第10話 七凪の発作と神域のスーパー葛蜜湯<下>
ゆるやかに夜は更けていく。
部屋の外からは水の音、内からは七凪の規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
湊は御張台の傍に座布団を敷き、様子を見守っていた。
槇野が七凪の額に濡らした布を置き、時折取り替える。
七凪に飲ませるための、石清水も用意された。
人間とあやかしの献身的な姿を、伊槌は少し離れたところから見つめていた。
「餌」のはずだった、と伊槌は思う。
人間。人餌。空腹を満たし、弟の栄養になるはずのただのタンパク源。
だが、今はその認識が揺らいでいる。
湊を、今後も餌と見なせるのかどうかは、はなはだ自信がない。彼の中で、捕食者と被食者という絶対的な境界線が崩れつつあった。
「……おい」
沈黙に飽きると、伊槌は口を開いた。
「はい」
湊は小声で答える。
「なぜ、厨司になった」
唐突な問いだった。
「なぜ、とは?」
「お前がなぜそこまで食にこだわり、料理人の道を選んだのか知りたい。ただ生きるためなら、他にも道はあっただろう」
「そうですね……」
湊はふっと遠い目をした。膝の上で手を組む。
「話すとけっこう長いんですけど」
「構わん。夜も長いからな」
伊槌に促され、湊も記憶を巡らせて言葉を探す。
「……うちは男ばかりの所帯でした」
湊は静かに語り始めた。
「両親は、俺が七歳の時に事故で亡くなりました。残されたのは、俺と二つ下の弟でした」
「孤児になったのか」
「そういうわけでもなかったんですが。俺と弟は祖父に引き取られました。祖父は料理人で『松月庵』という小料理屋を営んでいました。和食割烹の店です。頑固で、無口で、でも料理や食材に対して誰よりも真摯な人でした」
湊の脳裏に、湯気の向こうに立つ祖父の背中が蘇る。
ほのかに漂う出汁の香り。トントンと響く包丁の音。
『湊。ええか、料理は心や。食う人のことを一番に考えんといかん。なんも考えんと作る料理はただの餌や』
その言葉が、今の湊の原点だった。
男ばかりの三人暮らし。
祖父は休みなく店に立ち、朝から晩まで忙しく働いていた。湊にとって、毎日台所に立つのも食事の準備をするのも当たり前のことだった。
朝と昼は弟と共に買い置きのパンや残り物を食べ、夜は松月庵に行って厨房で賄いを食べる。余ったものは重箱に詰めて持ち帰る。
同級生が学校に持ってくる凝った手弁当やおふくろの味を羨ましく思ったこともあったが、ないものを願っても仕方ない。湊は、日々淡々と家族の食事を準備し、弟の世話をした。
弟が風邪で寝込んだ時、祖父は葛湯を作って飲ませた。
生姜を加え、黒蜜を入れて甘くし、子どもでも飲みやすくした。湊は病身の七凪を見て、そのことを思い出したのだった。
「男手一つで俺たちを育ててくれた祖父の背中を見て……俺は自然と包丁を握るようになりました。祖父も俺に店を継いで欲しいと考えていたようです。早くから和食割烹のあれこれを教えてくれました。弟と祖父が、俺の作ったご飯を食べてくれる。それが何より嬉しかったんです。でも……そんな日々も長くは続かず」
「どうしたのだ」
「俺が高校一年の時に、祖父は店で倒れてそのまま亡くなりました。くも膜下出血で。あっという間の出来事でした」
淡々とした口調に、隠しきれない寂寥が滲む。
湊は両親に続いて、祖父までも失ってしまった。
順調かと思っていた店の経営は、蓋を開けてみれば借金だらけだった。地元では人気店だったが、季節によって客に波があったし、祖父は国産の食材にこだわったため出費も多かった。松月庵も自宅も抵当に入っており、清算するために手放さざるを得なかった。
面倒な手続きは、祖父の兄である大伯父が全部やってくれた。
葬儀が終わった後、大伯父は遺された兄弟に言った。
兄弟を離れ離れにするのは忍びない。湊と宗吾の二人とも養子に迎えたいと。
大伯父には子どもがおらず、兄弟のどちらかが家業を継ぐことが条件だった。
「その後、俺と弟は大伯父の養子になりました。物延の本家は、関西でも有数の大きな神社でして。松月庵も仕出し弁当などを卸していてお得意さまだったんです」
