第29話 雪代の 激つ早瀬も ものかはと
水天宮の夜空に、満月が昇った。宙に漂う水膜を通してみるそれはゆらゆらと朧で、残酷なまでの美しい白光を湛えている。
「月に龍と書いて、朧か」
湊は満月を見上げながらひとりごちた。かつて月は天空ではなく水中にあって巨大な龍に抱かれていたのではないか、そんな気すらする。
水面を突き抜けて降り注ぐ月光は、あたかも天界へと続く階段のように一本の白い道を波間に描いている。
水脈が開いた。とうとう帰還の時が来たのだ。
宮殿の裏手にある「水鏡の門」の前には、水天宮の住人たちが集まっていた。猫又の玄翁は目を赤く腫らし、狐たちも互いの身を寄せ合って鼻をすすっている。
湊は一匹一匹と握手し、感謝の言葉を伝えた。
「厨司長、あのレシピ帖を使ってくださいね。火加減は強すぎず、弱すぎず」
「やかましい。いちいち言わんでもいい。お前の味はこの舌が覚えてる」
玄翁が湊に抱きつき、豪快に鼻水をなすりつける。その温かさと重みが湊の胸を詰まらせた。
挨拶が済むと、湊は水龍の兄弟に向き直った。
七凪の顔は青ざめ、足もともふらふらとしておぼつかない。
彼は人型に戻るや否や、呆気なく気を失ってしまった。
介抱されて意識を戻したが、龍への変化は幼い肉体に堪えたようだった。
それでも疲労困憊の重い身体を押して、湊を見送りに来た。槇野がぎゅうと腰にしがみつき、杖となって身体を支えている。
凛然とした神気を纏いつつも、七凪の瞳は潤んでいる。
「……湊」
七凪が小さな手を差し出した。
「ありがとう。僕、苦手な肉も野菜も食べられるようになった。湊の料理があったから、僕は強くなれた」
「七凪さま……。立派な龍神になられましたね。俺は、あなたのお姿を一生忘れません」
湊が手を握り返すと、七凪は涙をこらえるように唇を噛み、精一杯の笑顔を作った。
「さよならは言わないよ。またね、湊」
健気な強がりに、湊は涙が出そうになったが必死に耐えた。ここで泣けば決意が鈍ってしまう。
最後に、伊槌が前に進み出た。
肩に負った怪我はものともせず、真新しい白銀の着物を身に纏った水天宮の主は、月光を浴びてそれ自身が淡く光り輝いている。
黄金の瞳は、凪いだ海のように静かだった。
「宮さま」
「……」
伊槌は、何かを言いかけて口元をわずかに動かした。喉元まで出かかった言葉は……一体何であったのか。
伊槌は短く息を吐くと湊を見据えた。
「達者でな」
伊槌は振り向くと、白妙が持ってきた包みを受けとり、湊に差し出した。
「待っていけ。土産だ」
「これは……?」
「弁当だ。人界でも役に立つだろう」
湊は包みを受け取った。藍色の風呂敷に包まれ、ずっしりとした重い箱だった。
伊槌は背を向けた。もう振り返らないという意思表示だった。
「行け。水脈が閉じる」
「はい」
湊は、風呂敷包みを胸に抱くと光の道へ足を踏み出した。
「皆さん、お元気で。宮さま、七凪さま。本当にありがとうございました!」
身体が光の粒子に包まれていく。
視界が白く染まり、浮遊感に襲われる。
最後に見たのは、背を向けたまま微動だにしない伊槌の背中と、大きく手を振り続ける七凪の姿だった。
水天宮の景色が遠ざかる。慣れ親しんだ厨房の匂いも、水の音も遠ざかってゆく。
***
「……おい、物延。しっかりしろ!」
誰かに肩を強く揺さぶられる感覚に、湊はハッと目を開けた。
そこは、薄暗く埃っぽい空間だった。古い木とカビの混じった匂い。ひんやりとした木床。
御用邸の敷地内にある古い蔵の中だった。
「あ、あれ……?」
湊は呆然と周囲を見渡す。同僚の職員がしゃがみこみ、心配そうに懐中電灯を向けていた。
「よかった、気がついたか」
「俺は……一体」
「蔵の整理に行って戻ってこないから、探しに来たんだ。というか、なんだその格好は? 何かの行事の準備か」
湊は自分の身体を見下ろした。
白のツイルコックコートに黒のズボン姿ではない。水天宮で着ていた生成りの和装のままだった。
「え……あ、いや、これは」
湊は混乱した。もしや全部夢だったのか?
異界の水天宮での日々、伊槌と七凪との出会い、神々へのもてなし……全ては過労が見せた幻覚だったのか?
