第28話 「腐敗と忘却」の神との戦いと七凪の覚醒<下>
湊は白銀の龍に言った。
「七凪さま、厨房へ。厨房へ行ってください!」
「だめだよ。危ないよ。あそこだっていつ泥に沈むか……」
飛んでくる泥の槍を躱しながら七凪が答える。
「あいつらを鎮めるには、力で拒絶しちゃダメなんです」
湊の瞳に強い意志の火が灯る。
「俺は料理人です。空腹の客を前にして、逃げるわけにはいかない。泥は宮さまが抑えてくれている。俺は俺の仕事で応えます」
七凪は、湊の覚悟を感じ取ったのか「わかった。絶対に手を離さないでね」と言った。
空中で身を翻すと、水柱と泥の嵐の隙間を縫うようにして急降下し、厨房がある方へ飛び込んでいった。
厨房は、奇跡的にも破壊を免れていた。
食材棚は宴で使い切ってしまい、ほとんど空っぽだった。
「湊、戻ってきてどうするんだ」
龍の背中から転げ落ちるように降りた玄翁が、息せき切って言った。
「化け物に食わせる料理なんて、もう残ってないぞ。鯛も雉も全部使い切ってしまった」
「いいえ、あります。作るんです」
湊は迷いなく言いきった。
「あいつらが求めているのは『生贄』……つまり命の供物です。でも、ここにいる誰も犠牲にはしません。俺が命そのものに匹敵する『神饌』を作ります」
湊が向かったのは、望めばあらゆる食材が現れる宝物庫ではなく、厨房の片隅に祀られている「神棚」だった。
神棚の下には、水天宮の神事のための特別な食材が置かれている。
湊はそれらを次々と調理台へと並べた。
水天宮の最奥から湧き出る、一切の穢れなき「真名井の水」。天照の御田で獲れたとされる、水晶のように透き通った「極神米」。
海水を煮詰めて作ったダイヤモンドの結晶のごとき「藻塩」。芳醇な香りを放つ最高級の「神酒」。
「『生神饌』。最も古く、最も純粋な神への捧げ物です」
火は使わない。煮炊きもしない。素材そのものが持つ「生命力」を、人間の手によって極限まで研ぎ澄まし神の供物へ高める儀式。
これは料理であって、料理ではない。
「厨司長、三方を用意してください。白木の一番いいやつを」
「わ、わかった」
玄翁は神饌を乗せる台を探しに走る。
湊は深呼吸を一つすると、水場に立った。
まずは米を研ぐ。「極神米」は一粒一粒が硬くて重い。湊は米の中に、冷たい真名井の水を入れた。
水温は氷点に近いが、不思議と冷たさは感じない。清冽な波動のようなものが指先から伝わってくる。
米に水を吸わせる時間はない。湊は手のひらの熱を伝えるように優しく、そして力強く米を洗った。
米を研ぐ音が、水晶のさざめきのように厨房に響き渡る。リズミカルで心地よい音。米同士が擦れ合い、表面のかすかなぬめりが取れ、研ぎ澄まされていく。
一回、水を替える。白く濁った水が、白龍の鱗のような乳白色になってゆく。二回、三回。水は次第に透明度を増し、最後には、水の中に米があるのかわからないほどに透き通った。研ぎ上がった米は、水を吸って内側から発光しているかのように輝いている。
「……美しい」
湊は思わずため息を漏らした。米を洗っただけなのに、そこには神々しいまでの美が宿っていた。
次に、湊はその洗った米を、「かわらけ」と呼ばれる素焼きの白い平皿に盛った。手で直接米を掴み、ふわりと空気を含ませながら円錐形に高く積み上げていく。
崩れそうで崩れない絶妙なバランス。頂点は天を指し、底辺は大地を鎮める。一粒も乱れず、凛とそびえ立つその姿は、それだけで一つの完成された世界であった。
脇には、同じく円錐形に盛った真っ白な藻塩。海のミネラルを凝縮した塩は雪のように白く、強い浄化の力を持っている。
丸い「水玉」という器には、なみなみと注がれた真名井の水。そして「瓶子」には、封を切ったばかりの神酒。栓を抜いた瞬間、果実のような甘く華やかな香りが立ち上り、厨房に入り込みかけた腐敗の臭気を中和していく。
それらを、玄翁が持ってきた三方の上に慎重に乗せる。
「……できた」
完成した膳の上には、白と透明の世界が広がっていた。
彩りはない。派手な装飾もない。しかしそこから放たれる清浄の気配は、先ほどの絢爛たる宮廷料理を凌駕するほどに濃密で、圧倒的な生の輝きに満ちていた。
「七凪さま、お願いします。俺ごとこれを運んでください」
