第13話 人食の誘惑と荒ぶる神に捧げる有識料理
水天宮を覆う結界の空が、どす黒く澱んでいる。
年に一度、人界の月の満ち欠けと異界の潮の干満が重なるこの時期、宮殿を守護する霊力は著しく低下する。
水の支配者である龍神たちにとって、理性を縛る鎖が緩み、荒ぶる「獣」の本能が覚醒する試練の刻でもあった。
宮殿の奥は、鉛のような重苦しい空気が垂れ込めている。
廊下を歩く湊の足取りは、普段より忙しなかった。
「七凪さまは大丈夫だろうか」
先ほど槇野から聞いた話では、七凪は食事こそ摂っているものの、ぐったりとして元気がなく、床に伏せっているという。
時折、生肉を欲しがる素振りを見せるが、同時にひどく怖がっているようでもあると。
それ以上に気になるのは伊槌だ。
伊槌は奥殿の自室に引き籠ったまま、もう五日も姿を見せていない。
客の接見をせず、使用人たちとも会わない。
深夜になると外に出て、龍に変化し「散歩」しているようではあるが。
心配する湊に、白妙は忠告した。
「今の時期は、龍にとっての物忌み。時期が過ぎれば、元の宮さまにお戻りになります。下手に近寄れば予期せぬ災難に遭います。触らぬ神に祟りなしですよ」
とはいえ、水天宮へ来て日が浅い湊は、龍の本性については無知なところがあった。
さらに五日が経過した。伊槌は姿を見せない。
「今回は長いですねえ……」と白妙も首を傾げている。
湊の胸はざわついた。
何か不測の事態が起きていなければいいのだが……。
湊は盆の上に白湯と、気休めになればと用意した氷砂糖を乗せ、伊槌の私室へ向かった。
戸口の前で声をかける。
「宮さま。入ってもよろしいですか」
返事はない。
ただ部屋の中から、ズルリズルリと何かが床を擦るような音が聞こえるだけだ。
隙間から漏れ出してくるのは、麝香と鉄錆を混ぜたような濃厚な獣の臭い。
湊は意を決して、戸に手をかけた。
「失礼いたします」
開け放たれた扉の中。
部屋の隅、御簾の陰にそれはいた。伊槌が、ひっそりとうずくまっている。
その姿はいつもの凛とした神のそれではない。髪や狩衣は乱れ、肩で荒い息をしている。身体には、半透明の龍の鱗が浮き上がり、瞳は爬虫類特有の縦長の瞳孔に収縮していた。
「……来るな」
伊槌が唸った。地底から響くような重低音だった。
「誰だ。匂うぞ。極上の肉の匂いがする」
「宮さま……? 俺です、湊です」
湊が一歩踏み出した、次の瞬間だった。
突風のような力で身体が弾き飛ばされ、背中に激しい衝撃が走った。気がつくと湊は壁に叩きつけられ、伊槌に縫い留められていた。
「っ……?」
目の前にあるのは、飢餓に狂う捕食者の貌だった。
伊槌の片手が湊の両腕を頭上で押さえつけ、ミシミシと骨が軋むほどの怪力を込めている。
「ああ……美味そうな肉だ」
伊槌の鋭い牙が、湊の喉元にピタリと当てられた。ざらりとした爬虫類の鱗の感触が皮膚に触れる。
(食べられる)
本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、と叫ぶ。
これまで触れ合ってきた伊槌は尊大ながらも、どこか人間臭い神だった。今は違う。完全に獣と化して、自分を解体しようとしている。
湊は必死に恐怖を呑み込んだ。至近距離にある伊槌の瞳は焦点が合わず、ひどく苦しそうだった。
彼は楽しんでなどいない。どうしようもない飢餓感に魂を焼かれているのだ。
「……宮さま」
湊は声を絞り出した。命乞いではない。
厨房で食材に向き合う時と同じ、静かな声だった。
「お腹が空いているんですね」
伊槌の動きが止まった。
「お腹が空くとイライラして、何もかもが嫌になりますよね。少し待っていてください」
湊は牙を突き立てられそうになりながらも、伊槌の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺がすぐにご飯を作りますから」
『ご飯』
『湊』
その言葉と、湊からかすかに香る出汁の匂いが、獣の霧に覆われた伊槌の理性に一筋の光として届いた。
「ご、はん……?」
伊槌の瞳孔が、震えながら元の丸さに戻りかける。
彼はハッとして、自分の状況を認識した。
壁に縫い留めているのは湊。その首に、今まさに牙を突き立てようとしている。
「うああっ!」
伊槌は絶叫し、自らの腕に爪を立てた。
ブチリと肉が裂ける。鮮血が滴り落ち、鋭い痛みが彼を現実に引き戻した。
「離れろっ!」
伊槌は弾かれたように湊から飛び退き、壁際へ後ずさった。腕を血で染めながら、肩を激しく上下させる。
「違う、私は……。早く行け。私の前から消えろ!」
湊は壁伝いに立ち上がった。恐怖で膝が震える。
「すぐに戻ります」
湊は一礼し、部屋を飛び出して厨房へと走った。
(何を作る? 肉か? いや、今の宮さまには逆効果だ)
