第16話 錆びた刀剣の神々と鉄の味の猪すきやき<上>
水天宮の清浄なる大気が、赤錆色の澱みに侵食されていた。
どこからともなく響く、金属が擦れ合う不協和音。
それは戦場の亡霊たちが奏でる断末魔のようでもあった。
「……血だ。鉄の味がする血を寄越せ」
「折れた、刃こぼれした……まだいける。俺を使え……使え……」
広間に現れたのは、異形の神々だった。
落ち武者のような姿をしているが、本体はかつての名刀、あるいは豪傑が振るった槍。主を失い、雨風にさらされ、泥に埋もれて朽ち果てた「武具」の成れの果てだ。
彼らの体は錆に覆われ、関節からは赤黒い粉がこぼれ落ちる。その瞳は憎悪と渇望で濁り、ただひたすらに鉄の味――すなわち血の味を求めて彷徨っていた。
祟り神になりかけているとはいえ、彼らは総じて「赤丹錆朽鉄霊刃尊」と呼ばれるれっきとした神々である。
「……見苦しい」
高座の伊槌は、招かざる客を一瞥し、冷たく言い捨てた。
「ここは水の聖域だ。貴様らの持ち込む硝煙と錆の臭いで水が濁る」
伊槌が指を弾くと、水流が鞭のようにうねって弾けた。
だが、威嚇したところで武器である彼らは怯まない。痛みも感じない。
「鉄を、俺を満たす鉄を……!」
一柱の錆びた大太刀が、床を削りながら伊槌へと突進しようとした、その時だった。
「暴れるなら、飯を食ってからにしてください」
殺伐とした空気を切り裂くように声が響いた。
騒ぎを聞きつけてやってきた湊が、真っ白な割烹着姿で広間に入ってきたのだ。
「下がれ湊! 斬られるぞ!」
伊槌の鋭い制止を受け流し、湊は怯むことなく大太刀の神の前に進み出た。
「水天宮へようこそ。お腹が空いているんですね。だったら血より美味くて、鉄より熱い飯を出します。斬るのは、それを食ってからにしてください」
あまりにも肝の据わった人間の態度に、武具の神々がピタリと動きを止めた。
「血より美味いメシだと?」
「はい。あなた方の渇きを癒やす特製の鍋です」
湊の瞳に一切の揺らぎはない。
彼らは飢えている。かつては重用され、合戦のたびに磨き上げられた。栄光の日々とそれらが失われた喪失感を、他者の血で埋めようとしているだけだ。
「ならば出してみろ。不味ければ、貴様の血肉で贖ってもらう」
厨房に戻った湊は、棚の奥から重量感のある調理器具を取り出した。南部鉄器の厚手の鍋。
黒々と光る鋳鉄の肌は、それ自体が武骨な美しさを放っている。
(彼らに必要なのは、鉄分と……凝り固まった心を解きほぐす『団欒』の熱だ)
湊が選んだ食材は、神界の山野を駆け回る「鬼猪」の肉だった。力強い赤身と、真っ白で甘い脂身を持つ生命力の塊だ。薄切りにするのではなく、あえて厚みのある牡丹の花のように盛り付ける。
合わせる調味料は八丁味噌。
大豆を二夏二冬熟成させた、黒褐色で濃厚な味噌だ。深い渋みとミネラルを含むコクは、鉄の味に似た強さがある。
湊は、七輪の上の鉄鍋を熱した。
煙が立つほどに熱せられた鍋肌に、猪の脂身を滑らせる。
ジュワアアという音と共に、白い煙が立ち上る。
獣の脂が焦げる、野性的な香り。そこへ猪肉を隙間なく並べる。ジジジと肉が焼ける音は、神たちの耳には、戦場の篝火の音のように聞こえるだろう。
肉の色が変わったところで、特製の割下を注ぐ。酒、みりん、砂糖、たっぷりの八丁味噌を溶いた漆黒の液体だ。鍋の中で、味噌と脂が混ざり合い、マグマのようにぐつぐつと泡立つ。そこへ、ささがきにした牛蒡、焼き豆腐、太く切った白ネギ、春菊を投入する。
「鬼猪肉の味噌すき焼き」の完成だ。
煮込むほどに、鉄鍋から溶け出した鉄分が味噌と結合し、味わいはより深く黒くなっていく。闇夜に燃える炎のような、荒々しくも力強い鍋だった。
広間に運ばれた鉄鍋は、猛烈な湯気を上げていた。
武具の神々は、その黒い鍋の中身を凝視した。
「黒い。まるで、古戦場の土のようだ」
「匂うぞ……。力強い血肉の匂いだ」
湊は小鉢に生卵を割り入れ、神々に差し出した。
「どうぞ。熱いうちに、卵に絡めて召し上がってください」
錆びた槍の神が、恐る恐る箸を伸ばした。
味噌の色に染まった猪肉を引き上げる。とろりとした脂が光る。それを卵黄にくぐらせ、口へ運ぶ。
ガリッという音がすると思われたが、聞こえたのはハフッという熱を逃がす息遣いだった。
「……んん?」
口に入れた瞬間、強烈な味噌のコクと猪の野性の味が炸裂する。鉄鍋で煮込まれたことによる、金気を含んだ鋭い旨味。彼らの求めていた「鉄」の欲求をダイレクトに満たしていく。
しかし、それだけではない。卵のまろやかさと、野菜の甘み。何より、鍋そのものが持つ圧倒的な熱量。
「熱い。だが、心地よい」
「ああ、錆が……落ちていくようだ」
冷え切って強張っていた彼らの身体から、パラパラと赤錆が剥がれ落ちていく。猪の脂が潤滑油となり、軋んでいた関節がなめらかになる。味噌の塩分が、錆びついた回路に、忘れていた生の感覚を呼び覚ます。
「美味い……! 美味すぎる。これは、血よりも熱く、酒よりも酔える!」
神々は、我先にと鍋に箸を伸ばした。
一つの鍋を囲み、フウフウと息を吹きかけ、互いに肉を譲り合う。そこにあったのは、殺伐とした戦場の空気ではない。戦を終えた兵士たちが、焚き火を囲んで語り合う団欒の風景だった。
「……ふん」
伊槌は、高座で酒杯を片手にその様子を眺めていた。
「野蛮な連中め。だが殺気立っていた顔は、幾分マシになったか」
視線は、猛火のそばで淡々と鍋の火加減を調整し、黙々と肉を追加していく湊の背中に向けられている。
(刃物相手に大した度胸だ)
鍋が空になる頃には、神々の身体は錆が落ち、銀色の白刃に戻って見違えるように輝いていた。
「礼を言うぞ、厨司殿。久方ぶりに心が満ちた」
「俺たちは、もう戦場には戻らぬ。刀剣供養の神社へ行き、そこで静かに余生を過ごすとしよう」
彼らは深々と頭を下げると、清々しい一陣の風となって去っていった。
残されたのは、空っぽになった鉄鍋と広間に漂う味噌の濃厚な香りだけだった。




