第6話 じめじめした雨の精霊と紫陽花の和菓子
水天宮の空――頭上に広がるそれは、今は鉛色に沈んでいる。
この異界にも、梅雨に似た「雨季」が訪れていた。
地上のように雨が降るわけではないが、世界全体が重い湿気に包まれる。呼吸をするだけで肺の中に水が溜まっていくような胸苦しさがある。
廊下を掃除する湊の動きも心なしか鈍い。
まとわりつくような湿気は、掃除をしたそばから床を濡らし、畳を湿気らせる。
「……はあ。拭いても拭いてもキリがないな」
湊は、雑巾をバケツに絞りながらひとりごちた。
「おや、精が出ますね。湊殿」
背後から声をかけてきたのは白狐の侍従、白妙だった。
彼は温和な性格で、常に微笑みを絶やさない。
純白の尾はいつもきちんと手入れされている。が、この湿気では自慢の毛並みもぺったりとしている。
「白妙さん。あの、ちょっとお聞きしても?」
湊は手を休め、ここへ来てから抱いた疑問を口にした。
「宮さまは、人間を『栄養価の高い餌』だと見なされている。でもここには、狐のあなたや猫、兎などの動物たちもいる。人間だけが餌なのはなんでですかね?」
白妙は一瞬きょとんとしたが、当然のようにあっさりと言った。
「私たちも餌ですよ。龍は雑食ですから」
「えっ」
「えっ?」
一人と一匹は、特に意味もなく見つめ合った。
白妙は細い目をさらに細める。
「宮さまは龍神であらせられます。龍とは天と地、水と水場を統べる王。人間も我々あやかしも等しく『餌』に過ぎません」
「じゃあ、なんで皆さんは無事なんですか」
「そりゃあなた、使用人を食べてちゃ宮は回りませんからね。炊事、掃除、洗濯も誰かがやらねばならないのです。役に立つうちは食べられない。それだけの話です」
「……そんなものですか」
「そんなものですよ。湊殿も、せいぜいご精進なされますよう。さすれば、ここでの寿命が延びましょう」
白妙はホッホッと笑い、優雅に一礼すると去っていった。
湊は廊下にしばし立ち尽くした。
(俺だけじゃない。水天宮の住人は、全員が龍の腹の中にいるようなものなんだ)
改めて突きつけられた非情な現実に、彼は小さく息を吐いた。
不思議と絶望めいたものは湧いてこない。ルールが明確になったことで、むしろ頭はクリアになっていた。
(だったら俺は料理で勝負するしかない。役に立つ人間だと証明するしかない)
湊が決意を新たにしたその時、廊下の向こうからズルズル、ベチャベチャという不快な音が近づいてきた。
鼻をつくカビと腐葉土の臭い。水天宮に、雨季の主役たちが到着したのだ。
広間は、惨憺たる有様だった。
伊槌が座る上座の周りに、灰色の靄のような、不定形の影が群がっていた。
彼らは「雨の精霊」。
雨粒や湿気そのものが具現化した存在だ。真名は「五月雨雲隠薄霞潤目主」といい、個体ではなく集合体である。
手足の区別も曖昧なその身体は、触れるもの全てを濡らし、瞬く間に青カビの花を咲かせていく。
「……なんと鬱陶しい」
伊槌が扇子で顔をあおぎながら、不機嫌を露わにしていた。
美しい狩衣の袖も、湿気がまとわりついて濡れている。
「おい、白妙。火を持て。乾燥させよ」
「宮さま、それはなりませぬ」
白妙が冷静に諌める。
「彼らは雨、すなわち水の精霊です。水天宮に豊かな水を運んでくる恵みの源でもあります。無下に追い払えば、夏に水不足となり、宮の結界が干上がってしまいます」
「だからといって、このカビ臭さには耐えかねる。どうにかならんのか」
伊槌が苛立ち紛れに指を弾く。
水弾が飛んで精霊の一匹を弾き飛ばした。
だが、精霊は「じめじめぇー」と陰気な声を上げ、分裂して増えるだけだ。
「湊を呼べ」
伊槌が叫んだ。
「何か、この湿った空気を払拭するものを出させろ。今すぐにだ」
