第23話 黄泉の竈のトラブルと松月庵の幻の看板メニュー<下>
水天宮に戻ると、そこにはいつもの活気が溢れていた。
「おお! 火がついたぞ。これで料理ができる」
と玄翁は喜び、やってきた七凪も狐たちと「あったかい!」と歓声を上げている。
伊槌は厨房の様子をしばらく眺めていた。
湊が朝餉の準備を始めるのを見ると、ふらりと外へ出て行った。
夕方になると、湊は食材庫を何度も行ったり来たりして材料を揃えた。
湊が作ろうとしているのは、特別な料理だった。レシピは頭の中にあるのだが、久しぶりなので緊張する。
自分は近いうちに水天宮を去る。
その前に、伊槌に食べて欲しい料理があった。湊の料理人としての原点。家族の思い出が詰まった、大切な一皿を。
「『松月庵』特製、十六種彩具材の箱寿司」
それは、亡き祖父が祝いの席でのみ作っていた、松月庵の幻の看板メニューである。手間がかかりすぎるため普段は出さず、メニュー表にもない。常連客でも知る者はごくわずかだった。
湊は、記憶の中にある祖父の背中を追うように準備に取り掛かった。
まずは、酢飯。少し硬めに炊いた米に、赤酢と砂糖、塩を合わせた特製の合わせ酢を回し入れ、切るようにして混ぜる。立ち上る湯気と共に、食欲をそそる芳醇な香りが厨房に広がる。
次に、十六種類の具材。これらを一つ一つ丁寧に仕込んでいく。
「海老」は背わたを取り、酒で煎りつけて鮮やかな赤に染める。「穴子」は甘辛いツメで柔らかく煮込み、香ばしく焼き上げる。「鯛」と「小肌」は酢で締めて旨みを引き出す。「椎茸」と「干瓢」は戻し汁と醤油でじっくりと煮含めた。「蓮根」は歯ごたえを残した酢蓮に、「絹莢」は塩茹でして鮮やかな緑に。「厚焼き玉子」は出汁をたっぷりと含ませ、黄金色にふっくらと焼き上げる。
下ごしらえされた食材たちが、薄暗くなってきた室内で鮮烈な色彩を放った。
「……綺麗なもんだな」
傍らで見つめていた玄翁が、思わずといったふうに感嘆を漏らす。
湊は、木製の押し型を取り出した。
ここからが箱寿司の真骨頂だ。
まず、箱の底に酢飯を半分ほど敷き詰める。
その間に細かく刻んだ椎茸や干瓢、桜色の「田麩」を挟む。見えない土台だが、味の深みを決める重要な層だ。さらに酢飯を重ねて平らにならす。
そこへ、キャンバスに絵を描くように具材を並べていく。
赤、黄、緑、白、茶。計算し尽くされた配色と味のバランス。
海老の赤の隣には玉子の黄色。絹莢の緑の隣には透き通るような鯛の白。中央には宝石のように「いくら」を散らし、アクセントに紅色の生姜と香りの良い木の芽を添える。
最後に押し蓋をし、均等に体重をかけてじっくりと押し固める。この圧力で米と具材が一体となり、空気が抜けて密着するのだ。
「美味しくなれ」
湊は祈るように呟いた。祖父がそうしていたように。食べる人の笑顔を思い浮かべながら。
型を外し、包丁を入れる。
切り分けられた断面は、寸分の狂いもない美しい層を描いていた。
「完成」
黒塗りの盆に盛られた箱寿司は、豪華絢爛な錦織か、あるいは宝石箱のようだった。
十六種類の具材が織りなす色彩のモザイク。その一皿は、春の陽だまりのように輝いていた。
湊は膳を持って、伊槌の私室を訪ねた。
「宮さま。少しお時間をいただけますか」
膳を差し出しながら、湊は言った。
「火が戻った祝いに。そして、火の神への捧げ物にする前にどうしてもあなたに食べていただきたくて」
伊槌は蓋を開け、そこに現れた見事な意匠に息を呑んだ。
「これはまた美しいな。崩して食べるのが惜しいほどだ」
「俺の祖父が作ってくれた料理の中で、一番好きなものです」
湊は少し照れくさそうに微笑んだ。
「子供の頃、誕生日にこれを作ってもらうのが楽しみでした。一つ一つの具材に意味があって、甘かったり酸っぱかったりと色んな味がして。食べると、どんなに辛いことや嫌なことがあっても、明日も頑張ろうと思えたんです。来年も絶対これを食べるんだって」
湊は、まっすぐに伊槌の瞳を見つめた。
「宮さまに食べて欲しかった。俺の、一番大切な味を」
伊槌は無言で寿司を見つめた後、恭しく箸を伸ばした。美しい造作を崩さぬよう、慎重に口へと運ぶ。
咀嚼する音が響く。
押し寿司特有の、むっちりとした酢飯の食感。
そこへ具材たちのシンフォニーが重なる。
穴子の濃厚なコク、酢蓮のシャキシャキとした歯ごたえ、玉子の優しい甘み、海老の弾力。噛みしめるたびに異なる味と食感が現れては消え、口の中で見事に調和していく。
ただ美味いのではない。
心の奥底に染み渡るような、滋味深く懐かしい味だった。
「……む」
伊槌は目を閉じた。
ここには、湊の歴史がある。
彼が家族に愛されてきた記憶があり、培ってきた確かな技術があり、そして何より、自分へと向けられた真摯な想いがある。
伊槌の表情から、王としての険しさが消えていく。
そこにはただ、美味しいものを食べて安らぐ一人の青年の顔があった。
「温かい気がする。冷たい寿司のはずなのに……不思議だ」
二切れ、三切れと箸を進める。
一口一口を慈しむように、ゆっくりと味わっている。その横顔を見つめながら、湊は胸がいっぱいになった。
(ああ、よかった)
自分のルーツが、想いが、この人に届いている。
「美味かった」
最後の一切れ――いくらが乗ったきらびやかな部分を食べ終え、伊槌は深く満足げな息を吐いた。
(……残酷な奴だ)
伊槌は己の裡で密かに呟いた。
こんなにも心が満たされるものを食べさせられては、手放す決意が鈍ってしまうではないか。
この味を明日も、明後日も、十年後も食べていたいという愚かな願望が首をもたげる。
「見事だ。十六の音が重なり合う、極上の音楽を聞いた気分だ」
伊槌は率直に称賛を贈った。
それ以上の言葉――「行くな」という本音は封じ込めた。
神と人。住む世界が違うのだ。
彼をここに留めれば、遠からず黄泉の竈の周囲を漂う魂と同じ末路を辿る。
彼を生かす唯一の方法は、手放すことだ。
「……湊」
「はい」
「もしや、この寿司は火の神にも捧げるのか?」
湊は当然のように頷いた。
「ええ。この後、あちら用に作ります。約束ですからね」
伊槌はあからさまに眉根を寄せた。
「あの粗忽な神にこれを食わせるのか。味がわかるとは思えん。勿体ない話だ」
「自分だけが味わいたい」という独占欲が透けて見える様子に、湊は思わず吹き出した。
「かといって手抜きはできませんよ。また火を止められても困りますし」
「……それもそうか」
伊槌はしぶしぶといった態で諦めた。
二人だけの、穏やかな時間が流れていく。
夜毎の至福を分かち合うたびに、確実な別れが近づいていることを、互いの胸にしまい込みながら。




