第20話 大飢饉の神の襲来と神界のフグ毒をキメる<下>
「……やれやれ。嵐のような客だったな」
伊槌が扇子をパチンと閉じ、深く息を吐いた。
飢饉の神が去ったことで、結界内の空気も浄化され、平穏な水音が戻っている。
だが、主である伊槌の顔には、疲労の色が濃く残っていた。彼は傍らの湊に呼びかけた。
「湊」
「はい」
「腹が減った。何か作れ。粥や潮汁ではない。刺激があって、強い生命力を感じるものがいい」
「……承知いたしました」
湊は厨房へ戻ると、献立を考えた。
復活した食材庫を見回す。七草粥と潮汁は、優しく体を癒やすものだった。今の伊槌が求めているのは、飢饉の神と相対峙して消耗した気力を奮い立たせるような、強烈な一皿か。
湊の目が、水槽の奥で悠然と泳ぐ巨大な魚影を捉えた。それは、神界のフグ――「金髄鉄針河豚」だった。
見た目は、棘だらけの巨大な鉄球、ハリセンボンのようだ。凶悪な面構えをしており、棘の一本一本に猛毒を秘めているとされる。普通の料理人なら手を出さない代物だが、湊は躊躇わなかった。
「あれにしよう」
水槽から出された金髄鉄針河豚は、まな板の上でも棘を逆立てて暴れた。
「大人しくしてくれ。……美味しくしてやるから」
湊はフグの眉間に針を突き刺し、一瞬で活け締めにする。ここからが真剣勝負だ。湊はフグ料理を作るため、フグ処理者の免許も取得した。毒の除去は手慣れたものだ。
卵巣、肝臓、そして皮。毒のある部位を、外科手術のような精密さで取り除いていく。特に金髄鉄針河豚は、内臓だけでなく、棘の根元にも毒腺がある。
湊は柳刃包丁を素早く走らせ、ミリ単位の精度で毒の部位を切り離していった。
「身は、美しいな」
ごつごつした外見とは裏腹に、現れた身は水晶のように透明で弾力に富んでいた。湊はこれを、皿の絵柄が透けるほどの薄造りにする。「てっさ(フグ刺し)」である。さらに、アラと皮を野菜と共に煮込んだ「てっちり(フグ鍋)」も作った。
完成した膳を、伊槌の元へ運んだ。
「ほう。これはまた見栄えのよい。醜い魚とばかり思っていたが」
伊槌は、薄造りの美しさに目を細めた。
「金髄鉄針河豚か。……猛毒を持つというな」
「はい。ですが、毒は完全に除去しました。存分にお楽しみいただければと」
伊槌は箸を取り、薄造りを三枚ほどまとめてすくい上げ、紅葉おろしとポン酢につけて口へ運んだ。コリコリとした強い弾力。噛むほどに染み出す旨味。淡白でありながら、他の魚にはない王者の風格がある。
「……美味い」
伊槌の箸が進む。続いて、鍋の身を食す。熱が通った身は、プリプリとして鶏肉のようにジューシーだ。骨の髄から出た出汁が、野菜にも染み込んでいる。
半分ほど食べ進めた時だった。伊槌はふと箸を止め、唇に触れた。
「湊」
「はい、いかがなさいましたか?」
「舌が痺れるぞ」
「えっ!」
湊の顔から血の気が引いた。痺れる。それは、テトロドトキシン――フグ毒の初期症状だ。
(まさか、除去しきれていなかったのか? そんなはずは……。もしかして、神界のフグは、身そのものに毒を持っているのか)
湊はパニックになりかけた。
「み、宮さま! すぐに吐き出してください。毒が……危ないです!」
湊が駆け寄ろうとすると、伊槌は「待て」と片手で制した。彼はケロリとした顔で、むしろ楽しげに唇を舐めた。
「なんだ、これは。ピリピリとして面白い」
「へ……?」
「心地よい刺激だ。よいぞ。力がみなぎってくる気がする」
伊槌は再び箸を伸ばし、薄造りを口に放り込んだ。
「ん……やはり痺れるな。これはたまらん」
湊は呆然と立ち尽くした。
そうだ、目の前にいるのは人間ではない。龍だ。人間なら即死するレベルの猛毒も、彼にとっては「炭酸飲料のシュワシュワ感」や「唐辛子のピリ辛」程度の刺激でしかないのだ。
「ああ。心配して損しました」
湊が脱力しながら呟くと、伊槌は至って真面目な顔で言った。
「湊。これも悪くはないが、次はもっと毒をまぶせ」
「はい?」
「肝の部分が、一番毒が強いのだろう? そこを丸ごと食わせろ。……もっとこう、脳髄が痺れるような刺激が欲しい」
