第3話 食材から和厨司へ
水天宮に朝が訪れる時、それは光ではなく、音によって知らされる。空中を漂う水滴が微細に震え、蒼色の天井から差し込む陽光が水鏡に反射して涼やかな音を出す。
宮殿を、揺らめく光の網で包み込む。
だが湊にとって、幻想的な朝は安らぎのひと時ではなかった。
与えられた部屋は、厨房の勝手口近くにある石造りの冷たい物置小屋だった。布団代わりのむしろの上で目を覚ますと、湊はまず自分の手足を確認した。
「……よし、全部ある」
食べられていない。
四肢は繋がり、温かい血が通っている。その事実に深く息を吐き、身支度を整えた。
といっても現代から着てきた服は薄汚れ、上着のボタンも昨日の味見で引きちぎられたままだ。
「まずは仕事場だな」
気合いを入れて、厨房の扉を押し開ける。
むせ返るような湿気と、活気あふれる調理場の熱気が湊を包み込んだ。そこは、人界の常識が通用しない人外の巣窟であり、規律正しい宮家の職場でもあった。
洗い場では、体長一メートルほどの巨大な蛙たちが長い舌を器用に使いながら皿を洗っている。
まな板の前では、白衣を纏った兎たちが目にも留まらぬ速さで野菜を刻んでいる。かまどの前では火吹き竹を手にした狐たちが鍋の煮炊きに精を出し、カワウソが宙に浮かんだ水球の中で魚を泳がせて泥抜きをしている。
彼らは一斉に、入り口に立つ湊へと視線を向けた。その瞳に歓迎の色はない。
「まだいたのか、人間」
「美味しそうな匂い。お腹が空いてきちゃう」
「邪魔だよ。そこをどきな」
突き刺さるような敵意と食欲。
この水天宮にいる人間は湊ただひとり。彼らにとって湊は、いつか鍋に放り込まれるであろう「歩く非常食」でしかなかった。
「おい、人間」
厨房の奥から、腹の底に響くような声が轟いた。
空気がピンと張り詰める。雑談をしていた兎たちが耳を伏せ、蛙たちが直立不動の姿勢をとった。
悠然と歩み出てきたのは、二又に分かれた長い尾を持つ、猫のあやかし――猫又の玄翁だった。
湊の腰ほどの背丈で、艶やかな茶色の毛並み。頭には烏帽子を被り、薄水色の狩衣と半袴を着こなしている。厨司長である彼は、煙管を吹かしながら湊を睨みつけた。
「ここは神聖な厨房だ。餌がうろついていい場所ではない」
湊は一歩も引かずに頭を下げた。
「おはようございます、厨司長。本日より、こちらの末席に加えさせていただきたく……」
「末席、だと?」
玄翁は鼻で笑った。長い髭がピクリと跳ねる。
「そういや、昨日もここにいたな。宮さまの気まぐれで生かされているようだが、勘違いするな。貴様はあくまで『予備の食材』だ。我々は神にお仕えする身。人間ごときが作ったものを、高貴なる宮さまに差し上げられるか」
「ですが。昨夜、七凪さまは私が作った粥をお召し上がりになりました」
湊が反論すると、玄翁の瞳が剣呑に光った。
鋭い爪が、ジャキリと音を立てて伸びる。
「口答えをするな、食料風情が。七凪さまはまだ幼く、美味のなんたるかを知らぬ御方。たまたま貴様の小細工が通用しただけのこと」
伊槌の弟である幼い龍神。昨夜見た儚げな少年の姿を、湊は思い出す。
あんなに小さな身体で何も食べられずに苦しんでいたのだと思うと、胸が塞がる思いがする。
「厨司長。俺は人間ですが、プロの料理人です。どんな雑用でも構いません。仕事をください」
湊の決して引かない眼差しに、玄翁は忌々しげに舌打ちした。厨房の隅にあるものを顎でしゃくった。
「ならば、あれを処理してみろ。他の食材や調味料も好きに使っていい」
そこには、麻袋が山積みにされていた。
袋の中からは、ゴソゴソと蠢く不気味な音と、低いうなり声のようなものが聞こえてくる。
「あれとは……?」
「『泥大根』だ。沼の魔力が憑着した根菜でな。滋養はあるが、泥の妖気が臭くて食えたもんじゃない。おまけに気性が荒い。貴様のような軟弱な人間には、触れることすらできまいよ」
周囲の動物たちから、意地の悪い笑いが漏れた。
「あーあ、あんなのを押し付けられて」
「指の一本も食いちぎられるんじゃないか」
「泥だらけになって泣いて逃げ出すさ」
湊は黙って麻袋に近づき、紐を解いた。
途端、「ギャアアアアッ!」という絶叫と共に、黒い泥の塊が飛び出してきた。それは確かに大根の形をしていたが、表面には無数の目と口があり、ねっとりとしたヘドロがこびりついている。
「……なるほど」
湊はしごく冷静だった。
我ながらとんでもない順応力とは思うが、この世界に来て最初に見たものが龍だったのだ。いきなりクライマックス、ゲームでいうならラスボスの出現である。もう何が出て来ても驚かない。それに、宮家の厨房で働くという点においては、人界にいた時の仕事と変わらない。
大膳課にいた頃、彼は海の幸、山の幸、国内外のものと、ありとあらゆる食材と向き合ってきた。泥大根も一見すると不気味ではあるが、野菜の一種と思えばどうということはない。
「騒がせてすまないね。今綺麗にしてあげるから」
湊は暴れる泥大根の首にあたる葉の付け根を、迷いのない手つきでガシッと掴んだ。大根が悲鳴を上げ、泥を噴射する。
