最終話 春の嵐
――それから、数年の月日が流れた。
湊の仕えていた深山さまが薨去された。
老衰による、眠るように安らかな最期だった。
湊は宮さまの葬儀の後、もろもろが片付いたところで宮内庁を退職した。厨司としての生活に、一つの区切りをつけた。
湊は伊槌から贈られた「宝物」を元手にして、次なる道へと歩み出した。亡き祖父が営んでいた料亭「松月庵」の再開である。
二階建ての古民家を買い取って改装し、一階を店舗に、二階を住居として蘇らせた。
看板メニューは、祖父から受け継いだ箱寿司の簡易版や、これまでの経験で磨き上げた「出汁」を使った割烹料理の数々。
季節の食材を仕入れ、時には客のリクエストにも応じる。
開店当初から派手な宣伝はしなかったが、客足は上々だ。
「ここの料理を食べると、実家に帰ったようにホッとする」
「体の芯から力が湧いてくる」
そんな評判が口コミで広がり、新生「松月庵」は知る人ぞ知る美食の隠れ家となっていた。
噂を聞いたかつての馴染み客もやってくるし、実家の神社からの注文も定期的にある。湊は店主として、忙しいながらも充実した日々を送っていた。
また季節は巡り、春。
その日は朝から低気圧が張り出し、春の嵐が吹き荒れていた。
横殴りの雨が窓を叩き、風がわんわんと唸り声を上げている。こんな日に危険を冒してまで店に足を運ぶ客はおらず、湊は終日お茶引きをして過ごした。残念だが、こういう日もある。
時計の針は、夜の八時を回っていた。
「今日はもうだめだな」
湊はため息をつき、外に出していた暖簾を片付けるために立ち上がった。
暖簾をしまうと、厨房の片付けにかかり、余った食材を確認する。立派な鯛、春の筍、走り(旬の始め)の空豆。
誰にも食べられることなく冷蔵庫で眠る食材が切ない。
「もったいないけど、明日の賄いにしよう」
湊が厨房の灯りを消そうとスイッチに手を伸ばした、その時だった。
突風が吹き、入り口の引き戸が激しく音を立てた。
いや、風ではない。誰かが外から戸を引いている。
「……すみません、本日はもう」
湊が言いかけながら店先へ出る。
そこには信じられない光景が広がっていた。
開け放たれた戸口に、二つの影が立っていた。
背後は荒れ狂う嵐の闇。なのに、二人の周囲だけは結界が張られたように雨風が寄り付かず、まったく濡れていない。
一人は、濡羽色の髪を高く結い上げ、現代の日本ではあり得ない豪奢な狩衣を纏った長身の男。
冴え冴えとした美貌、黄金の瞳は鋭く、それでいて懐かしい光を宿している。
もう一人は、少しだけ背が伸びた少年。
顔にあどけなさを残しつつも、立ち姿には確かな風格が備わっている。額はつるりとして、角がなくなっている。人型の時は隠せるようになったようだ。
湊は、一瞬呼吸を忘れた。時間が止まったかのような錯覚。幻覚ではない。水天宮の彼らが、そこにいた。
「予約していないが、私とお前の仲だ。問題なかろう」
男――伊槌が、傲然と言い放った。その声。夢にまで見た低く冷たい声。
「み、宮さま? それに、七凪さま」
湊の声が震えた。七凪がパッと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
「湊! 会いたかった!」
湊の腰に抱きつく七凪。その体温は、以前よりもずっと高く生命力に満ちていた。
「な、七凪さま。よくぞここまで……。お身体は大丈夫なのですか」
「うん! 今は元気だよ。こっちに来られるくらいにね」
七凪は得意げに胸を張り、それから伊槌を振り返って顔をしかめた。
「もうね、兄上が大変だったんだから」
伊槌が憮然として答える。
「何が大変なものか。お前がどうしても湊に会いたいというから連れてきてやったのに」
「違うって。湊に会いたがったのは兄上の方!」
「おい、七凪」
伊槌が弟を止めようとするが、七凪は止まらない。
「湊がいなくなってからは、毎日ため息をついて、酒浸りでごはんもろくに食べないし。苛々して八つ当たりしてくるし。他の神さまとも、喧嘩したり暴れたりでひどかったよ」
「声が大きい」
「僕には『早く大きくなれ、元気になれ』としか言わなくて怖いのなんのって。兄上は湊が恋しすぎて、だいぶおかしくなっていた。僕をダシにして自分が会いたかっただけなんだよ」
「もう黙れ。いい加減にしないと、今日の夕餉は抜きにするぞ」
伊槌は顔を赤らめ、バツが悪そうにそっぽを向いた。
相変わらず素直じゃない。
湊の目には思わず熱いものが込み上げてきた。会いたかったのは自分も同じだった。
「いらっしゃいませ、宮さま。七凪さま」
湊はそっと袖で涙を拭い、満面の笑みを浮かべた。
「俺の店に、松月庵へようこそ。よくお越しくださいました」
伊槌は気まずそうに咳払いを一つすると、店の中に入った。
「三段の重箱は返してもらうぞ」
彼は店内を見渡しながら、ぶっきらぼうに言った。
「そのために与えたのだ。重箱を、再びお前の料理で満たすためにな」
湊は伊槌の意図を察した。
重箱はいつか再会した時に使う料理を詰めるための器であり、未来への予約だったのだ。
「あれは弁当箱だったんですね。金や真珠が詰まっていたのでびっくりしましたよ」
「空っぽの重箱を渡すなんて、縁起が悪いだろうが」
「歌も入っていましたね」
「あ、あれはだな。白妙がどうしても言葉で伝えろと言うから仕方なく。仕方なくだ」
伊槌が視線を逸らしたまま言う。耳たぶまでほんのり赤くなっている。
湊はカウンターの向こう側、厨房に入った。
そこは彼の城であり、料理人が一番輝ける場所だ。
白木のまな板の前に立ち、柳刃包丁を手に取る。
「かしこまりました」
湊の声が凛と響く。
「食材なら山ほどあります。今日は嵐で、最高のものが手付かずで残っていますから。お持ち帰りの前に、店でもお腹いっぱい食べていってください。鯛の桜蒸し、筍の若竹煮、空豆の翡翠揚げ、他にも……」
湊は、伊槌と七凪を交互に見つめた。伊槌と目が合う。
「お好きなものをなんでもお作りしますよ。お代は前払いで百年分くらいはいただいてますし」
「湊、そんなことは言わない方がいいよ」と七凪が背伸びしながら、どこか醒めた声で言った。
「兄上がここに居付いちゃうから」
「七凪!」伊槌の叱責が飛ぶ。
湊は笑いながら、コンロの火を点けた。
ガスの青い炎が揺らめき、鍋に入った出汁の香りがふわりと漂い始める。
神と人、異界と現世という隔たりはない。
ここには、ただ美味しいものを食べさせたい料理人と、それを心待ちにする客がいるだけだ。
七凪がカウンター席によじ登り、伊槌がその隣に座る。待ちきれないといった様子で、湊の手元を見つめる目は、水天宮で見た時と同じ信頼と期待に輝いていた。
湊は、温めた春野菜の煮物を二人の前に置いた。
これは繋ぎで、次からが本番だ。
湯気の向こうで二人の顔が綻ぶのがわかる。
「さあ、召し上がれ」
兄弟の声が、暖かな店内で重なる。
「いただきます」
外の嵐は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から春の満月が顔を覗かせ、松月庵を優しく照らしている。
彼らの美味しい時間は、確かな温もりを伴って、これからもずっと続いていくだろう。
【了】




