第4話 古瀬戸の神と金継ぎの煮凝り
水天宮の時は、琥珀の中の虫のように、密やかかつ永遠に近い速度で流れていく。
外界から隔絶されたこの宮殿にも四季の移ろいはあるが、人界のそれよりも遥かに幻想的で非現実的な色彩を帯びていた。
「……退屈だ」
宮の中央にある広間の上座。二重の畳の上で水天宮の主・伊槌は脇息にもたれかかり、気怠げに頬杖をついた。
黄金の瞳は、遠目に広がる美しい枯山水の庭――砂の代わりに砕いた真珠が敷き詰められている――を映しながらも、どこかぼんやりとしている。彼にとって変化に乏しい日常は安寧であり、物憂い倦怠でもあった。
「宮さま、本日も『お客さま』がお見えになっています」
控えめな声をかけたのは、狐の侍従、白妙だ。名前の通り白い狐である。妖狐の中でも、白狐は黒狐に次いで霊位が高い。
伊槌は端正な顔立ちを曇らせた。
「……気が乗らぬ。留守と言え」
「ですが、宮さまは水天宮の主。訪れる八百万のお歴々を受け入れねば、水の理が濁りますゆえ……」
遠慮がちに白妙が言う。やってくる神々をもてなすのも水天宮の大事な務め。
主人は客に接見しなくてはならない。
伊槌はため息をつき、仕方なく言った。
「では通せ」
広間に現れた客は、奇妙で哀れな姿をしていた。
それは、一抱えもある壺だった。
古瀬戸と呼ばれる、灰釉が施された古い陶器。かつては大事な茶葉や種籾が入れられ、人々の生活の中心にあったであろう器は、今は無惨な姿をしていた。
胴には稲妻のような細長い亀裂が走り、口縁は欠け、全体が煤や埃で薄汚れている。手足はなく、ガタリ、ゴトリと、自らの体を床に打ち付けながら進んでくる。
「……からっぽだ」
壺の奥底から、風が廃屋を吹き抜けるような虚ろな声が響いた。
「何もない。何も入っていない。……わしは、割れている。満たされない。寒い、寒い……」
嘆きは、聞く者の胸をざらりと撫でるような寂寥感に満ちていた。伊槌は扇子を口もとに当て、目を細めた。
「古き神よ。よく参られた。まずは名乗られよ」
「瀬戸大古裂罅綾目主命」
古瀬戸の神が真名を名乗る。
彼はうらぶれた姿ながら、水天宮で歓待されることを期待していた。
「瀬戸物の付喪神か」
さてどうしたものか、と伊槌は思案する。
水天宮にやってくる神々を客分として扱い、機嫌よく帰っていただきたいのはやまやまだが……。
飲食によるもてなしは、厨房とそこに勤める厨司の役目でもある。
あれを呼んで相手させてみるか、と伊槌は考えた。
隅に控えていた白妙を呼ぶと、厳かに告げた。
「厨房の人餌、湊を呼べ」
しばらくして、召し出された湊が広間に入って来た。
「宮さま、お呼びでしょうか」
「ああ、お前に命じる。この古瀬戸の神に膳を出して、もてなすように」
伊槌の言葉に、古瀬戸の神がわなわなと震える。
「なんと。人間ごときにわしの相手をさせるとは……屈辱なり。いくら割れておるといえ、そこまで侮られるとは……」
怒りの振動で、ヒビがさらに広がり、パキリと乾いた音がする。
「そう申すな。この宮も昨今は人手が足りぬのだ。これは人餌だが、当家の和厨司。饗応には私も同席するゆえ、安心いたせ」
伊槌は薄笑いを浮かべ、飄々と言ってのける。
湊は伊槌の命を受け、古瀬戸の神の前に跪いた。
間近で見ると、彼の身体に走る傷の深さがよくわかった。
長い年月使われ、愛され、やがて忘れ去られ、打ち捨てられた道具の悲しみ。亀裂は、彼の心の傷そのものだった。
「お客さまは普段は何を召し上がりますか」
湊が問いかけると、古瀬戸の神はガタガタと震えた。
「埋まらない……埋められない……。埋めたい……いっぱいに」
「お料理はどのようなものがお好みですか」
「温かい……柔らかい……。埋めたい……」
要領を得ないが、気持ちは痛いほど伝わってくる。