血肉の匂いは、獣の本能を刺激する。
必要なのは荒ぶる魂を清め、鎮魂へ導く清浄なる「神饌」だ。
宮内庁大膳課で学んだ、有職故実に基づく格式の高い料理。
「……蛤だ」
湊は、水槽から地蛤を取り出した。
異界の蛤は人界のそれよりもはるかに大きく、青銀色に照り輝いている。二枚の殻がぴったりと合い、他とは決して重ならない蛤は、夫婦和合の象徴であり、同時に「固く閉じて身を守る」聖域の象徴でもある。
この清浄な貝の汁こそが、龍の獣の血を浄化する……と信じたい。
「頼む」
湊は祈りを込めながら、鍋に昆布と水を張り、火にかけた。沸騰直前に昆布を取り出す。砂抜きをして丁寧に洗った蛤を投入する。コトコトと煮る。
やがて、パカッと貝が開いた。白濁したエキスと共に、磯の香りが広がる。味付けは酒とほんの少しの塩のみ。
蛤から溢れ出る濃厚なコハク酸の旨味が全てだ。余計な小細工はいらない。
「蛤の潮汁」の完成だった。
さらにもう一品。
神に捧げる米「神米」を炊き上げ、酢飯にして小さな一口サイズに握る。
その上に乗せるのは、紅白の食材。赤は、梅肉を刻んで練ったもの。邪気を払い、食欲を増進させる。
白は、鯛の身を薄く削いだもの。これらを市松模様に並べた「手毬寿司」だった。
「……よし」
完成した膳は、見た目こそ質素だ。
だが、そこには湊の全力が込められている。
透き通る潮汁の表面に、刻んだ柚子の皮を一欠片浮かべる。その香りが、邪気を祓う剣となるように祈りを込める。
再び訪れた私室の空気は、先ほどよりも幾分落ち着いていた。伊槌は部屋の隅で膝を抱えてうずくまっていた。
「宮さま。お待たせいたしました」
湊は膳を置いた。ふわっと柚子と潮の香りが漂う。
清冽な香りは、部屋に充満していた獣臭さを波が砂を洗うように消し去っていく。
「これは」
伊槌が顔を上げた。その瞳は、まだ不安定に揺らめいている。
「神前料理、蛤の潮汁です。まずは一口」
伊槌は、震える手で椀を取り口に運んだ。
透き通った液体が喉を滑り落ちる。
とぷん、と何かが落ちたような……。
次の瞬間、伊槌は体内で暴れ回っていた熱い塊がすうと引いていくのを感じた。
原初の海が持つ、絶対的な浄化の力。濃厚な貝の旨味が脳髄に染み渡り、飢餓感という名のノイズを消してゆく。
「……美味い」
伊槌が呟いた。
次いで、紅白の手毬寿司をつまんで口に放り込む。
梅の酸味が五感を覚醒させ、鯛の甘みが優しく胃を満たす。一噛みごとに理性が、尊厳が、修復されていく。
湊はその様子をじっと見守っていた。
(よかった。戻ってきてくれた)
安堵と共に、今さらながら恐怖がぶり返し、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
全てを平らげた後、伊槌は長いこと無言のままだった。
身体から龍の鱗は消え、瞳も元の落ち着いた黄金色に戻っている。
だがその表情は、かつてないほどに険しく悲痛だった。
「……湊」
「はい」
「下がれ」
その声は冷たかった。
「この部屋に近づくな」
「え……」
湊は目を見開いた。
「お加減が悪いのでしたら、明日はお粥を……」
「わからんのか!」
伊槌が膳を叩くように言った。その音に、湊は身を縮こまらせた。
「私は、お前を殺すところだった。食い殺して、咀嚼して、飲み込むところだった」
伊槌は自分の両手を見つめ、わなわなと震わせた。
それは、己を律しきれなかった神としての強烈な自己嫌悪と、プライドの崩壊だった。
「今は、たまたま潮汁で正気に戻った。だが次はどうなる。明日、また発作が起きれば今度こそお前の喉笛を噛み千切るかもしれん」
伊槌は苦しげに顔を歪めた。
「お前は『餌』だ。……いや、『だった』と言うべきか」
今は違う。だからこそ……危険だ。
伊槌は、冷徹な仮面を被り直すように表情を消した。
「私が完全に正気を取り戻すまで、視界に入るな。行け。これは、主命だ」
湊は、何かを言おうとして唇を噛んだ。伊槌の苦悩が、痛いほど伝わってくる。
湊は、何かを言おうとして唇を噛んだ。彼の苦悩が痛いほど伝わってくる。ここで「嫌です」と言えば、気位の高い神をさらに追い詰めることになる。
「かしこまりました」
湊は、床に額を擦り付けるように深く一礼した。
「今後のお食事は廊下に置きます。どうか、お身体をお大事になさってください」
湊は膳を持って、部屋を出た。背後で戸が閉まる音がした。二人を隔てる断絶のように重々しく響く。
廊下に出た湊は、しばらく動けなかった。首筋には、伊槌の牙が触れた感触が火傷のように残っている。
孤高の龍神は、理性を保つために自分を傷つけた。
ならば、助かった自分は料理人として最善を尽くすだけだ。
姿は見えなくても、味は届く。
水天宮の闇は深い。しかし、湊の心には消えることのない熾火のような決意が宿っていた。