呼び出された湊は、状況を聞いて途方に暮れた。
相手は、湿気と鬱屈の塊のようなもの。物理的に追い払うことはできず、かといって放置すれば水天宮がカビだらけになる。
(湿気を消すんじゃない。湿気を『楽しむ』方向に変えればいいのか)
日本の夏は蒸し暑い。
だからこそ、先人は目と舌で涼を取る工夫を凝らしてきたのだ。
湊は厨房に戻ると、玄翁に尋ねた。
「厨司長、和菓子を作りたいんですが寒天はありますか?」
「あるぞ」
「新鮮な赤紫蘇も欲しいんですけど」
「それは食材庫で頑張って念じろ」
湊は食材を揃えると、早速、暑気払いならぬ湿気払いのためのもてなしの品を作り始めた。
まずは、飲み物だ。
湿度が高く重たい空気を切り裂くような、鮮烈な酸味……。
使うのは赤紫蘇。葉は深い紫色をしており、独特の野趣あふれる香りを放っている。
大鍋に湯を沸かし、紫蘇の葉を大量に投入する。
ぐらぐらと煮立たせると、紫の色素が湯に溶け出し、葉は緑色へと変わっていく。煮汁は、どす黒い紫色だ。
「ここからが本番」
湊は煮汁を漉し、砂糖を加えて溶かす。
そして、そこにたっぷりの「柑橘酢」――異界の柑橘から搾った強烈な酸味果汁を注ぎ入れた。
その瞬間、どす黒かった液体が、パッと鮮やかなルビー色に変化した。
アントシアニン色素が酸に反応して起こす、化学変化である。厨房に爽やかな香りが広がる。これを氷水で割り、キーンと冷えたグラスに注いだ。
次は、菓子である。
目指すのは、雨の日に滴る水滴のような美しさ。
湊は透明度の高い寒天液を作り、砂糖を加えて煮詰めた。
それを三つのバットに分ける。
一つはそのままの透明。もう一つは青い花「バタフライピー」から抽出した色素で深い群青色に。最後の一つは、そこに少しの酸を加えて淡い赤紫色にする。
冷え固まった寒天を、包丁で賽の目に切る。
キラキラと光を反射する、青、紫、透明の宝石たち。次に希少な白小豆を煮てペースト状にした「白生あん」を作り、砂糖や水飴を加えて練り上げる。
白餡を丸めて小さな球を作成し、その周りに、色の違う寒天を丁寧に貼り付けていく。
「……できた」
そこに現れたのは、雨に濡れて咲き誇る「紫陽花」そのものだった。
透明な寒天が、花弁についた雨粒のような光を湛えている。涼やかで、儚げで、凛とした美しさをたたえた「紫陽花の錦玉羹」である。
湊はガラスの盆にそれらを乗せ、広間へ急いだ。
広間は、相変わらず陰鬱な空気に包まれていた。
精霊たちは床を勝手に這い回り、伊槌は額に青筋を浮かべている。
「失礼いたします」
湊が盆を置いた瞬間、その場の空気が変わった。
ガラスの器の中で、氷とルビー色の紫蘇ジュースがカランと涼やかな音を立てる。盆の上に咲いた紫陽花の花々が、薄暗い広間に幻想的に咲き誇る。
「お待たせいたしました。湿気を恵みの雨に変える一皿です」
「なんだ、これは」
伊槌が目を丸くする。
「菓子か? まるで雨を固めた宝石のような」
湊はまず、精霊たちの前に皿を置いた。
「どうぞ。……あなた方の季節を写し取ったお菓子です」
「じ、めー?」
精霊たちが、のろのろと紫陽花の菓子に触れる。
彼らは自分たちが忌み嫌われる存在だと知っている。だが、この美しい菓子は、雨の季節の美しさを肯定しているような……。
精霊の一体が、菓子を口(らしき部分)に取り込む。
シャリッと寒天の表面が砕ける繊細な音がした。そこから溢れるのは、柔らかな寒天の冷たい食感と、白餡の上品な甘さ。
続いて、紫蘇ジュースを一口飲む。
きゅっとした強烈な酸味が、彼らの不定形な身体を駆け抜けた。だるさを吹き飛ばすクエン酸の刺激。紫蘇の清涼な香りが、体内の澱みを浄化していく。
「あ、ああ、あ……っ!」
精霊たちの身体が、輝き始めた。
