第14話 荒魂を鎮める精進料理と伊槌の過去<上>
水天宮の最奥にある「清めの間」。
そこは、宮殿の中でも最も神聖にして、最も強固な結界が張られた場所である。
扉の向こうで、主である伊槌は正座し、自らを律していた。
前日の暴走。湊の首筋に牙を突き立て、その肉を喰らおうとした己の本能。再び同じ過ちを犯さぬよう、精神を研ぎ澄ませる瞑想に入っていた。
「……宮さま」
扉の外で、湊は立ち尽くしていた。
中からは、ぴりぴりと肌を刺すような鋭利な冷気が漏れ出してくる。不用意に近づけば、気だけで斬り刻まれそうなほどの拒絶。しかし、湊は引かなかった。
(お腹が空いているはずだ。肉体は猛烈に飢えているのに、精神だけでそれをねじ伏せようとしている)
それは龍という巨大な霊体にとって、身を削る苦行に等しい。
「俺にできることは、心配することじゃない。作ることだ」
湊は短く息を吐き、踵を返した。
肉や魚は出せない。血の匂いは、今の伊槌にとって猛毒であり、理性を焼き切る火種となる。
ならば、どうするか。答えは、すでにあった。古来より、僧侶たちが肉食を禁じられた制約の中で「命」と向き合った究極の料理。
「精進料理。これしかない」
動物性の食材を一切使わず、植物の命だけで構成される膳。決して貧しい食事ではない。
手間と時間を惜しみなく注ぎ込み、素材の隠された濃厚さを引き出すことで、肉や魚をも凌駕する満足感を生み出す「魂の料理」だ。
厨房に戻った湊は、白衣の袖をたすき掛けにし、気合を入れた。
まず取り出したのは、白胡麻だ。
最高級の洗い胡麻を、鉄の平鍋で丁寧に煎る。パチッパチッと音がして、香ばしい香りが立ち上る。
一粒たりとも焦がさぬよう、黄金色になるまで鍋を揺すり続ける。
「ここからが勝負だ」
湊は煎った胡麻をすり鉢に移した。
ゴリゴリとすりこぎを回す音が、静かな厨房に響く。胡麻の殻が砕け、油分が滲み出し、ペースト状になるまでひたすら擦る。
(ここで退いてたまるか。食で理性を引き戻すのが、俺の仕事だ)
湊の額から汗が滴り落ちる。腕の感覚が麻痺してくる。
それでも手は止めない。ザラザラとした粉末が、ねっとりとした油絵具のような液体に変わる。そこへ、昆布出汁と吉野葛を溶き入れ、鍋に移して火にかける。
ここでもまた練る。鍋底から湧き上がる熱を、胡麻と葛の全粒子に行き渡らせるように。最初は白濁していた液体が次第に艶を帯び、重くねっとりと纏まり始める。
「胡麻豆腐」の完成だ。
豆腐と名がつくが、大豆は使わない。胡麻の生命力と、葛の浄化力を凝縮した白き宝石である。
次は「引き上げ湯葉」だ。
濃厚な豆乳を温め、表面に張った薄い膜を竹串ですくい上げる。一枚、また一枚。絹の布を織るように重ねられたそれは、植物性でありながら驚くほど濃厚なコクと肉に似た食感を持つ。
これを何層にも重ねて巻き、出汁を含ませてからさっと表面を炙る。焦げ目の香ばしさが、食欲をそそるアクセントとなる。
そして、メインとなるのは「精進揚げ」――野菜の天ぷらだ。
食在庫で願って出した季節の恵みを惜しみなく使う。肉厚な舞茸、ほろ苦いふきのとう、甘みの強い薩摩芋。衣に卵を使わない。冷水と小麦粉のみで溶いた薄衣だ。
油の温度を見極める。箸先から散らした衣が、中程まで沈んですぐにパッと花開く。およそ百八十度で投入する。
素材を入れた瞬間、ジュワアアアと水分が蒸発する音が湊の耳をくすぐった。食材の命が形を変え、新たな食として生まれ変わる産声だ。
舞茸は香り高く、ふきのとうは春の息吹を纏い、薩摩芋は黄金の蜜を蓄える。カラリと揚がったそれらは、油切れもよく胃にもたれることはない。
「……できた」
完成した精進料理の膳。そこには五法(生・煮る・焼く・蒸す・揚げる)と五味(甘味・酸味・塩味・苦味・うま味)と五色(赤・黄・青・白・黒)の理が詰め込まれていた。
「清めの間」の前まで行くと、湊は膳を置いた。
扉に向かって声をかけた。
「宮さま。お食事を置いておきます」
返事はない。
「獣の肉も、魚の身も一切使っておりません。血の匂いはない精進料理です。冷めないうちにお召し上がりください」
湊は一礼すると、迷いなくその場を立ち去った。
押し付けるつもりはない。飢えた龍がこの香りを無視できるはずがないと、己の料理を信じていた。
しばらくして――。
扉が僅かに開き、隙間から伸びた白い手が音もなく膳を引き入れた。
再び閉ざされた扉の中で、伊槌は膳を見下ろした。
(……草根木皮か)
龍の飢餓感は、鮮血と肉を求めている。
野菜や豆の料理でこの暴れる本能が満たされるわけがない。そう思いながらも、漂ってくる香りが伊槌の鼻孔を強く刺激した。香ばしい胡麻の匂い。油の爆ぜる陽性の香り。
伊槌は無意識に箸を取り、胡麻豆腐をつまんだ。
ぷるんとした強い弾力。口に含むと、舌の熱でとろりと溶け出す。
「……なに?」
衝撃が走った。濃厚だ。
脳髄や脂身を想起させるほどに、こってりとした旨味とコクがある。なのに、後味はどこまでも清冽で濁りがない。
胡麻の油分が、乾き切った神経を潤し、葛の滑らかさが喉を癒やしていく。添えられた本わさびの辛味が、濁った意識をシャープに覚醒させる。
次に、湯葉の炙り焼き。
噛み締めれば、幾重にも重なった大豆の膜からジュワリと出汁が溢れ出す。肉のような満足感がありながら、血生臭さは皆無。
そして、野菜の天ぷら。
サクッという軽快な音がする。舞茸の強烈な香り、薩摩芋のねっとりとした甘み。一つ食べるごとに、体内に溜まっていた「獣の熱」が収まっていくのを感じた。
満たされてゆく。血ではなく、命そのものの力によって。
暴れ回っていた龍の本能が、静かな湖面のように凪いでいく。
それは、「食べる」という行為が、他者の命を奪うことではなく、命を譲り受け、自らの一部とする神聖な儀式であると再認識させられる味だった。
「……湊」
伊槌は完食した膳の前で、ポツリとその名を呼んだ。
身体の芯から力が湧いてくる。
破壊衝動ではなく、水天宮の気高き守護者としての静穏な力だった。




