第18話 七凪の決意と竜宮青椒の肉詰め
水天宮の庭先に、パチパチ、シュワワワ……と食欲をそそる軽快な音が響き渡っていた。
高温の油が食材の水分を弾き、衣の中で旨味を蒸し上げる音。
空腹の魂を揺さぶる最も罪深く、かつ幸福な旋律だ。
「……良い音だ」
広間の縁側に置かれた卓の前で、伊槌が杯を片手に目を細めた。何気なく酒の肴を求めたら、本日は揚げ物を出すという。アツアツの揚げたてのものをすぐに召し上がっていただきたいというので、急遽庭に即席の調理台が設けられた。コンロが置かれ、油が入った鉄鍋がかけられる。
湊が揚げているのは、異界の川で獲れた「黄金手長海老」と、山で採れた「天狗茄子」だ。
湊は、菜箸を巧みに操り、揚がったそれらを油切り網へ乗せる。
「宮さま、揚がりました。熱いうちにどうぞ」
大皿に盛られたのは、衣の華が咲いた天ぷらと、カラリと揚がった素揚げ。
添えられたのは、香り高い「柚子塩」とピリリと舌を痺れさせる異界のスパイス「霰山椒」に鰹出汁を効かせた濃厚な天つゆだ。
狐の給仕係がいそいそと大皿を運んでくる。
伊槌は、まず海老を手に取った。
殻が柔らかく、頭から尻尾まで丸ごと食べられる。柚子塩をちょんとつけ、口へ運ぶ。
サクッと小気味よい音が、辺りに響く。
「……美味い」
噛み砕いた瞬間、海老の殻の香ばしさと、中の身のプリプリとした食感が弾ける。
高温の油で凝縮された甲殻類の旨味。そこへ柚子の清涼な香りが吹き抜ける。油の重さを感じさせない。
次は天狗茄子だ。こちらはたっぷりと天つゆに浸す。衣が出汁を吸い、ジュワリと音を立てる。
口に含めば、トロトロに溶けた茄子の果肉が、熱いスープとなって溢れ出す。
「酒が進むな。湊、お前の揚げ物はなぜこうも軽く食べやすいのか」
伊槌は上機嫌で杯を煽った。
その横で、じっと皿を見つめる小さな影があった。
七凪である。気分が良かったため起き出して広間にやってきたのだが、肝心の兄は酒と肴に夢中だった。
彼は、兄がサクサクと音を立てて食べる様子を、羨望の眼差しで見上げた。喉が鳴る。香ばしい油の匂いが、食欲を刺激してやまない。
「……ねえ、湊」
七凪は庭に降りると、湊の袴の裾を引いた。
「僕もそれ食べたい。カリカリしてて、すごく美味しそう」
湊は困ったように眉を下げ、七凪の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「七凪さま。申し訳ありませんが、揚げ物はまだ早いです」
「どうして? 僕、もう元気だよ?」
「はい、だいぶ顔色は良くなられました。でも体調には波がありますし、今日はよくても明日はわかりませんし。油を多く使った料理は、胃腸への負担が大きいんです」
湊は優しく諭した。今の七凪に必要なのは、消化に良く、緩やかに力をつける食事だ。揚げ物の強力な脂質は、子どもの身体にはあまりよくない。
「湊の言うとおりだ」
伊槌が、茄子の天ぷらを口に放り込みながら意地悪く笑った。
「七凪にはまだ早い。これは大人の楽しみだ」
「兄上……」
「早く大きくなれ。そうすれば、湊の揚げたてを腹いっぱい食えるようになるぞ」
伊槌はわざとらしくカリッと音を立てて咀嚼して見せた。七凪の頬がぷっくりと膨らむ。
「兄上の意地悪。大人はずるい」
七凪はフンと顔を背ける。
「七凪さま。七凪さまにはこれがありますですぞ。湯煎で温め直しましたですぞ」
