第27話 「腐敗と忘却」の神との戦いと七凪の覚醒<上>
水天宮の広間は、たちまち阿鼻叫喚の地獄絵図に塗り替えられた。
宮廷料理の雅な香りと神々の談笑に満ちていた空間が、鼻が曲がるような腐臭と粘着質な絶望に包まれる。
「ひぃぃっ! 足が、わしの足が腐り落ちる」
「腐敗と忘却の具現など、もはや神ではない」
伊槌が客席に向かって叫ぶ。
「逃げろ。 泥には触れるな。神気ごと魂を喰われるぞ」
穏健な神々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
辛子の将軍が豪勇を奮って愛刀を抜き放ち、眼前の泥を一刀両断にした。
だが、刃はすり抜けるのみ。
斬られたはずの泥は嘲笑うかのように再び結集し、より巨大な質量となって膨れ上がる。
それは、形を持たぬ災厄だった。
深海の底、黄泉との境界に、長きにわたり澱のように溜まり続けた腐敗と忘却の念。
かつては畏怖と信仰を集めながらも、やがて人々に忘れられ、祀られることのなくなった神々の怨嗟の集合体。
どす黒い粘液を滴らせながら、水天宮の清浄な空間を侵食していく。
黒い泥の中から無数の触手が槍のような鋭利な形状を成し、呆然と立ち尽くす湊に殺到した。
その切っ先が湊の喉元に迫った瞬間、伊槌が躍り出た。
「私の料理人に触れるな!」
伊槌が右手をかざすと、空間中の水分が凝縮し、分厚い水の盾が現れた。
触手が触れた瞬間、ジュワアアと焼けつくような音が響く。
神気で作られた壁が一瞬で黒く変色し、溶解していく。腐敗の神が放つ呪詛の力だった。
「宮さま!」
「下がっていろ、湊。この期に及んでお前を喰われるのは、後味が悪すぎる」
伊槌は口元に不敵な笑みを浮かべつつ、防戦に徹した。
自分が本気を出せば、この怪物を押し流せるかもしれない。
だが、そのためには広範囲に及ぶ激流を喚ぶ必要があり、そうなると近くにいる湊まで巻き込んでしまう。
ひとたび激流に呑まれれば、人間などひとたまりもない。
「ぐっ……!」
伊槌は短く唸った。
侵入してきた触手が彼の腕に絡みつき、じりじりと焼く。
白皙の美貌が苦痛に歪んだ。その隙を突き、泥の塊が背後から回り込む。鞭のようにしなった触手が、伊槌の肩を打った。
「宮さま!」
鮮血が散った。伊槌の着物が裂け、白い肌に赤い花が咲く。腐敗の毒が傷口から侵入し、神の肉体を蝕んでいく。
(俺のせいだ。俺が足手まといになっているから、宮さまは本気を出せない)
湊は悔しさに唇を噛んだ。守られているだけの自分が、もどかしくてたまらない。
その時だった。
「兄上をいじめるなあああっ!」
少年の、裂帛の気合いが広間に轟いた。
七凪だった。いつも伊槌の後ろに隠れ、病弱で、儚げだった幼き龍。
湊の作った料理を食べ、少しずつ確かな血肉を育んできた小さな若君は、金色の瞳を強く見開き、全身から目映い光を放っている。
「七凪……?」
伊槌が目を丸くする。
「僕だって龍だ。僕は……僕の名は……!」
少年の若々しい声に、幾百の時を重ねた神の重厚な響きが重なる。
七凪は叫んだ。
「我は……我が真名は……『国之清細見分瀬尊』なり」
少年から放たれた莫大な光と熱量に、湊は思わず目を閉じた。
「……力を。水の力よ。来い。……来い! 今こそ、この身を解き放て!」
光の中で七凪の輪郭が溶ける。
四方八方に爆散し、集約して再構築されていく。
小さな手足が伸び、瑞々しい銀色の鱗が波打ち、背には純白の鬣がなびく。
額からは珊瑚のように赤い二本の角が伸び、その瞳は明けの明星のごとき鋭い輝きを宿していた。
一柱の美しき「白銀の龍」の顕現であった。
「七凪、覚醒したのか」
伊槌が茫然と呟く。
白龍となった七凪は、疾風のごとく床を蹴った。
その動きは流れる水のようにしなやかで、雷光のように速い。
七凪は泥をすり抜けると、湊の首根っこを器用に咥えて上へと放り上げた。
「うわあ!」
落ちてきた湊を背中に乗せると大広間を走り回り、逃げ遅れていた玄翁や槇野、狐たちを長い胴体で巻き取ってゆく。
「湊、しっかり掴まって。舌を噛まないようにね」
湊の脳内に直接声が響いてくる。壮年の男のように低いものの、口調は七凪のままだった。
「な、七凪さま。このお姿は……」
湊は龍の鬣に必死にしがみつく。
「兄上、湊は僕が守る。だから思う存分暴れて!」
七凪は身体をくねらせ、天井を突き破らんばかりの勢いで上空へ飛翔した。
「ぎにゃああああっ! 目、目が回るうう!」
玄翁が、毛を総毛立たせて悲鳴を上げた。
隣では槇野も必死の形相で龍の鱗にしがみついている。
「落ちたら終わりですぞ。手を離してはなりませぬですぞ!」
槇野が叫ぶそばから、給仕の狐たちが「きゅぅぅんっ!」と情けない声を上げて暴風に煽られる。
湊は片手で七凪の鬣を力いっぱいに握りしめ、もう片方の手で宙に投げ出されそうになった狐の尻尾を掴んだ。
下から無数の泥の飛沫が矢のように飛んでくるが、白龍は空中で鋭く身を翻した。