灰色のドロドロしていた影が、透き通るような水色へと変わっていく。カビ臭さが消え、雨上がりの森のような清々しい香りに満ちる。
「きれーすずしーうれしー」
「うまーうまー」
「びみーびみィー」
「おいしーめるしー」
彼らは喜びの声を上げながら、美しい球体の水滴――純粋な雨粒となり、次々と空へと昇ってゆく。
キャッキャと騒ぎながらも、その声は遠ざかってゆく。彼らは湊のもてなしに満足し、帰っていったのだった。
後に残されたのは、浄化されピカピカに磨き上げられた床と、潤いを含んだ心地よい冷気だけだった。
「……ほう」
伊槌が感嘆の息を漏らす。
「あの厄介な精霊どもが、清浄な雨粒に変わるとはな。湊、よくやった」
「ありがとうございます。……宮さまも、どうぞ」
湊はジュースや菓子を伊槌に勧めた。
「私は……いい。七凪を呼べ」
急遽、七凪が呼ばれた。
七凪はわあと子どもらしい歓声をあげ、目を輝かせて紫陽花の菓子を見つめた。
「見ているだけで涼しいね。食べるのがもったいないよ」
「食べるともっと涼しくなりますよ」
湊に促され、七凪は小さな手で菓子をつまんで口に入れた。
「……ん!」
瞳がパッと見開かれる。
「甘くて、冷たくて……外がシャリシャリしてる。中の白いあんこがとっても優しい味」
続いて紫蘇のジュースを飲む。
「酸っぱい! でも美味しい。身体の中のジメジメも消えていくみたい」
七凪の笑顔を見て、湊は安堵の笑みを浮かべた。
二人の様子を見ていた伊槌が、不意に手を伸ばした。
長い指で紫陽花の錦玉羹をつまみ上げる。
湊は緊張した。これまで湊が作る料理は「七凪のための養生食」あるいは「客用の食事」であり、伊槌が口にしたことは一度もなかった。
伊槌は、菓子を口に放り込んだ。
カリッ、シャリッと寒天の儚い食感が響く。
甘さは控えめで、後味は水の如く潔い。
何より、蒸し暑い中、この冷たさと食感が心地よかった。
続いて、ルビー色の紫蘇ジュースも呷る。
喉を焼くような鮮烈な酸味。のど越しが良く、爽快な余韻が残る。
「……ふん」
伊槌はグラスを置いた。
「ただの砂糖水かと思ったが……存外悪くない。この味は私の好みだ」
「それは良かったです」
伊槌は、空になったグラスを無言で湊に突き出した。
「……」
視線だけで要求してくる傲慢な神に、湊は内心、この気難しい神さまも意外と俗っぽいところがある、と思いつつ涼しい顔で頭を下げた。
「かしこまりました。すぐに冷たいものをお持ちします」
「それと、その菓子を七凪のためにもっと作れ」
「はい」
グラスを受け取ろうとした時、袖をクイクイと引かれる感触があった。
七凪が湊の白衣の袖を掴んでいる。顔には、ほんのりと朱が差している。
「あのね、湊」
「はい、何でしょう?」
「僕……湊の料理が好きだ」
七凪は上目遣いで湊を見つめ、言葉を継ぐ。
「湊が作るものを食べると、元気になる気がする。もっと食べたい。明日も、明後日も」
それは、「美味しい」という感想以上の意味を持っていた。「生きたい」という意志。「お前が必要だ」という信頼。
「はい。お任せください。もっともっと美味しいものを作りますから」
「うん、約束だよ」
七凪は嬉しそうに笑い、伊槌の膝に寄りかかった。
伊槌は、弟の頭を無造作に撫でる。
「……湊。明日の七凪の膳には肉を使え。精のつくものをな」
伊槌はぶっきらぼうに言った。
「今後、弟の膳はお前に任せる」
それは、食に興味のなかった伊槌なりの最大限の賛辞であるようだった。
「はい、承知いたしました。明日は極上の肉料理をご用意します」
湊は深く一礼した。広間には、梅雨の晴れ間のような、爽やかで穏やかな風が吹いている。
湊は空になった盆を抱え、厨房へ戻る。
その足取りは、来た時よりも手応えに満ち、少しだけ軽やかだった。