近習の槇野が、これも湊が用意した特製の茶碗蒸し――これはこれで絶品なのだが――を持ってくる。
七凪は不満げながらも、卓に戻るとそれを匙ですくって食べ始めた。
湊は苦笑しながら、兄弟の食卓を見守る。
(大人はずるい、か。そう言えるようになったのも、元気になった証拠かな)
だが翌日の夜。
七凪の決意は、湊の想像を超える形で示されることになった。
夜も更けた刻限。湊が明日の仕込みをしていると、厨房の扉が控えめに開いた。
「……湊」
入ってきたのは七凪だった。
いつものあどけなさは消え、その瞳にはピンと張り詰めたような緊張感があった。
手には緑色の物体が入った篭を持っている。
「七凪さま? どうなさいました、眠れませんか」
「ううん。……湊に、お願いがあって来た」
七凪は篭を調理台に置いた。
中に入っていたのは、ゴツゴツとした拳大の野菜だった。鮮やかな緑色をしているが、表面には血管のような筋が浮き出ている。
「これは……『龍宮青椒』?」
湊は目を丸くした。人界のピーマンによく似た栄養価の高い野菜だが、その苦味は桁外れだった。薬草を煮詰めたような青臭さと、いつまでも舌に残る渋みを持つ。
七凪が最も嫌い、見るだけで逃げ出してきた食材のはずだった。
「これを料理してほしいんだ」
七凪は篭の縁をぎゅっと握りしめた。
「七凪さま。ですが、これは」
「食べる。僕、これを食べて強くなる」
七凪は、真剣な眼差しで湊を見上げた。
「僕ね、知っちゃったんだ。兄上が、僕の病気を治すために湊を食べさせようとしていたこと」
湊はドキリとして口を噤んだ。
「湊を食べるなんて絶対に嫌だ。湊の作るご飯の方がずっといい」
七凪の小さな手が、さらに強く握りしめられる。
「だから、僕はもっと色んなものを食べて自分の力で丈夫な龍になるんだ。好き嫌いはもう言わないから」
それは幼い龍の自立の宣言だった。
兄に守られるだけではなく、自分の足で立ちたい。そのささやかな第一歩が「苦味」の克服なのだ。
湊は、ふっと目元を和ませ深く頷いた。
「……かしこまりました」
湊は包丁を手に取った。
(子供騙しは駄目だ。この苦味は消すのではなく、旨味に変えなければ)
七凪の覚悟に応えるには、最高の技術で対応せねばならない。湊が選んだ調理法は、王道にして至高の家庭料理――「肉詰め」だった。
「見ていてください、七凪さま。苦味を旨味に変える魔法をかけますから」
湊は龍宮青椒を縦半分に切り、種とワタを丁寧に取り除いた。
苦味が集中するここを綺麗に掃除することが第一だ。
内側に、薄く片栗粉をはたく。これが肉と野菜を繋ぎ、剥がれにくくする糊となる。
次にタネを作る。適度な脂肪分を含む「水牛」の挽き肉に、飴色になるまでじっくり炒めた玉ねぎをたっぷりと加える。玉ねぎの強い甘みが、青椒の苦味と対極のハーモニーを生む。つなぎの卵、パン粉、そして隠し味に「ナツメグ」と「味噌」を少々。味噌のコクが肉の臭みを消し、全体の味を底上げする。
「これを詰めます」
湊は青椒のカップに、隙間ができないよう肉種をギュッと詰めた。平鍋に油をひいて熱し、まずは肉の面から焼く。
香ばしい焼き色がつくまで動かさない。肉汁を閉じ込める壁を作るのだ。ひっくり返して、今度は青椒の面を焼く。ここで酒を振って蓋をし、蒸し焼きにする。じっくりと火を通すことで青椒の細胞壁を壊し、青臭さを甘みへと昇華させる。
最後にソースだ。肉汁が残った平鍋に、醤油、みりん、酒、少量の砂糖とケチャップ。