突き上げてきた巨大な泥の触手を紙一重で躱し、すかさず銀色の尾を鞭のようにしならせて叩き斬る。
七凪が小さな身に秘めていた神力が、今ここに躍動していた。白銀の軌跡を描きながら、七凪は空を自在に舞い、泥の包囲網を次々と破ってゆく。
「落ちないでよ、湊!」
「はいっ!」
足手まといのいなくなった戦場に、伊槌一人が残される。
伊槌は肩から流れる血を乱暴に拭うと、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「よくやった、弟よ。ならばこちらも行くぞ」
その声は龍特有の、地を這うような重低音に変わる。
瞳孔が縦に細まり、金色の光が爆ぜる。抑圧されていた破壊衝動がついに解放の時を迎えた。
「私の宴を台無しにした罪。その身で贖ってもらおうか」
地が割れるような凄まじい音がして、水天宮は激震した。
地底で眠っていた太古の水脈が、主の怒りに呼応して暴れ出す。伊槌は崩れゆく広間を蹴り、水天宮の庭へ躍り出た。その身体が強烈な光に包まれる。
目を潰さんばかりの閃光。七凪よりも遥かに巨大で、荒々しい蒼黒の龍が顕現する。
鋼鉄のような鱗は深海よりも深く蒼く輝き、剣のごとき鋭い牙、一撃で木々をなぎ倒す太い尾を備えている。
深淵の王たる威厳に満ちたその姿は、あまりにも雄大だった。
「消え失せろ!」
伊槌の咆哮と共に、天地を揺るがす轟音が響き渡った。
空間が歪み、巨大な水の壁――数十メートルに及ぶ大津波が姿を現した。それは大自然の脅威そのものであり、神の怒りの具現だった。
大地を削り、全てを飲み込まんとする波が、宮殿ごと泥の怪物を呑み込む。
さらに、伊槌が尾を打ちつけると、地下水脈から巨大な鉄砲水が噴き出した。下から上へ突き上げる水柱が、大津波と交差し、激しい渦を生み出す。
鉄砲水の凄まじい水圧が泥の壁を粉砕し、大津波がそれを彼方へ押し流していく。暗黒の泥は抗う間もなく水流に巻き込まれ、千切れ飛び、霧散していく。
「やったか?」
上空から見下ろす湊が叫ぶ。
しかし、敵もさるもの。泥の中から恨めしげな顔が無数に浮かび上がり、口々に呪いの言葉を吐く。
『ニクイ……』
『ウラヤマシィ……』
『コッチ、コイ……』
「黙れ、餌にもならん雑魚が!」
蒼黒の龍は空中を泳ぎ、敵の頭上から急降下した。
その巨大な顎が開き、圧縮された高圧の水流が放たれる。レーザーのような水が泥の怪物の中心核を撃ち抜き、凄まじい衝撃波が再び泥を吹き飛ばす。
泥の怪物は核を撃ち抜かれながらも、周囲の濁流を強引に吸収して瞬時に傷を塞いだ。それどころか、無数の巨大な泥の腕を伸ばし、急降下してきた蒼黒の龍の身体に絡みついた。
『オチロ……我ラト同ジ深淵ヘ……ッ!』
「気安く触るな!」
伊槌は激昂し、泥の腕に牙を剥いて喰らいついた。
神気と呪詛が直接ぶつかり合い、バチバチと黒い雷が生まれる。飛ぶ。弾ける。
蒼黒の龍は力任せに泥の腕を引き千切るが、怪物の本体からさらに無数の触手が湧き出し、伊槌の胴体や四肢に何重にも巻き付いていく。
「グオオオオッ!」
伊槌の咆哮と共に、全身から超高圧の水流が刃となって全方位に噴き出した。泥の縛りを内側から切り裂こうとする水神の力。対して、全てを腐らせ、飲み込もうとする忘却の泥。
清冽な蒼い水流と漆黒の粘液がもつれ合う。
水が泥を洗い流そうと激しく渦を巻けば、泥は水を濁らせ、腐敗の毒で侵食しようとする。二つの巨大な力が拮抗し、空間そのものが軋む。
伊槌は鋼の尾を振り下ろし、怪物の頭部と思しき部位を粉砕する。泥は痛覚などないかのように、伊槌の鱗の隙間からじりじりと呪詛の毒を浸透させていく。蒼黒の鱗が腐食して白煙を上げても、水神はさらに深く牙を突き立て、泥を噛み千切る。喰らい、喰らわれる、神話の時代さながらの壮絶な死闘だった。
俯瞰する湊は違和感を覚えた。
伊槌の攻撃は苛烈を極めるが、泥は何をしても消滅しない。水に流されつつも泥は再び集結し、より濃密な悪臭を放って再生を繰り返す。
「だめだ……。物理的な攻撃じゃ倒せないんだ」
湊は考えた。
あの怪物はなぜ現れた?
嫉妬から水天宮を破壊するためか?
破壊したところで彼らは満足するのか?
泥の中から伸びる無数の手。口々に漏らす呻き声。
『ハラガヘッタ……』
『ミタサレタイ……』
『クモツヲヲヲォ……』
力でねじ伏せようとする伊槌には聞こえていないだろうが、湊にははっきりとわかった。
あれは、どうしようもなく飢えているのだ。
かつては人間に祀られ、供物を捧げられていた記憶。それらが失われたことへの絶望。
彼らが求めているのは、戦いでも破壊でもない。
「……贄か」
湊は拳を握りしめた。
怪物が求めているのは、生命力の塊。
だからこそ宴に乱入し、料理を、命を喰らおうとしたのか。
伊槌がどれほど攻撃しても、それは彼らにとって「拒絶」でしかない。拒絶されればされるほど、孤独な神々の怨念は力を増す。
鎮める方法は……おそらく一つしかない。