伊槌は、恍惚とした表情で危険極まりないことをのたまう。
「毒をこってりとつけて食った方が美味い気がする」
「はあ……」
湊は、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
(さすが最強の生物……。味覚の次元が違いすぎる)
伊槌は満足げにフグを平らげ、酒を呷った。
その顔には、先程までの疲労感はなく、猛毒によって喚起されたらしき活力に満ちていた。
「さて、片付けをしないと」
湊は空になった膳を下げ、厨房へと戻った。
だが、そこで目にしたのは……床に倒れた同僚たちの姿だった。
湊は盆を取り落としそうになった。
「なっ!」
厨房の床に転がった玄翁や狐たち。
下働きのカワウソやカエルまでもが白目を剥き、手足をピクピクと痙攣させている。
「ちゅ、厨司長! みんなあああ―――ッ!」
湊は絶叫し、玄翁の元へ駆け寄った。
彼らの口元には、先ほど湊が調理した「金髄鉄針河豚の残り」――毒の処理をした後の内臓や皮の切れ端がこびりついている。
彼らは毒を含んだ部分を食べてしまったのだ。
「しっかりしてください厨司長! いま水を持ってきます。早く吐いて……」
湊は玄翁の体を抱き起こした。
すると、玄翁の口がだらしなく開いた。
「に、にゃあああああ〜〜〜っ!」
「……え?」
玄翁は生きていた。むしろ元気だった。うっとりと目を細め、だらしない笑みを浮かべていた。
「たまらん。この痺れ、たまらん」
「はい?」
よく見ると、他の動物たちも苦しんではいなかった。
狐は尻尾を膨らませてごろごろと転がり、カエルは腹を上にして「ケケケケ」と笑い転げている。
カワウソに至っては、虚空を見つめながら「虹がレインボーに見えるよぉ……」と呟いている。
「おお、湊か」
玄翁が、焦点の定まらない目で湊を見上げた。
「すまん。つい残り物をつまんでしまった」
「残り物って毒ですよ? 毒を食べても大丈夫なんですか?」
「毒? バカ言え。これは『極楽行き』の片道切符だ」
玄翁はふらふらと立ち上がると、奇妙なステップを踏み始めた。
「金髄鉄針河豚の皮や棘、内臓はな、極上の嗜好品……。『マタタビ』もメじゃない最高の……マタタビ!」
「結局マタタビじゃないですか」
「俺は! 猫又の! マタタビ帝王! ああ……全身がビリビリして、脳みそがトロトロになるぅ」
玄翁は叫ぶと再び床に転がり、至福の表情でぶるぶる震え始めた。
「クセになるぅ! もっと、もっとくれぇ!」
「……」
玄翁の目は完全にイッている。
周囲の狐たちも、ゾンビのように湊に這い寄ってきた。
「湊おぉ、肝を……肝をくだされ……」
「痺れたい……もっと痺れたいイイイィ!」
繰り広げられる光景は頽廃そのもの。
むせかえるような場末感、堕落しきった酒池肉林の宴のようだった。
湊は引きつった笑みを浮かべながら後ずさった。
「あ、あの。ダメです。これ以上は身体に毒ですから」
「ケチぃ! 人間だけズルいぞぉ!」
「俺は食べてませんよ! 死ぬから。秒で死ぬから!」
結局、彼らが正気に戻るまで半日近くかかった。
復活した玄翁たちは、
「久々にキメすぎた」
「明日から仕事頑張れるわ」
と妙にスッキリした顔をしていたが、湊は固く心に誓った。
(二度とフグの残りは放置しないでおこう)
そして、彼らに改めて忠告した。
「いいですか、今後は絶対にフグ毒の部分は食べないでくださいよ。仕事にならないでしょうが」
「へいへい。でもたまには頼むよ、裏メニューで」
玄翁がウィンクをしてくる。
最強の龍は毒をスパイスにし、あやかしたちは合法(?)ドラッグとして楽しんでいる。
まともな味覚と身体の構造をしているのは自分一人だけなのだと湊は痛感した。
「……疲れた」
湊は深くため息をついた。
皆が無事であり、そして(変な形ではあるが)元気になってよかったという安堵も入り混じっている。
フグの毒も使いよう。水天宮は、今日も混沌と美味に満ちている。