だが、腕の中には確かな重みがあった。藍色の風呂敷に包まれた四角い箱。布地は化学繊維ではなく上質な正絹の手触りだった。
「すみません、急に気分が悪くなって。どうも気を失っていたみたいです」
職員は薄気味悪そうに辺りを見回した。
「悪いガスでも溜まってるのかな。本当に大丈夫か。顔が真っ青だぞ」
「大丈夫です。すぐに着替えて戻ります」
湊はふらつく足取りで立ち上がった。
職員がはめている腕時計を見せてもらう。
午後の四時を少し過ぎたくらいだった。蔵に入ってから二時間ほどしか経っていない。異界で過ごした数ヶ月が、こちらではほんの数時間……。
床には、白木の箱と黒包丁が転がっていた。
異界に迷い込むきっかけになった不思議な包丁。
伊槌の話では「龍牙」から作られたものではないかということだったが。
湊は恐る恐る手を伸ばし、包丁に触れてみた。
……今度は何も起きない。高窓から差し込んでくる西日を浴び、てらてらと黒光りしている。湊は包丁を白木の箱に入れ、棚の元あった場所に戻した。
その夜。
官舎に戻った湊は、テーブルの上に包みを置いた。
部屋の明かりの下で改めて見ると、風呂敷には水天宮の家紋である「波に二匹の龍」が銀糸で刺繍されていた。夢ではない。あれは現実だったのだ。
震える手で風呂敷を解く。
現れたのは、見事な春慶塗の三段重だった。艶やかな飴色の輝き。蓋の角には螺鈿細工で桜の花びらが散らされている。
「お弁当って言ってたけど」
伊槌は「人界でも役に立つ」と言っていた。
食べ物なら腐っているんじゃ……と思いながら、湊は一段目の蓋を開けた。
「……!」
湊の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
入っていたのは料理ではなかった。ぎっしりと、隙間なく詰め込まれた黄金の粒。それもただの砂金ではない。小指の先ほどの大きさがある粒金だった。光を受けてギラギラと輝いている。
「嘘だろ……」
二段目を開ける。そこには大粒の真珠や珊瑚、見たことのない色をした美しい石がこれまたぎっしり詰め込まれていた。
三段目には、流麗な筆致で書かれた一枚の和紙が入っていた。湊は和紙を取り出して読んだ。
「雪代の 激つ早瀬も ものかはと 深淵に臥し 機ぞ待つらん」
――春の雪解け水が激しく流れる早瀬の勢いなど、ものともしない。私は深き淵に身を横たえ、お前と再び相まみえる好機を静かに、確実に待っているぞ――
和歌だった。
ぶっきらぼうだが力強い言葉。もしや伊槌が詠んだものだろうか。
湊は、思わずじーんとしてしまった。が、よく見ると紙の最後には小さな字で「代筆 白妙」と書いてあった。
「自分で詠んだんじゃないのか」
優秀な侍従のそつのない働きぶりに、湊は思わず吹き出してしまった。食べられずに重用されているだけのことはある。そういえば、伊槌が歌を詠むなんて話は聞かなかったし、詠んでいるところも見たこともなかった。
なんとなくネットで金のレートを調べた湊は、あやうく腰を抜かしそうになった。
ただでさえ高騰し、価値が爆上がりしている金であるが、1g=数万円という信じられない数字が飛び込んでくる。
湊は台所から調理用の量りを持ってきて、純金の粒を一つ載せた。これだけでも20g近くある。
粒金が詰まった重箱一つで、一体いかほどの価値があるのか。さらには天然の真珠や宝石まで……。
湊は茫然と呟いた。
「もしかして、玉手箱だった?」
テーブルに置いてあったスマートフォンが、ぶるぶると震えた。
画面を覗くと弟の宗吾からだった。飛びつくように出ると、底抜けに明るい声が聞こえてきた。
『もしもし、兄貴? あ~やっと出た。あのさ、来月の爺ちゃんの十三回忌なんだけど帰ってこられる?』
間違いなく弟の声だった。湊は、動揺を悟られないよう努めて平静を装った。
「あ、ああ……。ごめん、ちょっとバタバタしてて。法事は大丈夫だと思う」
『また仕事? 公務員も大変だねぇ。来れるならいいけどさ。そうそう、爺ちゃんがよく作ってた松月庵の卵焼き、兄貴に作ってほしいって養父さんが言ってたよ。よろしく』
祖父の味。湊の脳裏に、水天宮で伊槌に振る舞った箱寿司の記憶が蘇る。同じ記憶を持つ家族との、他愛のない会話に心が安らぐ。
湊はふと気になって尋ねた。
「なあ、宗吾」
『んーなに?』
「うちの神社で……お祀りしている神さまってなんだったっけ?」
『はあ? 何言ってんの。神職じゃないとはいえ、長男なんだからさ。自分の家の祭神くらい覚えておけよなー』
宗吾は呆れたように笑い、すぐに真面目な声で答えた。
『乙津主さまだよ』
「おつぬし……」
『天之水分九頭龍黒銀乙比売命』
「え?」
『女の神さまで、龍神』
湊の全身に鳥肌が立った。
天之水分とは水を配分する神。黒銀……とは黒の鱗、黒龍のことだろうか。
「ああ、そっか。そうなんだ」
全てが繋がった気がする。
(俺たちは、出会うべくして出会ったのだろうか)
遠い祖先の因縁か、あるいは魂の導きか。
伊槌の姉である龍の巫女が、時を超えて自分を異界へ飛ばし、伊槌と引き合わせてくれたのだろうか。
「悪い、宗吾。忘れてたよ」
『ほんとだよ。しっかりして』
「うん。今度帰った時しっかりお参りするよ。乙津主さまにお礼を言わなきゃならないからな」
電話を切った後、湊は窓の外を見上げた。
都会の空は明るく、星も月も見えない。けれどこの空の遥か向こう、異界の水の中で彼らは確かに生きている。
「宮さま。七凪さま。みんな」
湊は、重箱の蓋を閉じた。
この黄金は、伊槌が贈ってくれた未来への切符だ。
湊の中で、一つの決意が固まりつつあった。
まずは目の前にある使命をまっとうする。それから、長年の夢をかなえる。
料理人として生きていく場所が、はっきりと見えた気がした。




