第19話 大飢饉の神の襲来と神界のフグ毒をキメる<上>
水天宮を覆う結界の空が、あり得ないほどに乾いていた。水の宮殿だというのに、肌をひりつかせる乾燥と、喉が張り付くような渇きが蔓延している。翡翠色の水流は淀み、庭の木々は一瞬にして葉を縮れさせ、生気を失っていた。
「……来たか」
広間で、伊槌が苦々しく呟いた。視線の先、扉が軋みながら開かれる。そこに立っていたのは、一柱の異様な神だった。
身の丈は高いが、骸骨のように痩せ細っている。
皮膚は古びた紙のようにカサカサと乾き、眼窩の奥には、全てを呑み込もうとする底なしの闇が渦巻いていた。
一歩前に進むたびに床が黒く変色し、周囲の空間から瑞々しさが奪われていく。
「食わせろ」
乾いた砂が擦れるような声だった。
「腹が減った。何もかも食わせろ。ここにある全ての命を、全ての富を」
招かざるどころか、けして会いまみえたくない「大飢饉の神」だった。真名は「大飢依空虚百喰禍津神」という。
百年に一度、異界を巡り、ありとあらゆる豊穣を食い尽くす災厄の化身。彼が通った後には、草一本残らず、ただ荒野が広がるのみと言われている。
「……厄介な客だ」
伊槌が扇子で口元を覆う。
「我が水天宮の結界をも素通りするとはな。……おい、狐ども。ありったけの馳走を出して、早々にお引き取り願え」
だが、侍従の白妙も給仕の狐たちも、誰も動かなかった。
いや、動けなかったのだ。彼らは震えながら、空っぽの盆を抱えて泣いていた。
「も、申し訳ございません、宮さま……!」
白妙が、がくりと膝をつく。
「食材庫が空っぽなのです。厨房にあった米も、野菜も、魚も……お客さまの瘴気にあてられ、全て塵になってしまいました」
「何だと?」
伊槌が目を見開く。
飢饉の神の力は、物理的な摂食以前に、宮の豊かさそのものを枯渇させてしまった。大略奪である。今の水天宮には、客に出せるまともな食材は何一つなかった。
「ない、だと?」
飢饉の神の眼窩が、怪しく光った。
「食わせろと言ったはずだ。食い物がなければ、貴様らの瑞々しい魂を啜るまで」
ズズズ……と、空間が歪む音がする。
伊槌が立ち上がり、蒼い水流を纏って臨戦態勢に入る。龍に変化して戦うこともやぶさかではない。
「私の宮で、好き勝手はさせんぞ」
一触即発の空気が張り詰めたその時だった。
「お待ちください」
凛とした声が響いた。
湊だった。彼は広間に走り込んでくると、飢饉の神と伊槌の間に割って入った。
「下がれ、湊!」伊槌が叫ぶ。
「いいえ、退きません。お腹を空かせたお客さまを、手ぶらで帰すわけにはいきません」
湊はその場に膝をつくと、恐ろしい形相の神を見上げた。
「申し訳ございません。あいにくご馳走を作れるような食材は尽きてしまいました」
「ならば、貴様の肉を食らおう」
「俺の肉は美味しくありませんよ。ですが――『食べられるもの』なら、まだあります」
湊の不敵な物言いに、伊槌は眉をひそめた。
「湊、正気か? 食材は枯渇したはずだぞ」
「料理人を舐めてもらっては困ります。……少しお時間をください。このお方の枯れ果てた喉を潤す料理を出してみせます」
湊の揺るぎない目を見た伊槌は、纏っていた水流を収めた。
「……好きにしろ。ただし、失敗したらお前は死ぬぞ」
「大丈夫です。お任せください」
厨房に戻った湊は、絶望的な光景を目の当たりにした。
棚は空っぽ、野菜籠も空っぽ。水槽の魚たちは骨だけになってプカプカ浮いている。
食材庫に入って、いくら願っても無駄だった。
文字通り、ペンペン草一本残っていない――いや。
「あるじゃないか」
湊は、勝手口から裏庭へと出た。
そこには、神の瘴気に耐え、地面にへばりつくようにして生えている「雑草」たちがあった。
ハコベ、ナズナ、セリ、ホトケノザ……などなど。
普段は手入れの邪魔だと抜かれてしまう草花たちが、今は唯一の「緑」として、力強く根を張っている。
「ありがとう。お前たちの命をもらうよ」
