第21話 人界への帰還命令と骨を断つ鱧料理
水天宮の厨房は、いつにも増して活気に満ちていた。
磨き上げられた白木のまな板の上に、淡い光が差し込んでいる。
湊は夕餉の仕込みのため、柳刃包丁を握っていた。トントンと規則正しい音が、心地よいリズムを刻む。
だが、唐突にそのリズムは狂った。
(……あれ?)
視界がぐらりと揺れた。
足元から床が抜け落ちるような浮遊感。キーンという高い耳鳴りが響く。手元が霞み、息苦しさが胸を圧迫した。ポタリとまな板に、鮮やかな赤い雫が落ちた。
「え……」
湊が自らの鼻に手をやると、べったりと赤黒い血がついていた。
拭おうとした瞬間、膝から力が抜けた。湊の身体は、糸の切れた操り人形のように床へと崩れ落ちた。
「湊殿!」
近くで火の番をしていた狐たちの叫ぶ声が聞こえる。遠のく意識の中でも、湊はまな板の上の食材を案じていた。
湊は意識を失ったまま、広間に運び込まれた。
倒れたと聞きつけた伊槌がそう命じたのだ。
畳に寝かされた湊を、伊槌は不安そうに見下ろす。これまでは至って元気に見えたというのに……。
彼は傍に控えた白妙に問うた。
「先ほどまでは大事なかったと聞く。持病があるとも聞かぬ。なぜ、血まで出して倒れたのか」
白妙はじっと湊を見つめ、やがて思い当たったように目を細めた。
「まさか……とは思いますが」
「なんだ。申せ」
「ここに長く居すぎたせいかもしれません」
「居すぎただと?」
「はい。湊殿はただの人間です。水天宮に充ち満ちる重い『水気』が、彼の身体をじわじわと侵し、軋ませているのかもしれません」
「水気が……」
「ここは水を司る神域、水中であり水底でもあります。人間が長きにわたって留まれば、神気と尋常ならざる水圧に耐えかね、身体の組織が壊れてしまいましょう」
「つまり、どうなるのだ?」
伊槌は身を乗り出した。
「私も確としたことは申せませんが……徐々に衰弱し、最後は圧死するかと」
「死ぬ……というのか?」
伊槌は信じられないといった面持ちで呟いた。
白妙は顔を伏せたまま、はっきりと言い切った。
「はい。これまでも、ここに迷い込んで長く生きた人間はおりません。大部分は神々やあやかしに喰われたのでしょうが……そうならずとも、人界の生き物が長居できる場所ではないのです」
伊槌は、庭先に漂う水球や、池の揺らめく水面へと視線を向けた。
水。そのはかり知れない重さ。人間にかかる負荷など、龍である自分は考えたこともなかった。
伊槌の脳裏に、かつてこの水天宮を治めていた姉――龍の巫女の顔が浮かんだ。
(……そういうことだったのか)
姉は昔、この世界に迷い込んだ男を助け、共に日々を過ごした末に人界へ帰した。
なぜ引き止めなかったのか、今なら痛いほど理解できる。男を死なせたくなかったのだ。ここは最初から、人間が生きていける世界ではなかった。
伊槌は、自嘲気味に息を漏らした。
「おかしなものだ。私は、こやつを餌としてしか見ていなかったのに」
出会った当初、湊はただの活きのいい人餌でしかなかった。だが、彼が紡ぎ出す料理の数々を味わい、ひたむきな仕事ぶりに触れるうち、その存在は伊槌の中でかけがえのないものとなっていた。
湊が厨房で美味そうに賄いを食べる顔。
満足気に料理の説明をする誇らしげな瞳。
それらを失うこと――彼がもの言わぬ冷たい骸になることを想像しただけで、伊槌の胸はじくじくと痛んだ。
「宮さま」
白妙が、静かに問いかけてくる。彼をどうするのかと。
「わかっている」
伊槌は静かに目を伏せた。これを、みすみす死なせるわけにはいかない。
「……ん」
湊が目を覚ました時、そこは自室ではなく広間の畳の上だった。彫り込まれた豪奢な天井が見える。
「気がついたか」
低く、ひんやりとした声が降ってきた。
枕元には伊槌が座っていた。黄金色の瞳はかつてなく冷ややかに澄み渡り、射抜くような光を放っている。
「すみません、俺、仕込みの途中で……」
湊は慌てて身を起こそうとしたが、身体は鉛のように重い。頭がくらくらする。
「たぶん、ただの過労です。最近、神さまの接待が続いて寝不足だったから……」
「戯れ言を言うな」
伊槌の声は、氷のように冷たかった。
「過労ではない」
「……え?」
「お前、死ぬぞ」
湊は息を呑んだ。自分が、死ぬ……?
