第15話 荒魂を鎮める精進料理と伊槌の過去<下>
再び「清めの間」の扉が開いた。
「……入れ」
低い声に呼ばれる。
廊下で待機していた湊は、恐る恐る室内に入った。
雨上がりの森のような、清浄な空気が満ちている。
伊槌は格子を開け、外の景色を眺めていた。その背中は、いつもの凛とした高貴さを取り戻していた。
「宮さま」
「驚いたぞ」
伊槌は振り返らずに言った。
「肉も魚も使わず、これほどまでに濃厚で力強い料理を作るとはな」
湊は安堵で膝が抜けそうになった。
「お口に合いましたでしょうか」
「ああ。……不思議だ。腹が満ちただけではない。荒ぶっていた心までが凪のように静まった」
伊槌はゆっくりと振り返り、湊を見た。
黄金の瞳は、穏やかに光を湛えている。
「お前の料理は、龍の本能すら鎮めるのか」
「精進料理は、もともと仏道修行に励む僧侶が煩悩を払い、心身を清めるために食べるものですから」
湊は短く息を吐いた。
「命を奪う罪悪感なしに命をいただく。それが、今の宮さまには必要だと思いました」
伊槌はふっと自嘲気味に笑った。
「罪悪感……か。そうだな」
彼は顎で座布団を示した。
「そこに座れ。獣の熱が引いて、少し昔語りがしたい気分だ」
湊がおずおずと座ると、伊槌は遠い目をしながら空を見上げた。
「私にはな、姉がいたのだ」
「お姉さまが?」
意外な告白だった。伊槌に上のきょうだいがいたとは。
「ああ。私と同じ水の化身だ。光が当たると鱗が銀色に輝く美しい黒龍だった。『龍の巫女』と呼ばれ、私よりも遥かに強大な力を持っていた」
伊槌の声は懐かしさと、かすかな痛みを帯びていた。
「龍族は、きょうだいという形でしか増えない。大河が氾濫し、あるいは天変地異で新たな支流を生むようにな。私もかつては姉の一部だったのだろう。私たちは、この水天宮で何千年も共に暮らした。姉は優しく慈愛に満ちていた。私は……幸福だった」
そこで伊槌は言葉を切った。
少しして、躊躇いがちに口を開いた。
「だが、千二百年ほど前か。この世界に人間の男が迷い込んできた」
湊は驚いた。大昔に、自分と同じような境遇の人間がいたとは。
「姉は男を拾い、宮へ連れ帰ってきた。私はてっきり、姉はその男を太らせてから食うつもりなのだと思っていた。なので連日宴を開き、男を歓待する姉を黙って見ていた」
連日ご馳走を与え、美酒を振る舞い、男をもてなす龍の巫女。男は恐縮しながらも、次第に彼女に惹かれていったようだった。
「結論から言うと、姉は男を食わなかった」
伊槌の声が沈む。
「それどころか、男が人界へ帰れるよう神聖なる水脈を開き、水天宮の宝物まで土産に持たせて帰したのだ」
「その男のことがお気に召したのですね」
湊が呟くと、伊槌は忌々しげに頷いた。
「おそらくはな。話はそこで終わらん。男が去ってしばらくした後、姉はふらりと宮を出て行った。『あの人の住む世界を見てみたい』と言い残してな」
「もしかして、お姉さまとはそれきりですか?」
「ああ。姉は水天宮には帰ってこなかった。大河が海へ注いで消えるように、姉の気配はこの世界から消えた」
それから、七凪が生まれるまでの数百年間。
伊槌は広大な水天宮で一人で暮らしてきた。
姉に見捨てられたという喪失感と、人間への複雑な感情を抱きながら。
「だから私は人間が嫌いだった。姉を惑わせ、奪った種族だからな」
伊槌は湊を見た。
「皮肉なものだ。今、私はその人間が作った膳に救われ、癒やされている」
湊は真っ直ぐに見つめ返す。
「人間が嫌いなら、嫌いなままでいいと思います。俺は、美味しいご飯を作って食べてもらうだけですから」
料理人としての迷いのない言葉に、伊槌は目を丸くし、やがて短く鼻を鳴らした。
「生意気な口を叩く」
「俺はここの和厨司ですから。……そういえば、俺がこの世界に来るきっかけになったのは、職場の蔵にあった黒い包丁でした。それに触れた途端、この世界に飛ばされたんです」
湊がいきさつを話すと、伊槌はじっと考え込んだ。
「もしかしたら、それは『龍牙』かもしれんな」
「龍牙……」
「文字通り龍の牙だ。黒曜石のような色で、あらゆる呪いを断つという。牙を叩いて伸ばし、柄をつければ武器にもなるだろう」
「調理器具ではなかったのかもしれませんね」
龍の巫女が追っていった人間の男。
人界に残った龍牙。そして、黒包丁を大切に保管していた深山さまの家系。
(深山さまは……龍の巫女に関係する血筋なのか?)
だからこそ湊は龍の縁に導かれ、時空を超えてこの世界へ飛ばされたのか。
「……そうか」
伊槌が低く唸った。
「お前がここへ来たのは、偶然ではなかったのかもしれん。姉上の導きか、あるいは因果か」
「不思議なご縁ですね。まあ、理由が何であれ、俺のやることは変わりませんが」
湊が肩をすくめると、伊槌は憑き物が落ちたような清々しい顔で、ふっと笑みをこぼした。
精進料理が清めたのは、伊槌の身体だけではない。
過去への執着と、人間への憎しみすらも、静かに洗い流したのかもしれない。
「口の減らないやつだ。……いいだろう。物忌みが明けたら、とびきり美味い肉を食わせろ」
「承知しました。最高の一皿を用意します。期待していてください」
かつては「食う者」と「食われる者」だった龍神と人間。
二人の間には今、極上の料理がつなぐ確かで心地よい主従の絆が結ばれていた。