再び白銀の龍の背に乗り、湊は三方を捧げ持って戦場の只中へ舞い戻った。
外は荒れ狂っていた。縦横無尽に走る水の竜巻。泥を打ち砕いては弾ける大波。
蒼黒の龍は、無限に増殖する泥に苛立ち、何本もの触手を鋭い牙で噛みちぎりながら戦っていたがキリがない。
水流のブレスも尽きかけ、無数の泥の腕に絡みつかれて徐々に動きを封じられつつある。
「ギュグルルルゥゥ……ッ!」
怒りに満ちた咆哮を上げ、泥を振りほどこうともがいている。
太い触手が、龍の眼球を刺そうと飛び込んできた、まさにその時。
「宮さまああああ! 退ってください!」
湊の叫びと共に、七凪が滑空する。白銀の閃光が、戦場の混沌を切り裂いた。
湊は空中で、その白い膳を高々と掲げた。
「腐敗と忘却の神々よ!」
湊の声が、嵐の中で響く。風が湊の髪を激しくかき乱すが、彼の手元の三方は凍りついたように微動だにしない。
「お前たちが欲しかったのはこれだろう」
七凪が大きく尾を振るい、突風を巻き起こす。その風に乗せて、湊は三方をふわりと放った。
「さあ、食らえ!」
ドロリと渦巻く黒い泥が、ピタリと動きを止めた。
伊槌の目を貫こうとしていた触手が空中で静止する。
数千、数万の目が、宙を舞うその白い膳に釘付けになった。
そこにあるのは、混じりっけなしの命の結晶だった。
米、水、塩、酒。人間が生きるために必要不可欠な、そして神々が最も愛する原初の供物。
『あ……あぁ……』
怪物の体から、無数の手が伸びた。
襲うためではない。縋るように、祈るように膳へ殺到する。黒い泥が白米を包み込み、塩を舐め、水を飲み込んだ。
瞬間。
カッッッ……!
怪物の内側から、目映い光が炸裂した。破壊の光ではない。内側から洗われる浄化の光だった。
『ウマイ……』
『キレイダ……』
『アタタカイ……』
数多の怨嗟の声が、歓喜のため息へと変わっていく。
米の一粒一粒から生命の味が弾け飛び、腐敗した澱みを浄化していく。研ぎ澄まされた米の甘み、噛みしめるごとに増す充実感。塩の鋭い清めが罪穢れを祓う。水の慈悲が乾ききった喉を潤す。酒のもたらす陶酔が、孤独な魂を十全に慰撫してゆく。
それらが渾然一体となり、神々の空っぽの胃袋と心を優しく満たしていく。
もう、誰も憎まなくていい。
もう、飢えなくていい。
悟った黒い泥がみるみるうちに透き通っていく。
どす黒い粘液は清らかな清水へと変わり、悪臭は消え、代わりに雨上がりのような清々しい香りが立ち込める。
『アリガタキ……アリガタキ……』
最後に、幾重にも重なった穏やかな声が響いた。
泥の怪物は光の粒子となって昇華し、霧散した。
上空を覆っていた暗雲が晴れ、本来の空から鮮烈な赤と金の光が降り注ぐ。すでに夕暮れだった。
泥の怪物が消えると同時に、巨大な龍の姿も見えなくなった。
湊は七凪の背から降り立つと、人の姿になった伊槌に駆け寄った。伊槌は肩で息をしており、着物は泥と戦いの余波で汚れてボロボロになっていた。右肩からは血が滲んでいるが、気にする風もない。
「宮さま!」
伊槌がふらつきながらも立ち上がり、湊を見た。
「まったく無茶をする。戦場に神饌を持ち込むとはな。そんな馬鹿なことをするのはお前くらいだ」
伊槌は呆れたようで、どこか誇らしげに口元を緩めた。
「だが……おかげで助かった。お前の料理は、私の牙よりも鋭く、そして清らかだった」
その言葉を聞いて、湊はその場にへなへなと座り込んだ。
緊張の糸が切れ、全身から力が抜けていく。
「よかったです。本当に、よかった……」
涙が出そうになる。戦いの恐怖でも、死の恐怖でもない。
目の前の人が無事であったことへの深い安堵だった。
「泣くな」
伊槌の指先が、湊の頬に沿う。
指は冷たかったが、確かな脈動と熱を感じる。
湊は、この感触を一生忘れないだろうと思った。
「……泣いてません」
かろうじて湊は言い返す。
「そうは見えんがな」伊槌は呆れたように鼻を鳴らしたが、目にはどこか切ない光を宿している。
湊はゴシゴシと目を擦った。
「泣いている場合ではありません。もうここにいられるのはあとわずかです。少しでも名残を惜しまないと」
「……そうだな」
伊槌は思い出したように、空を見上げた。
夜の帳が降りれば、月が昇ってくる。