湊は丁寧にそれらを摘み取った。冷たい土に指を這わせ、若く柔らかな葉を選んでいく。籠一杯の野草。それは、どんな高級食材よりも今は眩しく見えた。
次に、湊は厨房のゴミ箱へと向かった。
そこには、今朝仕込んだ魚の「アラ」――頭や中骨、皮などが捨てられていた。普段なら廃棄する部分だが……。
「これももらってゆくよ」
湊は魚の頭を拾い上げ、水で綺麗に洗った。
血合いを取り除き、熱湯をかけて臭みの元となるぬめりを取る。下処理を終えたアラは、光の下で白く輝いた。
「『何もない』なんてことはないな。命は、形を変えてそこにある」
湊は大膳課にいた頃に習った教えを思い出していた。「始末の料理」である。食材を余すことなく使い切ることは、ケチることではない。食材の命に対する、最大の敬意だ。
湊は鉄鍋を熱し、魚のアラを並べた。
焼き色がつくまで、じっくりと炙る。香ばしい匂いが立ち上る。生臭さは消え、凝縮された旨味の香りへと変わる。そこへ、水を注ぎ、弱火でコトコトと煮出す。
アクを丁寧に掬う。濁りを許さず、澄んだ黄金色の出汁を引く。味付けは、酒と塩のみ。魚の骨から溶け出したコラーゲンと髄液が、スープに濃厚なコクととろみを与える。具材などいらない。
そしてもう一品。米びつの底に残っていた、わずかな神米。これを研ぎ、たっぷりの水で煮る。
米粒が踊り、水分を吸ってふっくらと膨らむ。一粒の米が、十倍にも二十倍にも花開く神米のお粥。仕上げに、刻んだ野草――七草を入れる。
サッと緑が散る。白い粥の中に、鮮やかな緑が映える。塩で味を調えれば、野の香りと土の力が溶け込んだ霊験あらたかな神饌となる。
「完成だ」
膳に乗ったのは、二つの椀のみ。
「魚骨の潮汁」と「七草粥」だ。
見た目は質素の極みである。だが、湊の「もてなしの心」と、食材への「愛」がこもっている。
広間には、重苦しい沈黙が流れていた。飢饉の神は、苛立ちから床を爪で削り、伊槌の方も今にも龍に変化して噛みつかんばかりの殺気を放っていた。
「お待たせいたしました」
湊が膳を運んできた。ふわりと優しい香りが漂った。焦がした魚骨の香ばしさと、若草の青い香り。死と乾燥が支配するこの空間において、あまりにも鮮烈な「生」の匂いだった。
「なんだ、これは」
飢饉の神が、虚ろな目で椀を睨んだ。
「草と……骨か? 我を愚弄するか、人間」
「いいえ」
湊は揺るぎない瞳で答えた。
「これが今の水天宮にあって、あなたさまに差し出せる『命』でございます。どうぞ、まずは汁を一口」
神は疑わしげに椀を取り、口へと運んだ。カサカサと音を立てながら汁に触れる。
ズズッ。
その瞬間。神の動きが止まった。
「……!」
口腔に広がったのは、圧倒的な海の記憶だった。
焼いた骨の芳醇な香り。髄から溶け出した濃厚な旨味。塩というシンプルな調味料が引き立てる、魚という生命体の最期の輝き。それらが乾ききった神の喉を潤し、食道を通って、空虚な胃の腑へと落ちていく。じわりと、体内に雨が降るように。
「……柔らかくて温かい」
飢饉の神が呟いた。
その声からは、先程までの棘が消えていた。
次に、七草粥を啜る。とろとろに煮込まれた米の甘み。野草のシャキシャキとした食感とほろ苦い風味。
地面に根を張り、踏まれても生き抜いてきた雑草の強靭な生命力が、枯れた細胞一つ一つに染み渡っていく。
「ああ……」
神の目から、ひと雫の涙がこぼれ落ちた。
「我は、飢えていた。だが、求めていたのは糧ではなかった……」
全てを平らげた時、そこに座っていたのは禍々しい悪神ではなかった。
「馳走になった。礼にこれを置いていこう」
飢饉の神は、袋から金色の種籾を取り出した。
それらを庭に向かって投げる。
土に触れるやいなや、見る見るうちに緑の芽が吹き出した。
水天宮全体に若葉の香りが満ちていく。枯れていた庭木は花を咲かせ、空っぽだった食材庫には、再び山海の幸が溢れた。
神は黄金の光となって消えていき、豊かな水天宮が戻ってきた。




