第7話 神性を喪失したお結びさまと復活の焼きおにぎり茶漬け<上>
水天宮の厨房には、常に水の音と火の爆ぜる音、包丁がまな板を叩く小気味よい振動が響いている。
「ふう」
湊は食材を切る手を止めると、隣で巨大なマグロを解体している玄翁に問いかけた。
「厨司長。そういえば、宮さまの日々のお食事はどうなっているんですか」
湊はここへ来てから、七凪のための療養食は作っている。
しかし、主である伊槌のために正式な膳を組んだことは一度もなかった。玄翁は太い腕で出刃包丁を振り下ろしながら言った。
「宮さまか。酒と肴は所望されるし、御客人が来れば付き合いで膳に箸をつけることもある。が、基本的には……」
玄翁は言葉を切り、厨房の外を指し示した。
「『散歩』がてら、勝手に済ませておられるよ」
「散歩、ですか」
「ああ。龍に戻ってガーだ、ガー」
玄翁は大口を開けると、中の鋭い牙を湊に見せつけた。
「ガー?」
「水中をな、口を開けたままガーッと泳ぎ回ってな。魚群だろうが水草だろうが、流木や小舟に至るまで十把一絡げに丸呑みだ。ありゃなんだ、クジラの食事に近いのかもな」
湊は、天の月を擬人化したような伊槌の美貌を思い浮かべた。立ち居振る舞いは優雅で、塵一つ寄せつけないような高貴な佇まいなのに。
ひとたび本性である龍の姿になると、野生丸出しで水中の生きものを喰らっているというのか。
「……豪快、すぎる」
人型の時とのギャップに、湊は眩暈を覚えた。
「栄養摂取としては効率的なのかもしれんが、あれでは味もへったくれもない」
玄翁は残念そうに首を振った。
「ガーですもんね」
「そんなわけで、我々料理人の出る幕はないのさ」
「なんでも食べて、お腹を壊したりはしないんでしょうか」
「……龍だぞ。人間の感覚で語られてもな」
玄翁は肩をすくめて笑ったが、湊は笑えなかった。
(味もへったくれもない……か)
あんなにも美しい人が、食事の喜びを知らず、生命維持のためだけに命を丸呑みにしている。
湊にとっては、それはひどい損失のように思えた。
餌の分際で余計なお世話だとわかっている。
それでも、彼の胸にはささやかな願いが芽生えた。
(食べてほしい。俺が作った料理を宮さまにも)
あの傲岸不遜な神に、自分の料理を食べさせて「美味い」と言わせたい。
同じ頃、主殿の広間には奇妙な物体が転がり込んでいた。
一抱えもある、いびつな球体。
色は灰色にくすみ、表面はひび割れてカチカチに固まっている。まるで道端に打ち捨てられた石塊のようだ。
「……乾いた。……固い。……誰も見向きもせぬ」
塊から漏れるのは、掠れた怨嗟の声。
上座で書物を広げていた伊槌は物体を一瞥し、不快げに眉をひそめた。
「なんだ、あれは。庭石が勝手に動き出したか」
「いえ、宮さま」
白妙が困ったように耳を伏せる。
「あれは、おそらくは『米飯』の付喪神の成れの果て……のような気がします」
「米飯の?」
「神前への供物として握られたものの、下げるのを忘れられ、風にさらされ、誰の口にも入らぬまま石のように冷えて固まってしまった……哀れな『お結びさま』ではないかと」
「なんだそれは。食えぬ飯などに何の意味がある。要するにゴミではないか」
伊槌は蔑むような視線を投げた。その黄金の瞳に慈悲はない。
「一応にも聞いてやる。名はなんと申す」
「……」
塊は答えなかった。
否、答えられなかった。人に存在を忘れられ、長い時を経るうちに神性を失ってしまったのである。
今では、ただのあやかしと変わらなかった。
「名を喪ったなら、八百万の神にあらず。あやかしにもてなしは不要。私の宮が汚れるだけだ。外へ掃き出せ」
「ううっ、う……」
伊槌の冷酷な言葉に、塊がわなわなと震えた。
振動で、パラパラと白い粉――干からびた米粒が床に落ちる。
「どうせ、我など……。カチカチで、ボロボロで……誰からも愛されぬ無用の長物……」
悲痛な嘆きが、広間の温度を下げる。
白妙が箒を持って近づこうとした、その時。
伊槌はふと、扇子でしもべの動きを制した。
「待て。湊を呼べ」
「はあ、湊殿を。またなぜ?」
「あの人間が、この得体の知れないゴミからどんなものを引き出すか。少し見てみたくなった」
伊槌は薄く笑った。
薄汚れた塊そのものはどうでもよかった。ただの暇つぶしだ。気まぐれな神は、自らの所有物である料理人が見せる手品に期待していた。
「お呼びでしょうか」
しばらくすると凛とした声がして、広間に湊が入って来た。伊槌は、宮にやってきた招かねざる客の相手をするよう命じた。
湊は躊躇なく、薄汚れた塊の前に膝をついた。
そっと表面に触れる。骨身に染みるような冷たさだ。
だが、湊の手は離れない。凍えた子供をあやすように、ゴツゴツした表面を優しく撫でた。
「お客さま。これではさぞかしお寒いでしょう」
湊の声は、春の陽だまりのように温かかった。顔を近づけると、くんくんと匂いを嗅ぐ。
(表面は石のように硬く乾いている。でも、このひび割れの奥から……かすかに米の匂いがする)
湊は塊の正体を探る。
この分厚い殻の奥に眠る、かつて込められた「祈り」を。
本来持っていたはずの「ふくよかな味」を。
「宮さま。私にお客さまをお預けください」
湊は真剣な眼差しで、上座の主を見上げた。
「この方は、元は食べものだと思います。俺が元の姿に戻して差し上げます」
伊槌は呆れたように鼻を鳴らした。
だが、その瞳の奥で好奇の光が揺らめいている。
「酔狂な奴だ。まあいい、好きにしろ」
「はい。ありがとうございます。では行きましょうか、ええと……」
白妙がすっと寄ってきて「おそらく、お結びさま」と囁く。
「ああ、なるほど」
湊は塊を「お結びさま」と呼び、しっかりと抱えこんだ。