「ほう。お前は神職の家系か。どうりで、気が馴染むわけだ」
伊槌は納得したように頷いた。
傍系とはいえ由緒正しい血筋である。湊の料理が、神々やあやかしに受け入れられる理由がそこにあった。
もっとも神に仕える家系ならば、有事の際は率先して贄、つまり人身御供にならなくてはいけないということでもある。
「俺は料理人になると決めていたので……弟が神職の道へ進むことになりました」
湊は自分の手のひらを見つめた。無数の包丁傷と、幾つかの火傷の痕が刻まれている。
高校を卒業後、湊は調理の専門学校へ入り、和食のコースで調理の基礎を学んだ。調理師の免許を取り、京都の料亭で数年働いた。修行を積んだのちに、祖父が起こした松月庵を再開するのが夢だった。店は人手に渡っており、今はリフォームショップになっている。一から開業するためには多額の開業資金が必要だった。資金を貯めるために、毎日懸命に働いた。
「働き出して数年後、大伯父……養父のつてで、ある方の厨司として奉職することになったのです」
「……ある方?」
「深山さまです」
湊の声色が、ふわりと柔らかくなった。
その響きには、親愛と敬慕の情が込められていた。
深山さまは、神社本庁の下部組織である非営利団体の名誉総裁を務められていた。
最初は大伯父が申し上げた「長男は和食の料理人で料亭に勤めている」という他愛のない世間話だった。
そこで深山さまは湊に興味をお示しになり、「ちょうど欠員が出たから、うちで働いてみないか」と仰せになったのである。湊は養父の顔を立てるため、また大膳課で腕を磨くため、宮内庁に入職してお仕えすることになった。
「とても厳格な方でした。味にはうるさいし、少しでも手順を間違えれば雷が落ちる。頑固一徹なところは、まるで祖父と同じで。深山さまは偶然にも祖父と同い年で。祖父が生きていればと思うと尚更……」
湊は、懐かしそうに目を細めた。
「でも、本当はお優しい方なんです。体調がすぐれない時は、侍従に命じてさりげなく薬をくださったり」
「……」
「深山さまのために、最高の料理を作りたい。その一心で、大膳課で働いてきました。深山さまは俺が作った煮物を召し上がると『物延の味は、染み入るものがある』と仰って……」
「不愉快だ」
不意に、伊槌が冷たく言い放った。
湊は驚き、伊槌の顔をまじまじと見た。
「え……?」
「過去の主をいつまで懐かしんでいる」
伊槌は腕を組み、不機嫌そうに目を細めた。
「お前は今、この水天宮の厨司だ。いや、私の餌だ。他の男の味覚に合わせた思い出話など聞きたくない。今の主は私だろうが」
「何かお気に障りましたか?」湊が尋ねたが、伊槌は問いを黙殺した。
「喉が渇いた」
伊槌は、葛湯の入った鍋を顎でしゃくった。
「私にも寄越せ」
「あ、はい。すぐに」
湊は新しい椀に、残っていた葛湯をよそった。
伊槌はそれを受け取ると、無造作に口に運んだ。
とろりとした食感。甘くて、まだ少し温かい。生姜の香りが鼻腔をくすぐり、蜜の優しい甘さがささくれ立った伊槌の心を撫でてゆくようだった。
悔しいが……美味い。
「……ぬるい」
伊槌はわざと文句をつけた。
「もっと熱くしろ。それに甘すぎる。次は私の舌に合うものを作れ」
「すみません……」
湊がしゅんと縮こまる。
その料理人らしい落ち込みぶりを見て、伊槌は少しだけ溜飲を下げた。
「まあ、七凪を楽にした功績は認めてやる」
伊槌は椀を突き返し、そっぽを向いたまま言った。
「ご苦労だった」
その言葉は聞き取れないほどに小さかったが、湊の耳には届いた。湊は驚き、嬉しそうに微笑んだ。
「はい。ありがとうございます、宮さま」
疲労の中にも、料理人としての喜びを滲ませる湊の笑顔を見て、伊槌は小さく鼻を鳴らした。
扇子を開きパタパタと扇ぐ。
(調子の狂う男だ)
その狂った調子も、悪くないと思い始めている自分がいる。
もうすぐ夜が明ける。水
天宮の空と地表に広がる水面が、白々とした光を放ち始めた。
「下がりましたですぞ。熱が下がりましたァ!」
七凪の額に手を当てた槇野が、嬉しそうに叫んだ。
御張台の中から、穏やかな寝息が聞こえてくる。
湊ははしゃぐ槇野の様子を見て、ほっと胸を撫でおろした。