湊は古瀬戸の神の悲しみに共感した。
(この方は、本来は入れ物。なのに中身がない。そのことを嘆いている。なら、満たしてあげればいい。でも、ただ埋めるだけじゃだめだ)
水や酒を入れても、ヒビから漏れ出してしまう。固形物をぎっちり詰めたら、圧で壊れてしまうかもしれない。
ヒビを塞ぎ、かつ中身を満たし、さらに傷さえも歴史として肯定する料理。
湊の脳裏に、ある技法が浮かんだ。
「金継ぎ」である。
割れた陶器を漆で接着し、金粉で装飾して修復する日本の伝統技法。器の傷を隠すのではなく、景色として愛でる美意識。
(料理で金継ぎをしてみようか)
湊は古瀬戸の神に、優しく語りかけた。
「お客さま。少しお時間をいただけますか。あなたさまを、温かな黄金の料理で満たして差し上げます」
湊の言葉に、古瀬戸の神は動きを止めた。
「黄金……? わしの中に……?」
「はい。とびきりのものを」
湊は伊槌に向かって一礼すると、足早に広間を出た。
厨房に戻った湊は、水槽の一つに狙いを定めた。
悠々と泳いでいるのは「水晶鰈」。
この世界の深海に住んでいるらしき魚は、身の半分以上がコラーゲン質の皮で構成されている。煮込めば極上のゼラチン質が溶け出す。まさに「固まる出汁」のための食材だ。
「厨司長、火をお借りしますね」
かまどの傍にいた玄翁に声をかけると、「宮さまのご用命なら許可はいらん。勝手にしろ」と言いながらも、薪をくべてくれた。
湊は大きな篭を持って食材庫に入る。
ここにあるものは、調理する者の「心」を反映する。
恐れや迷いがあれば、不気味で腐臭を放つ魔物が出現してしまう。
湊は扉の前で深呼吸をし、一切の雑念を振り払った。
プロの料理人としての矜持を胸に灯し、欲しい食材の形、匂い、質感を明確にイメージする。少しして棚や床にポンと出現したそれらを、手際よく篭に詰めていった。
網を使って水晶鰈を水槽から出し、素早く捌く。
包丁を入れるたび、プルンとした弾力のある身が輝く。アラと皮をたっぷりと鍋に入れ、酒と水で煮出す。
アクを丁寧に、執拗なまでに掬い取る。濁りは許されない。目指すのは、ガラスのように透き通った琥珀色の液体だ。
味付けはシンプルにいく。薄口醤油と、甘みを引き出すための本みりん。臭みを消し、体を内側から温めるため、ひとかけらの生姜を入れる。コトコトと煮込むにつれ、厨房に甘辛く、魚の豊かな旨味を含んだ香りが漂う。
「よし、煮詰まった」
鍋の中には、とろりとした黄金色のスープが出来上がっていた。冷めれば強固に固まる濃厚な煮汁。湊は具材として、魚の身をほぐしたものと、彩りに茹でた人参、椎茸、銀杏を加えた。秋の吹き寄せのような、色鮮やかなものになった。
「これを、あの方に流し込む」
湊は大きな鍋を抱え、再び広間へと向かった。
広間では、古瀬戸の神が待ちくたびれてカタカタと震え、伊槌は退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
「お待たせいたしました」
湊は壺の前に盆を置いた。
「今から、あなたの中に流し込みます。少し熱いですが、すぐに心地よくなりますよ」
湊は鍋を傾けた。とろとろ、とろりと黄金色の煮汁が、壺の欠けた口から注ぎ込まれる。
「あ、あ……っ」
古瀬戸の神が身を震わせる。空っぽだった内側に、温かなものが満ちていく感覚。煮汁はヒビの隅々まで行き渡り、亀裂から外へ漏れ出そうとする。
だが、水晶鰈の煮汁は、外気に触れた瞬間から急速に凝固を始める性質を持っている。漏れ出した煮汁は、ヒビのラインに沿って外気で冷やされ、ぷるぷるとしたゼリー状に固まっていく。
光を受けて輝くその様は、まさに「金継ぎ」だった。
灰色の粗末な壺肌に、琥珀色の脈が走り、幾何学的な美しい模様となって浮かび上がる。
