第8話 神性を喪失したお結びさまと復活の焼きおにぎり茶漬け<下>
厨房の勝手口にある土間。
湊はそこに七輪を据えると、備長炭を入れて火を熾した。パチパチと赤く爆ぜる炭火。その熱が、厨房の空気を温めていく。
湊は運んだお結びさまを、水で濡らした清潔な布で丁寧に拭いた。
「さあ、まずは温まりましょう」
網の上に、お結びさまを乗せる。
直火の遠赤外線が、お結びさまのカチカチに凍りついた芯まで、じっくりと熱を伝えていく。最初は無言だったお結びさまが、次第に安堵の息を漏らし始めた。
強張っていた表面が緩み、微かに湯気が立ちのぼる。
「焦げ目がつくまで、ゆっくりと」
湊は時折、団扇でパタパタと風を送った。
炭火が強まり、米の表面がきつね色に色づき始める。
かぐわしい米の香り。
黄金の稲穂、そこから採れる米、炊いた米飯、焼き米――それは日本人の魂に深く刻まれた食の原風景だ。
湊は刷毛を取り出した。
小皿に、特製のタレを作る。濃口醤油に少量の酒とみりん、そして隠し味に胡麻油を一滴。それを、熱々の表面にひと塗りする。
ジュウウウウッと音を立てながら醤油が焦げる。
暴力的なまでに食欲をそそる香ばしさ。
「うわあ……いい匂い!」
様子を窺っていた狐や兎たちが、たまらず鼻をひくひくさせる。
「なにこれ。すっごくお腹が空く匂いがするね」
ギャラリーたちに湊は微笑む。
「焼きおにぎりです。米には醤油、醤油には米。鉄板です」
お結びさまもまた、自らから発せられる香りに驚いていた。
「これが……我の匂い? 身体にも綺麗な焼き目が……」
「ええ。あなたはもう冷や飯なんかじゃない」
湊は、こんがりと焼き上がったお結びさまを大鉢に移した。
これで完成ではない。芯まで冷え切った彼を溶かすには、もう一手間必要だ。
「仕上げです」
湊は、大鉢に熱々の出汁をたっぷりと注いだ。鰹と昆布で引いた、一番出汁の透き通った黄金の液体である。
ジュワッと音を立てて焼きおにぎりの表面がふやけ、出汁を吸い込んでいく。
トッピングには刻んだ三つ葉、あられ、香り高い本わさびを少し。最後にパリパリに焼いた海苔を散らす。
「焼きお結びさまの出汁茶漬け」の完成である。
湯気と共に立ち上るのは、焦がし醤油の香ばしさと出汁の優雅な香り、三つ葉の爽やかな香りが合わさった絶妙なハーモニー。
「さあ、召し上がってください。あなた自身が、かつての温かさを思い出してください」
お結びさまは、震えながら自らの身体を見下ろした。
ヒビ割れは香ばしい焦げ目となり、出汁を吸ってふっくらと膨らんでいる。冷気は消え失せ、己は湯気を纏う温かな存在となっていた。
「ああ、ほかほかだ。そうだ、我はこんなにも温かかったのだ」
お結びさまは、自らの味を噛み締めるように茶漬けを吸収した。
カリカリの表面と、出汁を吸ってトロトロになった米の柔らかさに、わさびがピリリと味を引き締める。
三つ葉のシャキシャキとした食感。
それは、五臓六腑に染み渡る癒やしの味だった。
やがて、まばゆい光が溢れ出した。
お結びさまの塊が霧散し、光の中に白装束を纏った小さな翁が現れた。
その顔は福々しく、満面の笑みをたたえている。
「ありがとう、人間の厨司よ。我は思い出した。我の真名は、豊受白玉御食津掌中尊……。米を握るは『結び』。結びとは人と神、人と人を繋ぐ温かな祈りであった」
翁は、湊に向かって頭を下げた。
「礼と言ってはなんだがこれを置いていこう」
翁が手を振ると、宙から小さな壺が現れた。
中には、ひと舐めするだけで生命力がみなぎる極上の「天日塩」がぎっしり入っていた。
「さらばだ。これでまた、誰かの腹と心を満たしてやっておくれ。そなたに素晴らしい『結び』の縁があらんことを」
そう言い残すと、翁は光の粒となって消えていった。
「……真名を思い出して昇天したか」
いつの間にか、勝手口の傍に伊槌が立っていた。
腕を組み、戸板に寄りかかっている。
「宮さま」
湊は振り返った。伊槌はゆっくりと湊に歩み寄った。その黄金の瞳には不可解さが浮かんでいた。
「お前は……」
伊槌は呻くように言った。
「なぜ、そこまでする?」
「はい?」
「お前は『餌』だ。いつ食われてもおかしくない立場だ。なのに、自分とは無関係のただのゴミになぜそこまで手間をかける。延命のための点数稼ぎか?」
湊はきょとんとした。それから、フッと声に出して笑った。計算も忖度もない自然な笑みだった。
「強いて言うなら、それが私の『喜び』だからです」
「喜び?」
「はい。誰であっても。それが神でも鬼でも冷えたおにぎりでも。目の前の相手が、私の料理で温まり『美味しい』と笑ってくれる。……料理人にとって、それ以上の幸せはありません」
湊の瞳には、一点の曇りもなかった。自分が「食われるかもしれない」という恐怖よりも、「誰かに美味しいものを食べさせたい」という気持ちの方が勝っている。
伊槌は呆れたように息を吐いた。
「理解できんな」
だが、その言葉とは裏腹に伊槌の視線は湊の手元――翁が残した天日塩と、まだ焦がし醤油の匂いが色濃く漂う七輪の網に注がれていた。
伊槌の喉仏が上下に動く。
「……で?」
伊槌は、不機嫌そうに目を細めて言った。
「その茶漬けとやら、私の分はないのか」
「え?」
「客には作って、この宮の主には食わせんつもりかと言っている」
その瞬間、湊は内心「よしっ!」とガッツポーズをした。
味には興味のなかった龍神が、ついに自分から飯を要求してきたのだ。
湊は平静を装い、少しだけ口角を上げてみせた。
「宮さまのお食事は、お散歩中に豪快にとられると聞きました。ガーな感じで」
「ガー?」
「水中をガアアアーッと泳ぎ回って、目につくものをなんでも丸呑みにされると」
伊槌の眉間がピクリと引きつった。
確かにそういう効率的な食事のとり方をしているが、いざ面と向かって指摘されると、どうしてかバツの悪い心地がする。
「玄翁の奴め、余計なことを」
伊槌は扇子を取り出し、誤魔化すようにパタパタと扇いだ。
「貴様の料理がどれほどのものか一度くらいは味見してやろうと思っただけだ。勘違いするな」
「ふふ。かしこまりました。すぐに、宮さまの分もご用意します。特製の焼きおにぎり茶漬けを。いただいた極上の塩もありますし、少し味噌を塗っても美味しいかと」
「もし不味かったら刻んで茶漬けにしてやるからな」
「はい。ご期待に添えるよう腕を振るいます」
湊は恭しく一礼した。
伊槌はそっぽを向いたまま、足早に広間へ戻っていく。
「どこへ行かれたかと思いきや、やはりここでしたか」
背後から、狐の白妙が揶揄交じりに声をかける。
「ついに宮さまも、人間の作る飯に胃袋を掴まれる気に?」
「違う」
伊槌はピシャリと否定した。
「ただの暇つぶしだ」
そう言い残して去っていく主の背中を見送りながら、白妙は「ホッホッ」と楽しげに笑った。




