第24話 「和食の真髄と宮中料理のフルコース」の準備
水天宮の空に浮かぶ月は、夜を重ねるごとにその丸みを増し、冷たい輝きを水天宮へ投げかけていた。
満月が来れば、帰還のための水脈が開く。
湊がこの異界の宮殿を去るまで、残された時間はあとわずかとなっていた。
(最後の日まで精進あるのみ)
湊は自室で大きく息を吸い込み、調理着の紐をきっちり結んだ。
実を言えば、最近は身体のあちこちに重い疲労や痛みを感じるようになっている。
見えない神界の気が、着実に身体を蝕んでゆく。
伊槌が言ったように、ここにいればいずれ死ぬ。そのことは湊も身に染みて理解していた。
厨房に入ると、すでにあやかしのスタッフがずらりと並び、湊を待っていた。
厨司長の玄翁や兎たち、給仕の狐たち、下働きのカワウソやカエルたち。皆、どこか落ち着かない様子で尻尾を揺らしたり、俯いたりしている。
「みんな、おはようございます」
湊は、努めて明るい声を出した。
「いよいよ明日が、俺がここで腕を振るう最後の日になります。だから今日は、明日の大宴会に向けて、そして今まで助けてくれたみんなへのお礼に、とびきりの料理を作りたいと思います」
湊が広げた献立表には、墨で「和食の真髄とハレの日の御膳」と書かれていた。
「明日は、俺のいた世界――現代日本の宮中で正月に振る舞われる『有職料理』の雅やかさと、祝いの席の和食を織り交ぜた特別な御膳を出します。水天宮という神々が集う宮殿にふさわしい、最高のおもてなしにしたいと思います。みんな、手伝ってくれますか」
「当たり前だろ!」
玄翁が頭を突き出すようにして声を張り上げた。
「お前の最後の晴れ舞台、わしらが命懸けで裏方を務めてやる。さあ野郎ども、気合い入れろ!」
「おおお――っ!」
厨房は、かつてないほどの熱気と活気に包まれた。
湊は陣頭指揮を執りながら、自らが持つ全ての技術と知識を総動員して仕込みを始めた。
宮中の料理とは、単なる贅沢な食事ではない。
食材の持ち味を極限まで引き出し、清らかに、見た目にも美しく仕立て上げる総合芸術だ。
湊が最初に取り掛かったのは、宮中の正月行事に欠かせない伝統菓子「菱葩」――通称、花びら餅だった。平安時代から伝わる「歯固めの儀」を起源とするこの菓子は、長寿と繁栄を願う特別なものだ。
薄く丸く伸ばした純白の求肥の上に、薄紅に染めた菱形の餅を重ねる。その中央に、京都の白味噌をベースにした上品な甘さの餡と、蜜で煮含めた柔らかな牛蒡を一本、真っ直ぐに置く。そして、ふわりと半分に折りたたむ。滑らかな生地から、内側の紅色がほんのりと透けて見える。その姿は、雪の下で春を待つ梅の花びら、あるいは高貴な姫君の十二単のように雅やかだった。
「うわあ、綺麗……」
餅を見た狐が、ほうっとため息をつく。
「甘いお味噌と、根菜の牛蒡をお菓子にするなんて。人界の料理は不思議だね」
「牛蒡は地中に深く根を張るから、家の安泰を願う縁起物なんだ。白味噌はお雑煮に見立てているんだよ」
湊は説明しながら、出来上がった花びら餅を漆黒の重箱に並べていった。
料理の仕込みは続く。
まな板の上には、神界の海で獲れた見事な真鯛が横たわっていた。鱗は桜色に輝き、瞳は澄み切っている。湊は手早く三枚に下ろしていく。
骨から引いた旨味と、極上の利尻昆布の出汁を合わせ、薄口醤油と酒で味を調える。
巨大な土鍋に研いだ米を入れ、出汁を注ぎ、こんがりと焼き目をつけた鯛の半身を乗せて炊き上げる。
シュンシュンと湯気が立ちのぼる。厨房いっぱいに、えも言われぬ香ばしさと潮の香りが広がる。カワウソがたまらないといった様子で鼻をひくひくさせている。
火から下ろし、少し蒸らしてから土鍋の蓋を開けると、ふっくらと炊き上がった米と黄金色に輝く鯛の身が顔を出した。湊は骨を丁寧に取り除き、身をほぐして米と混ぜ合わせる。最後に、色鮮やかな木の芽を散らした。「祝いの鯛飯」の完成だ。
「さあ、これは皆の分だ。味見してくれ」
湊が皆の器にたっぷりと盛って差し出すと、動物たちは歓声を上げながら飛びついた。
「美味い。なんという上品な味だ」
「鯛の旨味が、米の一粒一粒に染み込んでる!」
そして、湊は狐たちに向けて、特別な「まかない」を用意していた。
「君たちにはこれだ。『特製・稲荷ずし』だよ」
それは、ただの稲荷ずしではなかった。油揚げは、水天宮の蔵にあった「黄金大豆」を用いて玄翁が手作りした肉厚のもの。
それを湊が甘辛く、決してくどくならない絶妙な塩梅で煮含めた。中の酢飯には、香りの強い柚子の皮、煎った金胡麻、甘く煮た蓮根を細かく刻んで混ぜ込んである。
