第17話 錆びた刀剣の神々と鉄の味の猪すきやき<下>
夜が更けて、水天宮は静寂に包まれた。
厨房の片隅で湊は一人、かまどの前に立っていた。
「お腹空いたな」
客人の相手と後片付けに追われ、自分の食事をとる時間がなかった。
湊の「賄い」は、いつも残り物で作る。
人界にいた頃もそうだった。賄いで腹を満たすのは、料理人の宿命であり、楽しみでもある。
子どもの頃から、祖父の店で毎日賄いを食べてきた。
こだわった食材の余り物や切れ端で作られた和食は、今思えば随分と贅沢なものだった。
昼間のすき焼きの脂と味噌だれが少し残ってる。
「これを使うか」
湊が包丁を握ろうとした時、背後の扉が静かに開いた。
「まだ起きているのか」
声の主は伊槌だった。
月明かりを背負い、寝間着代わりの単衣に厚手の上着を羽織っている。昼間の威厳ある装いとは違い、どこか無防備で気の抜けた姿だった。
「宮さま。どうされました? お夜食ですか」
「腹が減って目が覚めた」
伊槌は、不機嫌そうに厨房に入ってくると、椅子にどかりと腰を下ろした。
「あの錆びた連中が、あまりに美味そうに食うものだからな。その匂いが残っていて眠れん」
湊は苦笑した。
「申し訳ありません。換気はしたんですけどね。すぐに何かお作りします。どんなものがよろしいですか」
「お前はこれから何を食うつもりだ」
「え? 俺ですか」
湊は手元のざるを見せた。
「俺は、余った食材で適当に賄いを。野菜の皮とか、肉の切れ端で作る簡単なものです」
伊槌は、ざるの中身をじっと見つめた。
不揃いな人参の端、大根の皮、冷や飯。
本来なら、神が口にするようなものではない。
「それを食わせろ」
「はい?」
湊は耳を疑った。
「いや、宮さま。これは正真正銘の残り物でして、あなたさまにお出しできるようなものでは……」
「お前が食うのなら味は悪くあるまい」
伊槌は譲らなかった。
「整えられた神饌ではなく、お前が普段厨房で食べている俗な味が食いたい気分だ」
湊は目を丸くし、やがて呆れたように肩をすくめた。
「わかりました。後悔しても知りませんよ」
言いながらも、湊は少し口角を上げた。
「すぐ作りますから、座っていてください」
湊は、残っていた猪の脂を鉄鍋に入れて火にかけた。
そこへ、刻んだ大根の皮と人参の端、微塵切りにした葱を投入し、強火で炒める。残り物とはいえ、猪の脂は極上の調味料だ。野菜の甘みを引き出し、コクを与える。
そこへ、冷や飯を入れる。
お玉の背でパラパラにほぐしながら、鍋肌に焼き付けるように炒める。味付けは、先ほどのすき焼きで残った「味噌だれ」。焦げた味噌の香ばしさが、ただの冷や飯を一級品の焼き飯へ変えていく。
仕上げに、温泉卵を一つ。
とろりとした黄身を崩し、全体に絡める。「猪脂と焦がし味噌の賄い焼き飯」の完成だ。
「……できました」
湊は二つの茶碗によそい、白菜と青菜の漬物を乗せた。
「ここで召し上がりますか?」
「いや、外が良い。月が綺麗だ」
厨房の近くにある殿舎の、池に面した縁側に、湊と伊槌は並んで腰を下ろした。
頭上には、水に溶けたような朧月が蒼白く輝き、庭の白砂を照らしている。
「いただきます」
湊が手を合わせると、伊槌も真似をしてぎこちなく手を合わせた。
「……いただきます」
伊槌は匙で焼き飯をすくい、口に運んだ。
「……ん」
伊槌は小さく喉を鳴らした。豪華な食材は入っていない。
ただの野菜くずと冷や飯だ。だが、美味い。猪の脂の甘み、野菜のほどよい食感、焦がし味噌の風味。
それらが渾然一体となった力強い味がした。何より、隣では湊が同じものを食べ、フウフウと湯気を吹き「ああ、美味い」と息をついている。
気取ることなく、ただ美味い飯をかき込むだけの時間。
それは伊槌が何百年も忘れていた血の通った食事だった。
「美味いな、湊」
「はい。残り物には福がある、と言いますし」
「残り物ではない。これはお前の生活の味だ」
伊槌は、持ってきた徳利を傾け、二つの杯に酒を注いだ。
「飲めるか」
「少しなら」
湊は杯を受け取った。二人、肩を並べての月見酒。
酒の肴は、粗末だが温かい賄い飯である。
杯を飲み干すと湊は言った。
「宮さまは大変ですね。しょっちゅうお客が来るし、饗応しなくちゃいけなくて。アポなしの飛び込みもざらですし」
「仕方あるまい。物持ちはたかられるものだ」
「そこは神さまも同じなんですね」湊は笑った。
「酒や酒盗の神なら大歓迎なのだが、そういうのに限って来ない」
「そんなもんですよね……」
伊槌のぼやきに、湊はうんうんと頷いた。
「……私は」
伊槌が、月を見上げたままぽつりと呟いた。
「今まで、食事とは孤独な作業だと思っていた。姉がいなくなってから、誰かと共に食卓を囲むこともなかった」
七凪は生まれつき病弱で、共に食事を楽しむことはできなかった。伊槌は水天宮とその周辺で一人、味気ない食事を続けてきたのだった。
「今日、あの錆びた神どもが鍋を囲んで笑い合っているのを見て……少し腹立たしかった。私が普段食っているものより、よほど美味そうに見えたからな」
「だから、残り物で作った賄いを?」
湊が尋ねると、伊槌はフッと笑い、自分の杯を湊の杯に軽く当てた。チンと澄んだ音が月夜に響く。
「一人で食うよりは味がいい」
「同感です。誰かと食べる飯の方が美味いのは確かですから」
湊は空になった茶碗を置き、心地よい夜風を浴びた。
「賄いでよければ、いつでもお付き合いしますよ」
「ならば明日も作れ。もっと美味い賄いをな」
「お任せください」
空っぽになった二つの茶碗。
そこには、空腹を満たす以上の温もりが残されていた。




