第11話 茶の木を統べる翁と茶懐石<上>
水天宮の天井にたゆたう水面が、鮮やかな翡翠色に染まっている。
この宮殿にも、どこからともなく若葉の清々しい香りが漂い、一年に一度の新茶の季節の到来を告げていた。
その客人は、悠久の時を衣のように纏って現れた。
「……久しいの、水龍よ」
広間の上座に通されたのは、一人の翁だった。
身の丈は小柄だが、その背筋は古木のように硬く節くれ立っている。
苔色の狩衣を召し、白い髭を長く垂らした姿は、まさしく樹齢千年の大樹の精霊。
彼こそが、この世界の茶の木を統べる主、通称「茶翁」であった。真名を「常磐翠葉延齢一煎大翁神」という。
「今年も新茶の季節か。そなたは相変わらず堅苦しい顔をしているな」
伊槌は気怠げに頬杖をつきながらも、その態度にはいつになく敬意が滲んでいる。
茶翁は、気位が高く、礼節に厳しいことで知られる古き神だ。
彼が頷かねばその年の茶葉は香りを持たず、苦味ばかりが増すと言われている。
「わしをもてなす準備はできておるのか。……近頃の若い者は、湯の沸かし方ひとつ知らぬからな」
茶翁は厳しい眼光を周囲に巡らせた。
「茶とは、喉を潤すのみにあらず。心を整え、時を味わうもの。相応の支度がなければ、茶葉は置いていけぬぞ」
場に緊張感が走る。給仕の狐たちが震えあがる中、戸が開いた。
「失礼いたします」
現れたのは湊だった。
いつもの紺色の半着ではなく、白の作務衣に身を包み、頭には雪のように白い手拭いをきりりと締め、腰には真新しい前掛けを結んでいる。
彼は床の上を滑るように進み、茶翁の前で手をついた。所作は、流れる水のごとくなめらかだった。
「本日は、新茶の宴。お腹に負担のかからぬよう茶懐石をご用意いたしました」
湊の声は落ち着いている。あらかじめ茶翁が来ることはわかっていたので、入念に支度をした。
茶翁はぴくりと眉を上げた。
「茶懐石か。人間風情がその理を知っておるか」
「はい。茶を美味しく召し上がっていただくための、露払いとしての料理。未熟者ではございますが、精一杯務めさせていただきます」
湊は深々と頭を下げた。
そこには、神に対する怯えも、媚びへつらいもない。
あるのは、一人の料理人としての誇りと、客人を想う清冽な「もてなしの心」だけだった。
湊が用意したのは、一汁三菜の極めて簡素な膳だった。
その簡素さの中にこそ、研ぎ澄まされた美学があった。
湊はかつて、宮内庁大膳課に所属していた。
そこは、日本古来の儀式料理と、世界中から来る国賓をもてなす最高峰の技術が集約された場所である。彼にとって、礼法とは窮屈な鎖ではなく、相手を敬うための共通言語だった。
「まずは、煮えばなのご飯でございます」
湊が黒塗りの折敷を置く。
飯椀の蓋を取ると、ふわりと甘い湯気が立ち上った。中にあるのは、炊きあがる直前、一瞬の蒸らしの間にだけ味わえる、瑞々しく水分を含んだ白米。
茶翁は無言で箸を取り、一口運んだ。
「……ほう」
翁の表情が、わずかに緩んだ。
「米の甘みが、舌の上で踊る。炊き加減、水加減、申し分ない」
続いて汁物。
白味噌仕立ての汁に、溶き芥子を一点。
具は、初夏の走りを告げる蓬の生麩だ。
白味噌のまろやかな甘みを、芥子の辛味がキリリと引き締める。茶翁は椀を両手で包み込み、その香りを愛おしむように吸い込んだ。
「良い香りだ。春の名残と、夏の予感が混じり合っておる」
「恐れ入ります」
そして、向付。
鯛の昆布締めである。数時間だけ昆布に挟むことで、魚の余分な水分を抜き、旨味だけを凝縮させた一品だ。
添えられたのは、紫蘇の花と本わさび。
透き通るような白身は、口に入れるとねっとりと舌に絡みつき、昆布の品の良い風味が鼻へと抜ける。
湊は、給仕のタイミングも完璧だった。
客が箸を置く瞬間、茶を欲する瞬間、その呼吸を完全に読み切り、次の皿を差し出す。無駄を削ぎ落とした動きは、まるで洗練された舞を見るようだった。
伊槌は、酒杯を傾けながら、その光景に見入っていた。
(見事な立ち回りだ)
伊槌は素直に感心した。
気難しい古神を前にしても一歩も引かず、対等に渡り合っている。
背筋を伸ばし、指先まで神経を行き届かせたその姿には、一振りの名刀のような凛とした凄みがあった。
(脆弱な人餌と思っていたが……なかなかどうして様になっているではないか)
相手を敬いながらも決して媚びず、「もてなし」という技で神を圧倒しようとしている。
湊の中にある揺るぎない芯。伊槌がこれまで見てきたどの人間とも違う高潔な魂の輝きだった。
「……見事じゃ」
全ての料理を平らげた茶翁が箸を置き、深く息を吐いた。
その顔には、先ほどの厳しさは微塵もなく、柔和な笑みが浮かんでいる。
「腹を満たすだけでなく心を清められた心地じゃ。これなら、新茶の香りもさぞ引き立つであろう」
茶翁は、懐から翡翠色の茶筒を取り出し、湊に差し出した。
「水天宮の和厨司よ。この茶を点ててみせよ。お前の手で」
「よろしいのですか」
「構わぬ。お前のその迷いのない手際ならば、茶も喜ぼう」
湊はうやうやしく茶筒を受け取った。
料理人として、そしてもてなす側としても最高の賛辞だった。