一口かじれば、じゅわっと溢れるお揚げの甘い汁と柚子の爽やかな香り、蓮根のシャキシャキとした食感が、見事な三重奏を奏でる。
「きゅんっ。こ、これは素晴らしい!」
「たまらないです、湊さん。こんな美味しいお稲荷さんは食べたことありません!」
狐たちは耳を伏せ、尻尾を千切れんばかりに振って大喜びで頬張っている。その愛らしい姿を見つめながら、湊の目尻は自然と下がった。
宴の仕込みが一段落し、厨房が静けさを取り戻した夕暮れ時。湊は、裏口から出たところに置いてある床几台に腰掛け、夜風に当たっていた。
薄青い空には、明日満ちるはずの月がすでに白く浮かび上がっている。
「休んでるか、湊」
背後から声がした。玄翁がやってきて隣に腰を下ろした。手には、温かいお茶が入った湯呑みが二つ握られている。
「お疲れ様です、厨司長」
湊は湯呑みを受け取り、その温もりにほっと息をついた。
玄翁は茶をすすりながら、遠くの空を見つめてぽつりと言った。
「お前がいなくなると、あの『大根の皮のきんぴら』が食えなくなるな」
「えっ?」
湊は玄翁を見た。大根の皮のきんぴら。それは大膳課の教えである「始末の料理」として、大根の皮を千切りにし、胡麻油で炒めて醤油とみりんで味付けしただけのごくありふれたまかない料理だ。
豪華な宴の料理でも、神界の珍味でもない。
「あんなの、いつでも作れますよ。大根の皮を捨てずに炒めるだけですから」
「違う」玄翁は、静かに首を横に振った。
「わしらも料理人の端くれだ。味覚は並の人間よりはるかに鋭い。同じ材料、同じ調味料で作っても、お前が作るきんぴらと、わしが作るきんぴらは絶対に違う味になる。お前の料理には……食う者の胃の腑だけでなく、心まで温める魔法がかかってるんだ」
玄翁の言葉に、湊は胸が熱くなった。自分の何気ない料理が、厨司長の心にそれほどまでに響いていたなんて。
湊は、懐から分厚い和紙の束を取り出した。
それは湊がここへ来てから、せっせと書き溜めていたものだった。
神界にある未知の食材の特性、下処理の方法、現代日本の和食の技術を応用したレシピ、さらに伊槌や七凪の好みの味付けと細かな調整まで……。
湊の、水天宮での料理人としての全てが詰まった「レシピ帖」だった。
「これを、厨司長に受け取っていただきたいんです」
湊は、紙の束を玄翁の膝の上にそっと置いた。
「俺がいなくなった後も、これで宮さまにお食事を作って差し上げてください。宮さまは刺激のあるものがお好きですが、胃に負担がかかるので隠し味に甘みを少し。七凪さまは魚の小骨を嫌がるので、必ず骨切りをするか、すり身にして……」
早口で説明しようとする湊の声を、玄翁の大きな手が遮った。
「馬鹿野郎」
玄翁の声は、震えていた。
「こんな紙切れで、お前の代わりが務まるか」
「厨司長……」
「料理ってのは、誰が作るかで味が変わるんだ。どんなに完璧なレシピがあろうと、宮さまを……わしらを笑顔にできるのは、世界でただ一人、お前だけなんだぞ」
玄翁の丸い目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。屈強な猫又の彼が、子供のように鼻をすすって泣いていた。
「なんで、お前じゃなきゃいけないんだ。寂しいじゃないか……」
湊は、返す言葉を見つけられず押し黙った。唇を強く噛み締め、膝の上で拳を握りしめる。
(俺だって……帰りたくない)
心の奥底に必死に封じ込めていた本音が、決壊したダムのように溢れ出しそうになる。
伊槌と離れることが、今はこんなにも辛い。
彼が自分の料理を食べて、王の仮面を下ろして安らぐ瞬間を見るのが何よりも好きだった。
朝早くに起きてかまどに火を入れ、水天宮の皆の笑顔のために包丁を握る日々。気付けばここが、自分の本当の居場所のように思えていたのに。
だが、人間の身体はいずれ限界を迎える。
伊槌は湊を案じるがゆえに、心を鬼にして突き放した。
彼の不器用な優しさと決断に、甘えるわけにはいかない。
「厨司長。……ありがとうございます」
湊は涙声になるのを必死に堪え、深く頭を下げた。
「俺は、ここで皆と料理ができて本当に幸せでした。このレシピ帖は俺の魂です。どうか、受け取ってください」
玄翁は顔を乱暴に袖で拭うと、分厚い和紙の束を強く抱きしめた。
「……仕方がない、預かってやる。その代わり、明日の宴は宮さまの度肝を抜くような、最高の料理にしろよ。わしも死ぬ気で手伝うからな」
「はい。必ず」
空に、冷たい星が瞬き始めた。
湊の心には、清々しいほどの決意が満ちていた。
言葉で伝えきれない想いは、全て明日の料理に込める。
自分が愛する和食の真髄と、宮のみんなへ――そして伊槌へのありったけの感謝を乗せて。




