第25話 八百万の宴と華やかな祝いの膳<上>
水天宮の大広間は、幽玄にして絢爛たる空気に包まれていた。
磨き上げられた瑠璃色の床には、降り注ぐ柔らかな光が波のように揺らめき、壁面に設えられた珊瑚の燭台では、清らかな神火が荘厳な光を放っている。
今日は、いよいよ湊が人間界へ帰還する日。
水天宮の主・伊槌の計らいにより、これまで湊の料理に心を動かされ、神界の平穏に寄与してきた穏健な神々が招かれていた。
「いやはや、久方ぶりの水天宮の宴! この日をどれほど待ちわびたことか」
豪快な笑い声を上げ、盃を干すのは辛子の将軍である。
「まこと、まこと。湊殿の繊細な味付けは、我が古き身体のヒビにも染み渡りますゆえな」
渋い声で相槌を打つのは、岩肌のような皮膚を持つ古瀬戸の神。瀬戸物の神らしく、出される器の雅趣をも愛でている。
「ほっほっほ。今日はどのような驚きが待っておるのか、楽しみでなりませぬな」
苔色の狩衣をまとった新茶の翁が、柔和な笑みを浮かべて席についた。
彼らの並びには、七凪も腰を下ろしていた。
子どもゆえに食べられるものは限られるが、伊槌は弟にも同席を許したのだ。
だが、七凪の顔は沈んでいる。
彼もまた密かに、湊の帰還を悲しんでいた。
これからもずっとここにいてほしいと思っていたが、水天宮に留まれば湊の命が危ないと知った以上、我儘は言えない。何より、兄の決定は絶対だ。
七凪の給仕をするべく控えた槇野が、後ろから顔を覗かせながらうきうきと囁く。
「七凪さま。ご安心めされよ。お酒や大人向けのお料理は、この槇野が残さず頂戴いたしますゆえ。むしろ、他のお皿も少しずつ残してくださると嬉しいのですぞ」
「うん、それはいいけど……。お前はちょっと、ずうずうしいね」
神々が上座の伊槌に一礼し、乾杯が済んだのを合図に、湊と美しく着飾った狐たちが御膳を運び入れた。
湊は凛とした表情で広間の中央に立った。
「本日は、自分のいた世界……人界の宮中で正月にのみ振る舞われる『ハレの御膳』をご用意いたしました。平安の御代より受け継がれる、有職料理の粋を感じていただければ幸いです」
湊のよく通る声が、広間に響く。
最初に供されたのは、前日に丁寧に仕込んでおいた「菱葩」だった。
「ほほう、牛蒡の入った菓子か。土の香りが味噌の甘みとこれほど合うとは」
新茶の翁が目を細める。
柔らかく炊かれた牛蒡は、驚くほどに繊維を感じさせず、口の中でふわりとほどけていく。
続いて運ばれたのは、朱塗りの高足膳に乗せられた「一の膳」と「二の膳」である。
一の膳には、祝い肴が並ぶ。
黒く艶やかに煮上げられた黒豆は、邪気を払い、勤勉さを象徴する。数の子は子孫繁栄を、田作りは五穀豊穣を。それらは少しずつ、計算された色彩の対比をもって盛り付けられている。
二の膳には、宮中料理の華とも言える「雉の酒焼き」と「お雑煮」が据えられていた。
「ほほう、これは野鳥か」
辛子の将軍が、雉の肉を口に運び、カッと目を見開いた。
酒と薄口醤油、柚子の香りを幾重にも塗り重ねながら、炭火でこんがりと焼き上げられた雉肉。
噛み締めた瞬間、野性味溢れる力強い旨味と、酒焼き特有の芳醇な香気が鼻腔を突き抜ける。
「なんという滋味か……。鶏とは違う、血の通った濃い味がする」
お雑煮は、湊が最も神経を注いだ一品だ。
具材はシンプルに焼いた丸餅、小松菜、透き通るような大根のみ。その真髄はつゆにある。最高級の昆布と、血合いを取り除いた鮪節で引いた一番出汁だ。
「……美味い。なんという澄み切った味わいか」
古瀬戸の神が、深く感じ入ったようにため息をついた。
「人の世の頂点にある者たちは、かくも清らかで、水のように穢れなきものを食しておるのか」
上座で杯を傾ける伊槌は、無言のまま満足げな笑みを浮かべていた。
その眼差しには、今日で見納めとなる湊の晴れ姿を、見事な料理の数々を、一つ残らず網膜に焼き付けようとする密やかな熱がこもっていた。
だが、底なしの胃袋を持つ神々にとって、これらはまだ序章に過ぎない。
「お気に召して光栄です。では、ここからが宴の主役、主膳となります」
湊が合図を送ると、狐たちが次々と大皿や椀を運び込んできた。ここからは、儀式的な料理から、酒を楽しむための美食へと移り変わる。
前菜として供されたのは、一つの盆の上に四季の移ろいを表現した「八寸」である。
春の息吹を感じさせるタラの芽の天ぷらには、抹茶塩を添えて。夏の涼を呼ぶ青梅の蜜煮は、翡翠の宝石のよう。秋の実りを象徴する栗の渋皮煮には繊細な金箔をあしらい、冬の雪を模した一品には、裏漉しした鯛の白子の真丈を据えた。めくるめく色彩の乱舞に、神々は感嘆の声を漏らし、杯を進める手が止まらない。
続いては「煮物椀」──湊が「椀刺」と呼んで仕込んだ一品だ。これは湊のオリジナリティを加えたものである。
漆黒の椀の蓋を開けると、ふわりと柚子の香りが立ち上る。澄んだ吸い地の中には、花びらのように細かく骨切りされた牡丹鱧が咲き誇っている。
「椀刺とは、生の刺身と煮物の中間にある料理です」と、湊が解説する。
熱い出汁をかけることで、鱧の表面は霜降りのように白く引き締まり、中は生の甘みを残す。梅肉を少し溶いて口に含めば、淡白な鱧の身から極上の脂が溶け出し、酸味と見事に調和して喉を潤す。
さらに「春子鯛の姿寿司」が登場する。
手のひらに乗るほどの小さな真鯛の幼魚を昆布締めにし、酢で軽く洗ったものだ。桜色の美しい皮目には、鹿の子模様に細かく隠し包丁が入れられ、酢橘の香りを効かせた酢飯を優しく抱き込んでいる。
「なんと愛らしい。崩して食べるのが惜しいほどじゃ」
と言いつつ、新茶の翁が一口で頬張れば、幼い鯛ならではの柔らかな身と上品な脂の甘みが口いっぱいに弾けた。




