第12話 茶の木を統べる翁と茶懐石<下>
茶会が終わり、茶翁は満足して帰っていった。
広間には、極上の新茶の香りが漂っていた。
「……ふぅ」
湊は厨房に戻り、片付けをしながら小さくため息をついた。
緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。
疲労の中に、チクリと胸を刺す棘のような感情があった。
(……茶翁はあの方に似ていらしたな)
茶翁の小柄で、少し頑固そうで、けれど笑うと目尻が下がる顔。湊の記憶の中にある一人の人物と重なった。
「深山さま……」
かつて湊が仕えていた宮さまである。
お妃さまとご子息に先立たれ、御用邸にお一人で暮らされていた。お孫さまに王と女王が一人ずつおられるが、王は国際機関の研究員の職に就かれて欧州に留学され、女王は降嫁されて地方でお暮らしになっている。
深山さまのお立場では、お身内であってもそうそう気軽にはお会いになれない。
常に側衛や侍従に囲まれてはいるが……ご子息を亡くされてからは、特にお寂しそうだった。
湊の手が止まる。まな板を見つめる視界が、不意に滲んだ。
『物延よ。今日の煮物は、少し固いな』
ある日の食卓。
深山さまは、湊が自信を持って出した蛸の柔らか煮を前にして箸を置いた。これは十分に煮込んだはずだった。普通の人なら柔らかすぎると感じるほどに。
だが、老いによって歯を悪くし、嚥下機能も衰えていた深山さまには、それすらも噛みきれないお辛いものだったのだ。
『申し訳ございません、すぐに作り直します』
『よい、よい。お前のせいではない。わしの身体がもう終わろうとしているだけのことだ』
深山さまは、自嘲気味に笑った。
『長生きなどするもんじゃないな。美味いものを食べることだけが楽しみだったが、好物を目の前にしても喉を通らなくなっていく。家族は逝き、楽しみは減り、あとはただ朽ちるのを待つばかりよ』
その言葉を聞いた時、湊は胸が張り裂けそうだった。
それからの湊は、必死に工夫を凝らした。
食材を極限まで細かく刻み、とろみをつけ、舌で押しつぶせるほどの柔らかく調理した。
見た目は美しく、味は本格的に。介護食などとは呼ばせない、誇り高い和食として。
それからしばらく経った冬の日。
聖護院蕪をすりおろし、卵白と合わせて蒸し上げた「蕪蒸し」を出した時。
深山さまはそれを一口食べ、息をついた。
『美味いな。まだ味がわかるぞ。そのことが嬉しい。温かくて、優しい。ありがたいことだ』
あの方の声を、湊はどうしても忘れることができない。
湊は最期までお仕えするつもりだった。
なのに、気がつけばこんな異界に飛ばされ、会うことも叶わない。
今頃は、誰が深山さまの食事を作っているのだろう。あの方の好みを、身体の辛さを、みなはわかっているのだろうか。ちゃんと、ご飯を食べていらっしゃるだろうか。
「会いたいな」
ぽつりと、言葉が漏れた。深山さまに。
養父となった大伯父にも。弟が同居しているので大丈夫とは思うが、養父も歳だから心配だ。神社は今や実家となった。毎日、養父と一緒に働いている弟の宗吾はどうしているのだろう。何もかもが懐かしく恋しく思える。
「……おい」
突然背後から声をかけられ、湊はびくりと肩を震わせた。
慌てて袖で目元を拭い、振り返る。
そこには、伊槌が立っていた。
「み、宮さま。何かご用でしょうか」
「茶の礼を言い忘れた」
伊槌は、少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「あの老いぼれ……いや、茶翁があそこまで機嫌良く帰るとはな。お前の茶懐石はよほど優れていたと見える」
「恐れ入ります」
湊は深々と頭を下げた。伊槌は、じっと湊の顔を覗き込んだ。その鋭い黄金の瞳は、湊が隠そうとした涙の跡を見逃さなかった。
「お前、泣いていたのか」
「い、いえ! 玉ねぎが目に染みただけで……!」
「嘘をつけ。そんな野菜がどこにある」
伊槌は鼻を鳴らし、厨房の調理台に寄りかかった。
「茶翁を見て、誰かを思い出したのだろう。……お前が以前話していた、『ミヤマ』とかいう主のことか」
湊は驚いて伊槌を見た。覚えていてくれたのか。七凪の看病をしながら語った、とりとめのない昔話を。
「……はい」湊は正直に頷いた。
「茶翁さまの厳しくも温かいお人柄が、深山さまに似ていらして……。あの方のことが心配になってしまったんです」
「お前は、まだその人間に未練があるのか」
伊槌の声が、僅かに低くなった。
「人界へ戻りたいのか? その老人の元へ」
湊は言葉に詰まった。
戻りたい。帰りたい。それは嘘偽らざる本心だ。
だが、今の自分には七凪の療養食を作るという大事な仕事がある。そして、自分を認め始めている目の前の龍神も――。
「……わかりません」
湊は正直に答えた。
「戻りたい気持ちはあります。家族も、お世話になった方々もいますから。でも、今は……」
湊は伊槌を見上げた。
「宮さまと七凪さまのお食事を作ることが、俺の役目ですから」
それは、諦めではなく、料理人としての覚悟だった。
どこにいようと、目の前に空腹の人がいる限り、全力を尽くす。
伊槌は、しばらく無言で湊を見つめていた。やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「殊勝な心がけだ」
伊槌は懐から、先ほど茶翁が置いていった翡翠色の茶筒を取り出すと、ぽいと湊に放った。
「やる」
「えっ? でもこれは、宮さまへの……」
「私は茶など好まん。酒の方がいい。お前が飲め。今日の働きに対する褒美だ。それに」
伊槌は背中を向け、去り際に忌々しそうに呟いた。
「元いた世界の老人がどうであろうと、今の主は私だ。厨房で湿っぽい顔をされると、料理が不味くなる。せいぜい美味い飯を作れ」
去ってゆく伊槌の背中を見送りながら、湊は不思議と嫌な気はしなかった。
「料理が不味くなる」という苦情は、裏を返せば湊の料理への絶対的な期待の表れでもある。案外、悪い主ではないのかもしれない。
「はい」
湊は茶筒をぎゅっと握りしめた。
蓋を開けると、ふわりと若草の香りが広がった。
遠いのか近いのかもわからない、日本の初夏の匂いと同じだった。
「深山さま。俺はまだ、こちらで頑張ります」
湊は心の中で呟いた。
いつかは人界に帰れる日が来るかもしれないし、永遠に来ないかもしれない。
が、今はここで、気難しい龍神とその弟のために料理の腕を振るおう。それしかない。
新茶のかぐわしい香りが、湊の心の澱を、少しだけ洗い流してくれたような気がした。