中身もまた、冷えるにつれて煮凝りとなって固まり、壺と完全に一体化していく。
「……満ちた。わしは、満ちたぞ」
壺の声から、寒々しい風の音が消えた。代わりに響いたのは、満ち足りた重厚な響きだった。
「さあ、召し上がってください。……あなた自身が器であり、そして極上の料理なのです」
湊の言葉に促され、古瀬戸の神は自らの内側にある「煮凝り」の味を感じ取った。
咀嚼する必要はない。じんわりと溶け出す煮凝りが、魚の濃厚な旨味を爆発させる。口の中で固体が液体へと戻る瞬間の、なんとも儚い快楽。生姜の爽やかな香りが鼻を抜け、椎茸の滋味深い味わいが広がる。
「美味い……。なんと優しい味だ」
古瀬戸の神の表面が、ぼうっと暖かな色に染まった。
ヒビを埋める琥珀色のゼリーが、鼈甲細工のように光を透過させる。それはもはや、ただの割れた壺ではなかった。歴史という傷を誇り、美味という魂を宿した至高の芸術品だった。
「湊、これは……?」
いつの間にか、伊槌の隣に小さな影があった。
七凪だった。一人で起き上がり、寝所から出て来たらしい。
「七凪、起きて大丈夫なのか?」
伊槌が驚きの声をあげる。
「うん。美味しそうな匂いがしたから……気になって」
七凪は、壺のヒビから少しだけはみ出したぷるぷるの煮凝りを見つめた。少し怖がっているようだった。
湊は安心させるように言った。
「七凪さま、味見をなさいますか。魚のお肉ですが臭みはありません。すでに失われた命なら、美味しくいただくのが食材への一番の礼儀かと」
七凪はこくりと頷いた。
「うん。湊が言うなら食べてみる」
湊は小皿に、鍋に残って固まっていた煮凝りを切り分けた。正方形に切り出されたそれは、箸で持ち上げるとふるふると震え、光を吸い込んで輝く。
七凪は、恐る恐る塊を口に含んだ。体温でゆっくりと溶けていく。魚の命のエキスが五臓六腑に染み渡る。
「……んん」
七凪の白い喉が鳴った。
「美味しい……。すごく温かい味がする」
旨味の余韻に浸りながら、七凪は満面の笑みで湊を見上げた。
「湊。これ、好きだ。つるんとしていていくらでも喉を通りそう」
笑顔を見て、湊はホッと胸を撫でおろす。
古瀬戸の神は、すっかり往年の生気を取り戻していた。
「礼を言う、人間の厨司よ。わしはもう、空っぽではない……。この温もりを抱いて故地に還ろう……」
古瀬戸の神はゴトリと音を立てて一礼すると、光の粒子となって消えていった。
後には、古びてはいるが威厳のある壺の欠片が残され、その上には一握りの砂金が乗っていた。謝礼ということらしい。
「……ふん」
一部始終を見ていた伊槌が、扇子を閉じて立ち上がった。
彼は湊の前に歩み寄ると、その顎を扇子でくいと持ち上げた。
「なかなかのものだ。壊れかけの古瀬戸の神を美術品に変えるとはな」
覗き込んでくる黄金の瞳に、以前のような捕食者の色は浮かんでいない。
「お前は、我が弟を喜ばせるだけでなく、私の宮の格も上げるらしい」
「……過分なお言葉です」
湊は迫る凄絶な美貌と威圧感に気圧されそうになったが、不思議と目を逸らす気にはならなかった。
伊槌の視線を真っ直ぐに受け止める。
「勘違いするな。褒めてはいない。だが殺すのは……」
惜しい、と伊槌は口の端を吊り上げた。
「精進せよ、人餌の和厨司。慢心はするなよ。つまらないものを出してみろ、その時はお前を刻んで煮凝りにしてやる」
脅しつつも、伊槌は湊に対して期待めいたものを抱いていた。
「はい。……今後も必ずやご期待に添います」
湊は一礼した。冷や汗が背中を伝う。床についた指先が震えている。
それは恐怖だけからくるものではなかった。気難しい神を満足させた達成感。七凪の「美味しい」という言葉……。
確かな喜びが、湊の胸を熱く焦がした。




