第26話 八百万の宴と華やかな祝いの膳<下>
「たまらん! 酒を持ってこい。もっと強い酒を」
辛子の将軍が叫ぶ。
「海の幸だけではない。この『蟹の砧巻き』も絶品よ。大根の薄切りで蟹の身を巻き、黄身酢をかけてある。……神業のごとき包丁の冴え」
「こちらの『鰻の白焼き』もどうか。神界の清流で育った鰻を、ただ素焼きにして塩と本山葵だけで食わせる。素材への絶対の自信がなければできぬ業よな」
「おお、こちらは『鮑の酒蒸し』か。柔らかく、それでいて磯の香りが濃厚じゃ」
神々は次々と供される豪華絢爛な料理に酔いしれた。
「人界の食事とは、これほどまでに洗練されておるのか」
「いや、これは湊殿の並々ならぬ腕あってこそよ」
広間は絶賛の嵐に包まれる。
笑い声がさざめく中、上座に座る伊槌は、杯を傾けたままほとんど口を開かなかった。
黄金の瞳は、料理に舌鼓を打つ神々でも、美しい器でもなく――厨房と大広間を往復し、忙しく立ち働く湊の背中だけを追っていた。
(明日にはもう……あれはいない)
伊槌の胸に、冷たい刃で内臓を抉られるような痛みが走る。
湊の所作は、どこまでも無駄がなく美しい。
熱気で少し乱れた黒髪。真剣な眼差し。料理の出来栄えを確認した後に見せる安堵の微笑み。
神々が料理を褒めそやすたびに、伊槌は痛感させられた。
これほどまでに舌と心を豊かにしてくれる彼を、自分は手放さなければならない。
伊槌は、強い神酒を呷った。
熱い酒が喉を焼いてゆくが、心の奥底にある渇きは癒えそうにない。
「……宮さま?」
傍らで声がした。
見れば、湊が心配そうな顔で伊槌を覗き込んでいた。手には、新しい徳利を持っている。
「あまりお箸が進んでおられないようですが……お加減でも悪いのですか。何か、別のさっぱりしたものをお作りしましょうか」
湊の純粋な気遣いが、伊槌の自らに課した重い枷を壊しそうになる。
「……いや。大事ない」
伊槌は湧き上がる感情を悟られまいと素っ気なく答え、視線を逸らした。
「次の料理を出せ。客が待っている」
「はい。いよいよ、メインの魚料理です」
湊が一礼し、厨房へと戻っていく。
その背中を見送りながら、伊槌は強く杯を握りしめた。
硬い陶器にピキリとヒビが入ったが、不穏な音は喧騒の中に消えた。
宴もたけなわとなり、いよいよ主菜が運ばれてきた。
玄翁と狐たちが、大きな青磁の皿を、宝物でも扱うかのように恭しく捧げ持ってくる。
「皆さま、お待たせいたしました。本日の宴の主菜『御祝鯛の塩焼き・小串焼き』でございます」
皿の上には、水揚げされたばかりの一際大ぶりで美しい真鯛が、尾頭付きで鎮座している。その姿は、大海原の荒波を越えてきた王者の風格すら漂わせている。
これはただの塩焼きではない。湊が施したのは、平安時代の饗宴でも用いられた高等技術「小串仕立て」である。
一見すると一匹丸ごとの鯛に見えるが、その身はあらかじめ食べやすい一口大に切り分けられている。
それぞれの切り身に金串を打ち、皮目はパリッと身をふっくらと焼き上げた後、再び元の鯛の姿になるように美しく並べ直してあるのだ。
こうすることで、客は骨を外す煩わしさなく、最も美味しい状態で鯛を味わうことができる。
皮目には絶妙な焦げ目がつき、振り塩の結晶が雪の華のようにきらめいている。添えられているのは、長寿を願う松葉に刺した黒豆と、鮮やかな紅白の「はじかみ生姜」である。
「おお! これは見事な」
新茶の翁が感嘆の声を上げた。
「姿を崩さず、それでいて食する者への配慮が行き届いておる。まさに心のこもった料理じゃ」
「では、頂こうか」
辛子の将軍が、一番脂の乗った腹身に箸を伸ばした――その時だった。
水天宮を包み込んでいた清浄な水膜がどす黒く濁り始めた。
遠雷のような、あるいは地鳴りのような重低音が宮殿の土台を揺らす。
「な、なんじゃ?」
「急に暗くなってきたぞ」
広間を照らしていた光が遮断され、真夜中のような闇が訪れる。
珊瑚の燭台の神火が、強風に煽られたように激しく揺れ、次々と消えていく。楽しい宴の空気は一変し、肌を刺すような冷気と、鼻が曲がるような腐臭が流れ込んできた。
ギシッ、ミシィッと宮殿全体が、巨大な何かに押しつぶされるような軋み音を上げる。
天井の梁が悲鳴を上げ、美しい装飾がパラパラと剥がれ落ちる。
「きゃあああっ!」
配膳をしていた白狐たちが悲鳴を上げ、盆を取り落とす。
湊も思わず床に膝をついた。
空気が泥のように重く、粘り着く。鼻を突くのは、磯の匂いではない。腐った海藻と、古血の混じったような生理的な嫌悪感を催す強烈な異臭だった。
「何事だ!」
辛子の将軍が立ち上がり、腰の剣に手をかけた。
その表情からは、先ほどまでの酔いが完全に消え失せている。
「水天宮の結界が……破られたのか?」
古瀬戸の神が、自身の硬い皮膚を震わせながら呻いた。
伊槌は、上座からゆっくりと立ち上がった。
その手から、ひび割れた杯が粉々になって落ちる。
彼の黄金の瞳は、これまでにないほどの殺気と冷酷な光を放ち、外の闇の奥へ集中した。
そこには、ざわざわと蠢く巨大な質量があった。
明確な形を持たない、ただの黒い泥の塊のように見えるが、不定形にうねり、膨張と収縮を繰り返している。
泥の表面からは、無数の亡者のような手が伸び、苦悶の表情を浮かべた顔が浮かんでは消える。
『ニクイ……』
『ハラガヘッタ……』
『マツレ……マツレ』
数千、数万の怨嗟のうめき声が重なり合い、不協和音となって鼓膜を叩く。
壁や柱に亀裂が走り、黒い泥の一部が室内に侵入し始めた。
泥が這いずった先から、美しい宮廷料理が死の臭いに侵食されていく。
湊が丹精込めて仕込んだ皿の上の「御祝鯛」が、みるみるうちにどす黒く腐敗し、崩れ落ちていった。
「ああっ……」
湊は床に手をついたまま、己の集大成が無残に蹂躙されていく様を、絶望的な目で見つめた。
「……招かれざる客にしては、性質が悪すぎる」
伊槌の声が低まる。
「『穢れ』の大質量。どこで発生した泥芥か知らんが……」
伊槌の周囲に、ゆらゆらと蒼黒いオーラが立ちのぼる。
水天宮の主として、何より湊が心を込めて作り上げたものを泥で汚されたことへの沸点を超える激憤だった。
「この私の宴を――あやつの料理を泥で汚すとは。万死に値する」
最悪の厄災である「腐敗と忘却」の集合体が、水天宮そのものを飲み込もうとしていた。




