第22話 黄泉の竈のトラブルと松月庵の幻の看板メニュー<上>
水天宮の朝、厨房はいつもなら小気味よい包丁の音と、出汁の芳醇な香りで明けるはずだった。
だがその日、宮殿は墓所のような静寂と、骨まで凍みるような冷気に包まれていた。
「だ、だめだ。火がつかない!」
玄翁が、かまどの前で悲鳴を上げた。
「炭も、薪も、油を使ってもつかない。これじゃ白湯の一杯も淹れられん!」
「厨司長、落ち着いてください」
なだめつつ、湊も必死に火打石を打ち合わせた。
火花は散るが、それが種火に移ることはなく、虚しく闇に吸い込まれていく。世界から「熱」という概念そのものが奪われたかのようだった。
狐たちも寒さに身を寄せ合い、ガタガタと震えている。
「……祟りだ。これは間違いなく、竈の火の神の怒りだ!」
玄翁が頭を抱えて騒ぎ立てる中、涼やかな声が響いた。
「騒がしいな」
現れたのは、伊槌だった。
彼も美しい黒髪に霜のようなものをかぶり、吐く息は白い。
「宮さま。申し訳ありません、火が……起きないのです」
「『黄泉の竈』で何か起きたな」
伊槌は、冷え切ったかまどを一瞥した。
「黄泉の竈……ですか」
「水天宮の熱源だ。どうやら地の底、冥府との境界にある『原初の火』を守る神が機嫌を損ねたらしい。神々の来訪と、先の飢饉の神の騒ぎで力を使いすぎたか」
初めてのことではないのか、伊槌は落ち着き払っていた。
彼は食材庫に入ると、清めの塩と最高級の神酒が入った瓶を持って出てきた。
「挨拶に行くぞ、湊」
「えっ、俺もですか?」
「直に赴き、火の神に美味いものを捧げる約束をして機嫌を取るしかあるまい。……早くせねば、七凪が凍えてしまう」
「俺が行けば、先方の機嫌が直るんですか」
「知らん」
「……」
なんだそりゃと湊は思ったが、口には出さなかった。
「だが、腕の良い料理人を連れて行けば、説得力が増すというものだ」
それだけ言うと、伊槌は踵を返した。
湊は急いで厚手の羽織をまとい、前紐をきつく締めた。
「お供します」
二人は、宮殿の最奥にある扉から、地下へと続く長い石の階段を下りていった。
下りてゆくにつれ、地下を流れていた翠色の美しい水流は姿を消し、周囲は墨を流したような闇一色に覆われていく。石段を一段下りるごとに、生者の世界から遠ざかるような圧迫感が増していく。
伊槌は、湊の前を歩いていた。
手には土産物と蒼い燐光を放つ提灯を下げている。淡い光が、足元を危うげに照らしていた。
伊槌の胸中には、昏い衝動が渦巻いていた。
背後についてくる湊の足音を聞きながら、彼は思った。
……このまま、どこかへ連れ去ってしまいたい。
次の満月で、湊は人界へ帰る。それを告げたのは自分だ。
帰すべきだと決断したのも自分だ。だが、いざその時が迫るとどうにも肚の底がざわつく。
いっそ、自分も湊と共に人界へ行ってしまおうか。そんな馬鹿げた迷いが脳裏を掠める。
人の世で湊と共に暮らす。湊が作る食事を食べる。想像するだけで満ち足りた情景だった。
けれど、それは許されない。
伊槌は、提灯の柄をぎゅっと握り込んだ。
自分には七凪がいる。まだ幼く、病弱な弟である。
自分は水天宮の主として、兄として、七凪を守り育てる義務がある。水龍の使命を放り出すことはできない。
自然と足取りが重くなる。
「宮さま? どうなさいました」
背後から、湊の心配そうな声がした。伊槌は己を律するように息を吐き、前を向いたまま答えた。
「なんでもない。足元に気をつけろ。踏み外して奈落に落ちれば二度と戻れんぞ」
やがて、二人は広い地下空洞に出た。
最奥には巨大な岩塊をくり抜いて作られた古代の祭壇のような「黄泉の竈」があった。
炉内にあるはずの炎は、今は風前の灯火で、頼りなく揺らめいている。
「これが、水天宮の火の源……」
湊が呟くと、闇の奥から無数の青白い光が浮遊してきた。
蛍のように見えたが、もっと儚く悲しげな光。
それらは湊の周りを飛び回り、何かを囁くように明滅する。
『温かい』
『肉の匂いだ』
『帰りたい……帰りたい』
一瞬だけ頬に触れた光は、氷のように冷たかった。
湊は思わず息を呑み、後ずさった。
「かつて、この世界に迷い込んだ人間たちの成れの果てだ」
伊槌が厳かに告げた。