そこへ、白妙がしずしずと広間に入ってきた。伊槌の前に平伏すると、神妙に告げる。
「宮さま。結界を見てまいりました。先日の飢饉の神が去ったことで、時空の歪みが落ち着いております。例の件、可能かと」
「そうか」
伊槌は湊に向き直った。
その顔には一切の感情を削ぎ落とした、冷徹な龍神のそれだった。
「湊。次の満月の夜、人界へ繋がる水脈を開く」
「水脈を……ですか?」
「お前はそれを渡って人界へ帰れ。ここを出てゆけ」
突き放すような宣告に、湊は絶句した。
畳みかけるように伊槌は言った。
「ここには人間を診られる者もおらん。お前の面倒など見きれん。暇を出す。疾く去れ」
それは、あまりにも突然で一方的な申し渡しだった。
「宮さま……」
「返事は聞かん。満月までに身支度を済ませておけ」
伊槌は言い捨てると、立ち上がって足早に部屋を出て行った。白妙は湊の方をちらりと見たが、何も言わず主人に続く。
一人残された湊は、胸の奥にポッカリと穴が空いたような喪失感に襲われた。
(帰れるんだ、日本に)
それは異界に迷い込んだ日から、湊が望んでいたことのはずだった。元いた世界こそが自分の生きる場所だ。帰れるのは喜ぶべきことだ。
けれど、胸に広がるこの空洞はなんだろう。
伊槌の冷たいようで不器用な優しさ。あやかしたちの賑やかな声。二人で囲んだ食卓の温もり。
それら全てを置いていかなくてはならないことが、身を切られるように辛い。
湊は立ち上がり、ふらつく足で厨房へと入った。
自身の頬を両手でパンッと叩く。
「迷っている場合じゃない。作らなきゃ」
こんな時、自分を救ってくれるのは料理だけだ。料理に没頭することで、余計な雑念を払いたかった。
湊が水槽から取り出したのは、神界の海に棲息する「千歯万棘鱧」だった。蛇のように細長い体躯に、獰猛な面構え。鋭い牙が並ぶその姿は、まるで小さな龍のようだ。
(……宮さまみたいだ)
鱧は扱いが難しい魚だ。気性が荒く、身の中に「一寸に二十六筋」と言われるほど細かく固い小骨が走っており、そのままでは口にすることすらできない。
だが、その骨を極限まで細かく断ち切ることで、雪のように白く、上品な甘みを持つ身が現れる。荒々しい外見の裏にある、繊細な真実だった。
湊は、刃渡りの長く重い「鱧切り包丁」を握った。まな板の上に、開いた鱧を皮一枚残して広げる。
深く息を吸い、目を閉じる。そして目を開いた。
厨房に、力強く澄んだ音が響き始めた。
「骨切り」は鱧料理の命とも言える技術である。皮一枚をわずかに残し、身の中にある硬い骨だけを寸分の狂いもなく断ち切っていく。
「一寸二十四枚」――約三センチの幅に二十四回もの包丁を入れる。少しでも力が強すぎれば皮が切れ、弱ければ骨が口に残る。神経を削るような集中力が必要だ。
骨切りの音は、自分を突き放す伊槌の不器用な強がり――頑固な「心の骨」を、一つずつ丁寧に解きほぐしていく作業のようだった。
なぜ自分を追い出そうとするのか。
冷たい言葉の裏で何を考えているのか。