煮詰めてとろみがついた「照り焼きソース」を肉詰めにたっぷりと絡める。つやつやと照りのある琥珀色のタレが、緑色の青椒を艶やかに染め上げた。
「完成です。『龍宮青椒の肉詰め・照り焼き仕立て』」
皿から立ち上る湯気は甘辛く、ほんのりとスパイシーだ。
忌み嫌われる青臭さは、食欲をそそる絶妙なアクセントの香りに変わっている。
「……」
七凪は、ゴクリと喉を鳴らした。
見た目は、まだ緑色だ。青椒だ。だが、その中にはジューシーな肉が詰まり美味しそうなタレを纏っている。
「……いただきます」
七凪は箸を持ち、大きな肉詰めを口へと運んだ。ガブリとかじりつく。
最初に歯に当たったのは、程よく焦げ目のついた肉の香ばしさ。次に溢れ出すのは肉汁の洪水。そして最後に――青椒の歯ごたえと、ほろ苦さがやってきた。
「……っ」
七凪の眉が一瞬、ピクリと寄る。苦い。確かに苦い。
しかし苦味が舌に残る前に、玉ねぎの甘みと肉の脂、濃厚なタレの味が怒涛のように追いかけてきて、苦味ごと口の中を美味さで包み込んでいく。
「美味しい。苦いけど……すっごく美味しいよ。湊!」
「はい。それが大人の味です」
「これかあ。兄上が言っていた味は」
七凪は、二口、三口と夢中で食べ進めた。
「僕、食べられる。これなら、いくらでも食べられる!」
その時、背後の扉が再び開いた。
「深夜に良い匂いがすると思えば」
伊槌だった。騒ぎを聞きつけたのか、彼は入ってくるなり、皿の上の肉詰めを一つ素手でつまみ上げた。
「宮さま! 行儀が悪いです」
湊が諌めるのも聞かず、伊槌はそれを口に放り込んだ。
「ほう……」伊槌は小さく喉を鳴らした。
「あの苦いだけの野菜がこうも化けるか。肉の脂を青椒が吸い、青椒の蒼さが肉のしつこさを消している。見事な調和だ」
伊槌は、誇らしげに完食しようとしている弟を見下ろし、フッと優しく笑ってその頭を撫でた。
「よくやったな、七凪。また一つ強くなった」
「兄上……うん! 僕、もっと大きくなるよ。そしたら、湊の天ぷらも食べるんだ」
「ああ。楽しみにしているがいい」
伊槌は湊に向き直り、ニヤリと笑った。
「湊。私の分はないのか? 七凪だけ贔屓するつもりか」
「ふふ、ご安心ください。山ほどありますよ」
「ならば酒だ。とっておきの冷酒を出せ」
「またお酒を飲むの?」と七凪はあきれ顔だ。
「大人だからな」と伊槌はどこ吹く風である。
湊が簡易式の卓と椅子を用意すると、兄弟はそこに並んで腰かけた。
大皿に盛られた肉詰めを囲み、兄は酒を、弟は白飯を、そして湊は自分用に茶を淹れた。
「んー、ご飯が進む!」
七凪が白飯を頬張りながら叫ぶ。
「こら、口に物を入れたまま喋るな」
伊槌が苦言を呈しながらも、自分の箸は止まらない。
「湊、タレが甘辛くてよいな」
「ありがとうございます」
「って……おい、私の分を取るな七凪」
「早いもの勝ちだもん!」
「ふふ……喧嘩しないでください。また焼きますから」
湯気の向こうで、神と人が笑い合う。
かつては「捕食者」と「餌」だった関係。
だが今は、文句を言い合いながら一つの皿をつつく賑やかな食卓があった。
湊は、ジュウジュウと音を立てる鍋を見つめながら、心の中で密かに呟いた。
(たくさん食べて早く大きくなってくださいね、七凪さま)
竜宮青椒の肉詰めは、七凪の成長と、三人の絆が深まった忘れられない夜食の味となった。




