第5話 辛子菜の将軍と翡翠のみぞれ鍋
水天宮の深奥なる静寂が、その日は熱を帯びて揺らいでいた。宮殿を包む水気が、まるで畏怖するかのようにさざ波を立てている。それは、一柱の猛き荒神の来訪を告げていた。
広間の上座。
伊槌の向かいに、天を突くような偉丈夫がどかりとあぐらをかいて座っていた。
身の丈は二メートルを優に超えるだろうか。
燃え盛る炎のような赤銅色の肌。身に纏うのは、巨大な葉を編み込んだような、鮮やかな緑色の鎧である。その葉の先は鋸のように鋭く、男が動くたびに、空気が痺れるような刺激臭が漂う。
「久しいな、大御倉の。相変わらず、ここは湿っぽいな。カビが生えそうだ」
男が豪快に笑うと、ビリビリと空間が振動した。
伊槌は苦笑を浮かべ、酒を満たした杯を傾ける。
「相変わらず声が大きいぞ、辛子の」
辛子の、と呼ばれた神の真名は「芥子火衝気噴主命」。通称、辛子の将軍。
鼻を突き抜けるような辛味と生命力を司る、辛子菜の化身であった。
対して、伊槌の真名は「天之湍津八瀬流大御倉主」という。
「大御倉」とは彼が、ありとあらゆる幸を所蔵する無尽蔵の倉を持つことに由来する。
「して、今日は何用だ。またどこぞの戦場で暴れてきた帰りか」
「ああ。穢れを焼いてきた。腹が減っては、戦はできぬと言うであろう。ここの倉にある美味いものを馳走になりにきた次第」
将軍はぎらりと目を光らせた。
「だが、そこらの軟弱な料理は許さんぞ。俺が求めているのは、腑抜けた胃袋を槍で貫くような鮮烈な刺激だ。甘ったるい煮物など出してみろ、膳ごとひっくり返してやる」
放出される殺気に、給仕の狐たちが震え上がる。
伊槌は少し考え、扇子でパチリと膝を叩いた。
「……湊を呼べ」
呼び出された湊は、広間の入り口で思わず足を止めた。
部屋の中に充満する気配が、あまりに強烈だったからだ。
肌を刺すような熱気と、ツンと鼻を刺激する清涼な香り。夏の盛りの田畑のような、爆発的な生命力を感じさせた。
「お前がここの厨司か」
将軍の眼光が、湊を射抜く。
巨大な肉食獣に見据えられたような威圧感を感じたが、湊は怯まずに一礼した。
「お初にお目にかかります。物延湊と申します」
「ほう、人間か。貧相な体だ。しかし目は悪くない」
将軍は豪気に鼻を鳴らす。
「注文は聞いておろう。俺を満足させる『辛味』の料理を持って参れ。ただし、ただ辛いだけのものは認めん。武人たる俺に相応しい、気品と切れ味のある一皿だ」
難題である。ただ辛いだけなら、料理に唐辛子を山ほどぶち込めばいいが、将軍が求めているのは切れ味。
湊は、将軍が纏う緑色の鎧――辛子菜の葉を見つめた。
(この方自身が辛子菜の化身か。……ならば、同族の食材で真っ向勝負をするのが礼儀だろうか)
さらに、伊槌の横に座った七凪を見る。
七凪もまた、将軍が会いたがったため同席させられていた。顔色は悪くないものの、幼い彼に激辛料理を食べさせるわけにはいかない。
将軍を唸らせる刺激と、子どもでも食べられる優しさ。
相反する二つの要素を、一つの鍋の中で共存させる。
湊の頭の中で完成図が組み上がった。
「かしこまりました。身も心も洗われるような美しい翡翠の鍋をご用意いたします」
厨房に戻った湊は、食材庫から「雷辛子」と呼ばれるこの世界特有の巨大な葉野菜を取り出した。緑の色が濃く、葉肉が厚い。生のままかじると、電撃のような辛味が舌を襲う危険な野菜だ。
もう一つの主役は、水天宮の清流で育った「雪見魚」。
白身魚で脂が乗っており、熱を通すと雪解けのようにふわふわな食感になる。この脂の甘みが、辛味を受け止めるクッションになるはずだ。
「よし」
湊は柳刃包丁を握った。
まずは雷辛子の処理だ。茎の硬い部分は薄い斜め切りに、葉の柔らかい部分はざく切りにする。ザクザクと繊維を断つ音が小気味よく響く。
次に、大量の大根をすりおろす。
使うのは、普通の青首大根と、辛味の強い「ねずみ大根」の二種類。これをブレンドすることで、辛味の中に奥深い甘みを演出する。
出汁は、鮪節で取った上品かつ酸味のあるものをベースに、酒と薄口醤油で味を調える。唐辛子や油は使わない。目指すのは和の辛味である。揮発し、鼻へ抜ける風のような辛さだ。
土鍋に出汁を張り、火にかける。煮立ったら、まず雪見魚の切り身を入れる。表面が白く変わった瞬間に、山盛りの大根おろし――「みぞれ」を投入する。鍋の中が一瞬で雪景色のように変わる。最後に、鮮やかな緑色の雷辛子を、鍋一面を覆い尽くすように散らした。
(表面は生の辛子菜で鮮烈な刺激を。底の方は土鍋の熱でじっくり火を通し、甘みを引き出す。これで上と下、ひとつの鍋でふたつの味が完成する)
「出来た。『雷辛子と雪見魚の翡翠みぞれ鍋』だ」