額に滲む汗を拭いもせず、湊は黙々と包丁を振るう。一匹の凶暴な鱧が、無数の美しい切れ目を持つ純白の芸術品へと変わっていった。
夜の帳が下りた頃。湊は伊槌の私室へ膳を運んだ。
「失礼いたします」
伊槌は縁側で月見酒を呷っていた。
満月へ向かって膨らみつつある月を、暗い瞳で見つめている。傍らには空になった徳利が転がっていた。
「夕餉の支度ができました」
膳の上に並べられていたのは、見事な鱧尽くしの料理だった。
まずは、「鱧の落とし(湯引き)」である。熱湯にさっとくぐらせ、氷水で締めた身は切り込みが花びらのように反り返り、純白の牡丹が咲き誇ったかのようだった。添えられているのは、煎り酒と梅肉を合わせた特製のタレである。
次に「鱧と早松茸の椀物」を出した。
澄み切った一番出汁の中に、葛を打たれて真珠のように輝く鱧が沈んでいる。
そしてメインは、白焼きとタレ焼きの二種類を揃えた「鱧の源平焼き」だ。
「……鱧か」
伊槌は、感情のない声で呟いた。
「骨が多く気性の荒い魚だ。わざわざ手間のかかるものを」
「扱いが難しいものほど、美味しくできた時の喜びが大きいものですから」
湊は凛とした声で答えた。
「固い骨があっても、手を入れることで美味しくなる技術があります。どうぞ召し上がってください」
伊槌は無言で箸を取った。
まずは椀物の蓋を開ける。松茸の芳醇な香りが立ち上る。吸い地を一口含み、鱧の身を口に運んだ。
「……ほう」
口の中で、鱧がほろりとほどけた。
無数にあるはずの骨は一切感じられず、ただ滑らかな舌触りと、淡白で上品な旨味が広がる。葛をまとった身は極上の絹のようになめらかで、噛むたびに豊かな出汁と調和していく。
「骨がないな」
「はい。骨切りという技術です。骨を細かく刻んで、存在を消してしまうのです」
「……たいしたものだ」
次に、湯引きに梅肉ダレをつけて口へ運ぶ。梅の爽やかな酸味が鱧の上品な脂を引き立てる。冷たく、美しく、どこか切ない味わいだった。
伊槌は黙々と箸を進めた。
源平焼きの香ばしさ、脂の乗った身の弾力。どれもが至高の味だった。酒が進む。
だが、いくら飲んでも酔えなかった。
美味ければ美味いほど、この味をもう二度と味わえないのだという事実が胸を刺す。
湊が持つ高い技術、食材への慈しみ、何より食べる者への真摯な想いが、料理を通して痛いほど伝わってくる。
湊の心が、料理となって身体に染み渡っていく。
全てを平らげると、伊槌は静かに箸を置いた。
顔色は沈んだままだ。迫り来る別れという事実を変えることはできない。この味を堪能すればするほど、彼を失うことが怖くなる。
「……湊」
伊槌が、重い口を開いた。
「美味かった。正直に言えば、お前の腕を手放すのは惜しい。だが、私の意志は変わらん」
湊の顔を見ずに言った。
「人界へ帰れ。これは命令だ」
湊は空になった膳を見つめたまま、静かに頭を下げた。
「……かしこまりました」
月明かりが、二人の間に落ちる影を色濃く映し出していた。
言葉にできない想いが、二人の胸の内に降り積もっていく。
帰還の日まで、それほど日はない。
廊下には、湊の足音が寂しく響いた。