「他の神々やあやかしの餌食となった者たちの魂だ。最終的にはこのかまどにくべられ、水天宮の熱源となる」
湊は目を見張った。ふわふわと漂う儚い光たち。
かつては自分と同じように生きていたが、異界に迷い込んだ末に無惨な最期を遂げた。
「お前も、一歩間違えればこうなっていた」
伊槌は、湊を直視せずに言った。声には自嘲が混じっていた。
「私が気まぐれを起こさなければ。お前が料理を作らなければ……。今頃お前も、この炉の中で燃える燃料だった」
湊は、浮遊する光を見つめた。
自分と彼らの違いは何だったのか。
料理ができたからか。いや、そんなものは運がよかっただけの偶然にすぎない。
伊槌が湊を「食べる」ことを猶予し、厨房という居場所を与えてくれたからこそ、今の自分がある。
気まぐれという名の慈悲がなければ、湊もまたここで青白い光となり、永遠に帰れぬ家を思って泣いていた。
自分がここに立っていられるのは、伊槌の情けと奇跡の上に成り立っている。
「……宮さま」
湊の声はかすかに震えた。
「ありがとうございます」
伊槌が驚いて振り返る。
「何だ、急に」
「俺を食べずにいてくれて。ここまで生かしてくれて、ありがとうございます」
湊は深々と頭を下げた。
命を拾われたことへの純粋な感謝があった。
料理を通して、彼らと心を通わせる時間を与えられたことにも。
「おかげで、俺は厨房のみんなや七凪さまと出会えました。これは何より得難いことのように思えます」
伊槌は短く嘆息し、バツが悪そうに視線を外した。
「変な奴だ。食われるところだったのだぞ。礼を言われる筋合いなどない」
その時だった。
ゴゴゴゴ……と地鳴りが響き、かまどの奥から巨大な影が立ち上がった。
溶岩のような赤い肌、灰をまぶしたような縮れた髪。
「竈の火の神」が、憤怒の形相で二人を見下ろしていた。
「久しいな、水龍の小僧」
旧知なのか、竈の神はぞんざいな口をきいた。
「ああ、幽冥底津竈門火産霊神よ。宮の火が絶えてしまってな。分けてもらいにきた」
「……火が欲しいか」
火の神の声は、岩が擦れ合うような重低音だった。
「ならば、贄をよこせ。そこにいる、美味そうな人間の男をな」
火の神の巨大な手が、湊へ伸びる。
湊が身構えた瞬間、伊槌がすっと前に立ち塞がった。
「断る」
伊槌の声には絶対的な王の威厳があった。
「この男は私の厨司だ。私の許しなくば、指一本触れさせん」
「ほう? お前が人間をかばうというのか」
「こやつは賓客でもある。客を無事に帰すまでが水天宮の主の務めだ」
伊槌は、持参した神酒と塩を祭壇に置いた。
「今日のところは、これで手を打て。日を改めて最高の供物を捧げさせる。こやつは生で食うより、料理を作らせた方が遥かに有益だぞ」
「……なに?」
「こやつの生み出す味は、神々の魂すら震わせる。無粋に肉を貪るよりも極楽を味わえるはずだ」
火の神は、伊槌の瞳を見た。
そこにある揺るぎない意志と、背後の人間に対する絶対的な信頼。
火の神はニヤリと口角を上げた。
「面白い。水龍が、かくも熱い炎を宿すとはな」
火の神は獰猛な笑みを浮かべたまま、手を引っ込めた。
「酔狂な。贄でもないのになぜ連れて来た」
「……自慢したくてな。私の厨司ゆえ」
伊槌はなぜか照れくさそうな顔をしている。
「えっ、そうだったんですか」
湊は素っ頓狂な声をあげた。
旧知らしき火の神に紹介するために、わざわざ連れてこられたのだろうか。伊槌の考えていることはよくわからない。
戸惑う湊に、火の神は呆れたように言った。
「よかろう。その『縁』に免じて、今回は目を瞑ってやる。そこまで豪語する料理とやらを、見せてもらおうではないか。だが、不味ければ容赦はせん。即座にその男ごと灰にしてくれる」
火の神が竈に息を吹きかけると、ボウッと凄まじい音がして炎が復活した。
朱色と金色が混じり合った、力強く清浄な炎だった。
「水龍よ。まさかとは思うが、姉と同じ轍を踏む気ではあるまいな?」
火の神の揶揄するような声に、伊槌は「黙れ」と冷たく言った。
彼は勢いよく燃え上がる火を確認すると、くるりと踵を返した。
「戻るぞ、湊」
「あ、はい!」
すたすたと歩きだした伊槌の背中を、湊は慌てて追いかけた。




