスーパー葛蜜湯<上>
水天宮の夜は、普段ならば深海のような深い静寂に包まれている。
だが、その日は違った。
宮殿の奥、七凪の寝所からは苦しげな咳と、出入りする者の足音や衣擦れの音が絶え間なく響いていた。
七凪が高熱を出して倒れたのは、夕暮れ時のことだった。
幼い龍の体は火のように熱い。透き通るような白い肌は、毒に侵されたような赤紫色に火照っている。
「はぁ、はぁ……っ……兄、うえ……」
御張台から漏れてくる苦し気な声。
「七凪さま。しっかりなされませですぞ。宮さまはじきにいらっしゃいますですぞ」
おろおろしながら懸命に看病しているのは、七凪の近習で山鼬の槇野である。
元々は鎌鼬という塵旋風を操るあやかしなのだが、伊槌に水天宮に連れて来られて以来、七凪の世話係として働いていた。
彼も七凪のために思いつくことは全て実行しているのだが効果がない。水枕も氷枕も効かない。
七凪はうわ言を繰り返し、呼吸は浅く、速くなっていく。
通常なら、「医者を呼べ、薬湯を持て」という話になるのだろうが、この世界に龍を診られる者は存在しなかった。
前例もなければ、病気の原因もわからないため、手の打ちようがない。名医であっても匙を投げるような状態である。
「ええい、どういうことだ。熱が下がらぬではないか!」
駆けつけた伊槌の怒声が寝所に轟く。
普段の冷徹な仮面は剥がれ落ち、瞳は焦燥と恐怖で見開かれていた。荒ぶるあまり、彼の頬や腕には蒼黒の鱗が浮かび始めていた。弟を失うかもしれないという根源的な恐れが、彼の理性を蝕んでいく。
槇野は伊槌の前に進み出ると、がばりとひれ伏した。
「宮さま、何とぞお鎮まりくださいますよう。宮さまの豪気に当てられては……七凪さまのお身体に障りますですぞ」
「黙れ。イタチ風情が差し出がましい口をきくな!」
伊槌が吠えるように一喝する。
彼の足もとから水の蛇が出て来て槇野を跳ね飛ばした。「ひーん」と泣きながら、槇野は後ずさる。
伊槌はぎりりと歯噛みする。
ここ最近、七凪の体調はよくなっているように見えた。湊が刺激物を避け、栄養価が高く消化によいものを膳にして出していたからだ。
このまま順調に回復することを願っていたのに……。
伊槌は視線を巡らせ、他の使用人と共に部屋の隅に控える湊を捉えた。
「湊」
呼ばれた湊の背筋に寒いものが走る。伊槌がゆらりと立ち上がり、湊へと歩み寄る。
足音は重く、容赦がない。目の前には、狂気を孕んだ黄金の瞳。
「七凪が苦しんでいる。強烈な滋養が必要だ」
伊槌の手が、湊の左腕を掴んだ。万力のような強い力に骨が軋む。
「お前の肉は上質だ。清浄な気を放っている。……この腕を切り落としてすり潰し、七凪に食わせれば熱も下がるやもしれん」
「っ……!」
湊は息を呑んだ。伊槌は本気だ。
弟を救うためなら、湊の命など造作もなく使い捨てるだろう。腕に鋭い痛みが走る。
(生きたまま食われるかもしれない)
激しい恐怖に全身が粟立つ。
「……待ってください」
湊は乾いた唇を震わせながら、極めて真面目なトーンで告げた。
「あの……生肉なんて消化に悪いだけです」
「なんだと?」
「弱った胃腸に脂やタンパク質の塊を流し込んだら、体は消化のためにエネルギーを使い果たして、余計に衰弱します。俺の腕なんかより、もっと胃に優しくて即効性のあるものを作ります」
料理の理を突かれた伊槌が、僅かに怯んだ。
湊はその隙を見逃さず、はっきりと言い放つ。
「俺は医者ではないので、薬は作れません。ですが、弱った身体でも食べられる栄養食を作ることはできます。宮さま、どうか少しだけ時間をください」
数秒の沈黙ののち、伊槌は舌打ちをし、湊の腕を離した。
「……急げ。夜明けまでに好転しなければ、ただでは済まさん」
「はい!」
湊は転がるように寝所を飛び出し、厨房へと走った。
厨房に戻った湊の手は、まだかすかに震えていた。ぎゅっと握り、深呼吸で恐怖をねじ伏せる。
(大丈夫だ。焦るな。七凪さまの症状を思い出せ)
高熱に発汗、喉の渇き。そして熱に伴う悪寒と関節の痛み。
必要なのは速効性のエネルギー源であり、かつ体を内側から温め、発汗を促して熱を下げるもの。
何より喉越しが良く、嚥下の負担にならないもの。粥よりも食べやすいもの。