湊の顔もシャツも汚れたが、彼は一切怯むことなく、そのまま洗い場へと連行し、冷たい井戸水を張ったたらいに押し込んだ。
「さあ、洗うぞ」
手にしたのは、硬い棕櫚のたわし。冷水を浴びせかけながら、湊は一心不乱にこすり始めた。
泥大根は「痛い! 離せ、呪ってやる!」と喚いているが、湊は「はいはい、すぐ終わるからな」と容赦なくたわしを動かす。泥の層を一枚一枚剥がすように、こびりついた怨念を、職人の力技で洗い流していく。
「沼の底は寒かっただろう。でも、お前の中身はとても綺麗なはずだ」
次第に、大根の悲鳴が小さくなっていく。
湊の手のひらから伝わる確かな技術と、食材への敬意。
それが伝わったのか、暴れていた根菜はふっと力を抜き、やがて「ふぅ……」と心地よげなため息を漏らし始めた。
洗い上がった泥大根は、見違えるようだった。ヘドロは消え失せ、白く輝く瑞々しい根が現れた。葉の緑はエメラルドのように鮮やかで、先ほどまでの禍々しさは微塵もない。
見ていた兎や蛙たちが、あんぐりと口を開けている。
「あいつ、泥大根を……手懐けやがった?」
だが、湊の仕事はここからだ。
「せっかく綺麗になったんだ。一番美味いものにしてやるからな」
湊は包丁を構えた。まな板の上に横たわる大根は、目と口を閉じ、自らの運命を湊に委ねている。
サクッ。刃が入る音。良質な陶器を叩いたような小気味よい響きだった。
湊はまず厚めに皮を剥いた。通常なら捨ててしまう皮だが、大根の皮には強い香りとコリコリとした食感がある。
「皮は、きんぴらにしよう」
細切りにした皮を、胡麻油を熱した鍋に放り込む。
ジャッという音と共に、香ばしい香りが爆発的に広がる。次に加えるのは鷹の爪の赤と、醤油、みりん、白胡麻。甘辛いタレを絡めれば、皮は艶やかな飴色へと変わる。
「身は、ふろふき大根に」
純白の身は分厚い輪切りにし、面取りをして、神米のとぎ汁で下茹でする。
その間に八丁味噌に似た黒味噌と、酒、砂糖、卵黄、柚子を練り上げ、照りのある柚子味噌を作る。
炊き上げた大根は、箸がすっと通るほどの柔らかさと透明感。その上に熱い味噌をかけ、最後に針柚子を天盛りにする。
完成した二品を盆に乗せ、湊は玄翁の前に進み出た。
「泥大根の『皮のきんぴら』と『ふろふき』です。……お味見を」
玄翁は長い尾をゆらりと揺らした。
料理をじっと見つめる。魔物だった泥大根の面影はない。
「……ふん」
玄翁は箸を手に取り、まずはきんぴらを口に運んだ。
カリッ、ポリッ。心地よい咀嚼音。
噛みしめるごとに、土の力強い香りと胡麻油のコク、唐辛子の刺激が口中に弾ける。
次に、ふろふき大根。
箸を入れると、大根は抵抗なく割れ、湯気と共に甘い香りを放つ。口に含めば、溢れ出す極上の出汁。味噌の濃厚な旨味が、淡白な大根の甘みを極限まで引き立てている。
玄翁の猫耳が、ピクリと震えた。
険しい表情が、一瞬――ほんの一瞬だけ解けたのを湊は見逃さなかった。
「……悪くない」
玄翁は呟き、箸を置いた。厨房の空気が弛緩する。
固唾を飲んで見守っていた動物たちからもため息が漏れた。
「泥の臭みを完全に抜きつつ、大根本来の力強さを生かしている。皮まで残さず使い切る卑しい性根は気に入らんが……まあ、宮さまに出すものではないから問題ない」
皮まで使う「始末の心」は職人の美徳だ。
玄翁は口では文句を言いつつ、食材を無駄にしない湊の姿勢を評価したらしかった。
玄翁は立ち上がり、無言で厨房から出て行った。
しばらくすると、布の包みのようなものを持って戻って来る。それは畳まれた衣服だった。
「貴様のそのボロ布のような格好は、宮家の厨房にはふさわしくない。さっさと着替えろ」
放り投げられた衣類を受け取る。
それは、袖を絞った紺色の半着と動きやすさを重視した鼠色の踏込袴だった。半着の上に羽織る純白の調理用白衣。そして、い草の香りがまだ新しい草履だった。
水天宮に仕える料理人としての制服だった。
「厨司長、これは……」
「勘違いするな。貴様を認めたわけではない」
玄翁はそっぽを向いた。
「だが、大根の皮を剥くくらいなら任せてやろう。精々励めよ、新入り」
その言葉は、紛れもない採用通知だった。
「はいっ。ありがとうございます!」
湊の力強い声が、厨房に響き渡る。それまで冷ややかだった兎や狐たちも、湊に職人としての敬意を払うような視線を向けた。
湊は自室に戻り、汚れてしまったツイルコックコート、その下のシャツを脱いだ。真新しい半着に袖を通す。
生地は絹のようになめらかで、よく伸びた。着ると勝手に広がって身体にフィットする。黒のズボンも脱ぎ、袴を履いた。最後に白衣を羽織り、前で紐を結ぶ。黒の革靴から草履に履き替える。
鏡のない部屋だったが、湊は自身の意識の変化を感じた。ただの「餌」から、包丁を握る厨司へ。
再び厨房へ戻った湊の姿は、見違えるようだった。和の装束に身を包み、背筋を伸ばした姿は凛として、神聖な雰囲気すら漂わせていた。
「物延湊。只今より調理に入ります」
発した声は、水天宮の新しい風のようだった。
湊の厨司としての日々が、今ここに始まった。