仕上げに香り付けの柚子皮を一片入れる。湯気と共に立ち上るのは、出汁の芳醇な香りと辛子菜の鮮烈な香り。
湊は、重たい土鍋を慎重に運んだ。
広間には、異様な緊張感が漂っていた。
「お待たせいたしました」
湊が卓に土鍋を置き、蓋を取る。
真っ白な湯気が立ちのぼり、視界を覆う。霧が晴れた後に現れたのは、息を呑むような色彩の対比だった。
雪のように白い大根おろしの海に、翡翠のごとく鮮やかな緑の辛子菜が浮かび、その隙間から桜色の魚の身が顔を覗かせている。
「……ほう。見た目は悪くない」
将軍が身を乗り出す。湊はみぞれ鍋を小鉢に取り分け、将軍の前に差し出した。
「どうぞ。熱いうちに。辛子菜の食感と共に召し上がってください」
将軍は箸で辛子菜と魚、みぞれをまとめて掴み、豪快に口へと運んだ。
ザクッと響いたのは、雷辛子の茎が弾ける音。
その瞬間、強烈な揮発性の辛味が、鼻腔を突き抜けて脳天へ駆け上がった。
「ぬおおぉっ?」
将軍の目がカッと見開かれる。槍で突かれたような衝撃。
涙腺が緩むほどの刺激。しかし、この辛味は一瞬で過ぎ去る。
次に訪れたのは、雪見魚の上質な脂の甘みと大根おろしの瑞々しい滋味だった。激痛にも似た辛さが、瞬時にして極上の旨味へ変換され、喉を潤しながら落ちていく。後に残るのは清涼感。
「……なんと」
将軍は唸った。
「辛い。確かに辛い。だが、痛くはないな。これは……戦場で火照った体を冷やし澱んだ気を祓う清めの辛さだ」
次々と箸が進む。汗が吹き出るが、不快な脂汗ではなく、毒素を排出するような爽やかな汗だ。
「美味い。魚の脂が辛味を包み込み、大根が調和させている。いくらでも入るぞ」
一方、湊は七凪の膳を見守った。
辛味成分であるイソチオシアネートは、加熱することで甘みへ変化する性質がある。湊は計算通り、土鍋の底の方のよく火が通って甘くなった大根と葉を選んでよそっていた。
七凪は、ふうふうと念入りに冷ましてから、少しずつ口に運んだ。
「……ん!」
七凪が顔を輝かせた。
「美味しい。ちょっとだけピリッとするけど、お魚が甘くてとろとろしてる。体がシャキッとする感じだね」
「良かったです。辛子菜には、悪い気を追い払う力もあるんですよ」
湊が微笑むと、七凪は嬉しそうに汁まで飲み干した。
「見事だ」
空になった鍋を見て、将軍が満足げに腹をさすった。
顔からは険しいものが消え、憑き物が落ちたように晴れやかだ。
「大御倉の。お前の倉には、こんな凄腕が眠っていたのか」
将軍は目を細め、湊をじろりと見た。
獲物を見定める猛獣の目。湊の背筋が凍る。
「人間にしては惜しい腕。……なぁ、料理人。俺の屋敷に来ないか。毎日この鍋が食えるなら、側近として置いてやってもいい」
将軍は身を乗り出し、湊の肩に手を伸ばそうとした。冗談めかしてこう付け加える。
「それとも、いっそ食ってやろうか。お前のような上質な人間は肉もさぞかし美味かろう」
ガハハと笑う将軍。
次の瞬間、バシッと音がして、扇子が将軍の手首を鋭く打ち据えた。
いつ動いたのか、湊の前に伊槌が立っていた。
湊を庇うように立つ姿は優雅だが、全身から放たれる気は刃のように鋭い。
「触れるな、芥子の」
伊槌の声は氷のように冷たかった。黄金の瞳が剣呑な光を帯びて将軍を射抜く。
「これは私の『餌』ゆえ」
その響きは高慢そのものであり、奇妙な所有欲も滲み出ている。
「使うのも、食うのも私だ。たとえ長年の友であろうと、手を出せば許さぬ」
水天宮の主としての圧倒的な神威に、一瞬の静寂の後、将軍は諸手を挙げた。
「よせよせ。冗談だ、冗談」
将軍はニヤリと笑い、湊へ視線を移した。
「気に入られたな料理人。いや、今はまだ『餌』か」
将軍は立ち上がると、豪快に笑いながら去っていった。
嵐が過ぎ去り、広間に静寂が戻る。
「……湊」
伊槌が振り返った。湊は思わず身構える。
「あ、ありがとうございました。宮さま」
「礼には及ばん。客が来て、倉の在庫を整理しただけのこと」
伊槌は素っ気なく言い捨て、扇子をパチンと閉じた。
「今日の膳は七凪が気に入ったようだ。また作るように」
「はい。かしこまりました」
伊槌は袖を翻して奥へと消えていく。
その背中を見送りながら、湊は思わず口元をほころばせた。
(私の餌、か……)
相変わらず人権のない扱いだが、不思議と嫌な気はしなかった。
要するに、あの気難しい傲慢な神は「湊の作る飯を手放したくない」と言ったのだ。
「湊、よろしくね」
七凪が湊の袴を掴んで笑う。
湊は無垢な笑顔に救われるような心地がした。
「はい、七凪さま。次はもっと美味しいものをご用意しますよ」
「楽しみ」
ピリリと辛い鍋の余韻を残しながら、水天宮の夜は更けていく。