湊は顔を上げた。
「葛だ」
「厨司長」
湊が呼ぶと、煙管をふかしながら様子を窺っていた玄翁が振り返った。宮内に広がる荒々しい気配で、奥殿の騒ぎを察しているようだ。
「なんだ」
「葛が欲しいです。その他にも何か栄養価の高い食材はありませんかね? 粉や水に溶けるものがいいです」
玄翁は煙を吐き出しながら思案し、やがて頷いた。
「白銀葛、火焔生姜、百花蜜あたりか。これらは食材庫で願っても出てこない希少なものだ」
玄翁は鍵付きの戸棚から、神界の森で採れるという貴重な「白銀葛」の根を取り出した。
一見すると吉野葛に似ているが、純度と霊力が桁外れらしい。
「滅多に手に入らないものだから無駄遣いするなよ」
「ありがとうございます」
湊は石臼を使い、ゴリゴリと葛の根を挽いた。
何度も水に晒して精製された澱粉――葛粉を用意する。雪のように真っ白な微粒子だ。
「頼む……力を貸してくれ」
湊は小鍋に葛粉を入れ、少量の水で丁寧に溶く。
ダマにならないよう、木べらの先で感触を確かめながら弱火にかけ練り上げていく。
最初は白く濁っていた液体が、次第に重くなり、透明感を帯びてくる。
「まだだ。もっと透明に、もっと艶やかに」
湊の額に汗が滲む。練れば練るほど葛は粘りを増し、強いコシが生まれる。
火が通ると鍋の中身が透き通り、とろりとした重厚な粘度を持った。「葛湯」の完成だ。
そこに加えるのは、二つの薬味。
一つは、すり下ろしたばかりの「火焔生姜」。ピリッとした辛味が血行を促進し、身体を芯から温める。
もう一つは、神界に咲く百種類の花の蜜を集めた「百花蜜」。砂糖よりも吸収が早く、即座に脳と身体の栄養になる。
さらに生姜の絞り汁を数滴入れる。蜜をとろりと垂らす。透明な葛湯の中に、黄金の蜜がマーブル模様を描いて溶けていく。
「……特製、生姜葛蜜湯」
湊は鍋に蓋をし、冷めないよう布をかぶせると、急いで外に出た。
寝所に戻ると、七凪の呼吸はさらに荒くなっていた。
伊槌は、祈るように弟の手を握りしめている。
「……宮さま」
湊は鍋が乗った盆を枕元に置いた。
伊槌がぎろりと睨む。
「遅い。これはなんだ」
「葛湯です。身体を温め、滋養を与えます」
湊は伊槌の隣に跪き、七凪の上半身を抱き起こした。ぐったりとした頭を、自分の腕に預ける。
「七凪さま。葛湯です。少しだけ、頑張って飲みましょう」
湊は椀に入れた葛湯を匙ですくい、十分に冷ましてから、七凪の唇へと運んだ。
とろりとした液体が、荒い息を吐く唇を濡らす。七凪は無意識に舌を動かし、それを啜った。
こくりと喉を通る音。
葛湯の強いとろみが荒れた喉を優しく保護しながら、ゆっくりと胃へと落ちていく。
胃壁に温かさが染み渡り、生姜の成分が毛細血管を広げ、蜜の糖分が疲弊した細胞に火を灯す。
「ん、う……」
七凪の眉間の皺がわずかに緩んだ。
「甘い、ね……」
「はい。甘いですよ。もう一口いけますか?」
二口、三口とゆっくりと飲ませる。
咳は出ない。半分ほど飲んだところで、七凪の額に珠のような汗が浮かび始めた。
「熱い。……でも、気持ちいい」
「良い傾向です。悪い熱が外に出ようとしている証拠です」
湊は水で濡らした手巾で、七凪の汗を丁寧に拭った。
器の葛湯を全て飲み干すと、七凪は大きく咳き込んだ。
深く長い息を吐くと、力尽きたように深い眠りへと落ちていった。荒い呼吸は収まっている。
「寝た、のか?」
伊槌が呆然と呟いた。
彼は七凪の額に手を当て、目を見開いた。
「熱が、先ほどより下がっている……?」
魔法でも霊薬でもない。
神界のスーパーフードと呼ぶべき葛粉と生姜と蜜。それが龍の熱を確実に鎮めつつあった。
「……湊」
「はい」
「下がってよい」
伊槌は目で槇野を呼んだ。
槇野が素早く床を這うようにして御張台に入ってくる。
彼は小さな目を潤ませつつも、慣れた手つきで七凪に布団を掛け直した。
「いいえ」
湊は首を横に振った。
「また熱がぶり返すかもしれません。子どもにはよくあることです。水分も適宜とらせなくてはなりませんし。今夜は俺もお傍にいます」
伊槌は何か言おうとしたが、一切引く気配のない湊の真剣な顔を見て小さく息を吐いた。
「勝手にしろ」
伊槌はふいと顔を背け、それ以上何も言わなかった。




