第2話 命懸けの卵粥
湊は再び龍に変化した伊槌に咥えられ、彼の住まいである水天宮へと連れてこられた。
地上にあるような、水底にあるような……なんとも不思議な立地だった。周囲を水に囲まれているはずなのに、息はまったく苦しくない。
空中には水の膜のようなものが浮かび、ふわふわと流れてゆく。壮麗な門をくぐると、点在する池と小川、その間を縫うように花木にあふれた庭園が広がる。
母屋や離れを渡殿で繋ぐ、古式ゆかしい日本家屋が見えた。邸内には、絶え間なく清らかな水音が響いている。
「機会は一度だ。失敗は許さん」
冷徹な宣告が、湊の鼓膜を震わせた。目の前に立つ水天宮の主、伊槌が黄金の瞳で湊を射抜く。
「七凪が口にしなければ、その場でお前を捌いて食う。骨一片、髪一筋残さずな」
捕食の予告に、湊の背筋は凍りつく。だが、彼は震えそうになる拳を固く握りしめ、自身に言い聞かせた。
(俺は料理人だ。食材になるんじゃない。料理を作るんだ)
料理人としての誇りが、今の湊を支えていた。
湊は、乾いた喉から声を絞り出した。
「宮さま。厨房はどちらでしょう」
伊槌はふんと鼻を鳴らし、無言で踵を返した。
案内された厨房は、湊の想像を絶する空間だった。
広さは学校の体育館ほどもあるだろうか。壁一面に巨大な水槽が埋め込まれ、中では見たこともない多種多様な魚が鱗を光らせて泳いでいる。
そして隣接する食材庫。
「っ……」
湊は思わず息を呑んだ。
棚に並ぶのは、紫色に脈打つ肉塊、赤黒くいびつな根菜、壺の中で蠢くゼリー状の生き物たち。鼻をつくのは、生臭さと腐敗臭が入り混じったような澱んだ空気だった。
(これが食材? 魔術の触媒じゃなくて?)
おどろおどろしい光景に眩暈がしてくる。
だが、ここで諦めれば、湊自身がこの棚の仲間入りを果たすことになる。
「選べ。何を使っても構わんぞ、人間」
入り口で腕を組んだ伊槌が告げる。
湊は恐怖を奥歯で噛み殺し、必死に目を凝らした。
伊槌の病弱な弟、七凪は衰弱していると聞いた。
そんな身体に、毒々しい色の肉や硬そうな魚が合うはずがない。消化に良く、身体を内側から温め、生命力を呼び覚ますもの。
(探せ。食材の声を聞け……!)
腐臭の漂う棚の奥、一際冷ややかな空気が流れる一角に、湊は目を留めた。
そこには、桐箱のような容器が置かれていた。
蓋を開けた瞬間、ふわりと柔らかな光が溢れ出した。
「これは……」
中に入っていたのは、米のような白い穀物だった。
一粒一粒が真珠のように丸く、淡い光を放っている。手に取ると、指先にかすかな温もりが伝わってきた。
「神米……? これならいける」
湊の目つきが、怯えた獲物から料理人のそれへと変わる。
隣には、水晶で作られた甕が並んでいた。
中には不純物を一切含まない、抜群の透明度を誇る水が満たされている。霊水「岩清水」だ。
湊は食材庫を駆け回り、巨大な鳥の巣から青白い殻の卵を見つけ出した。さらに棚の隅で、干からびた木片のようなものを発見する。匂いを嗅ぐと、懐かしい磯の香りがした。昆布だ。
「作ります。……七凪さまのためのお食事を」
湊は食材を抱えて厨房に戻り、調理器具らしきものを集めた。勝負はここからだ。
火打ち石で熾した火が、かまどの薪を舐める。包丁を握り、鍋の前に立った瞬間、湊の中から一切の恐怖が消えた。
土鍋に岩清水を張り、昆布に似た海藻を浸す。
火にかけると、やがて水面が揺らぎ始める。沸騰直前、ふつふつと小さな気泡が生まれた瞬間に、海藻を引き上げる。
立ちのぼる湯気。
異界の空気を切り裂くように、海の恵みを凝縮した出汁の香りが漂った。
黄金色のスープの中に、丁寧に研いだ神米を放つ。
米が踊り、水分を含んで膨らんでいく。静かな厨房に、煮炊きの音が響き始めた。
湊が作ろうとしているのは、ただの白粥ではない。衰弱した身体は、味がなければ食欲が湧かない。
出汁に、見つけ出した琥珀色の液体調味料(醤油に近い発酵調味料)と、蜂蜜に似た樹液を少量加える。色は薄く、味は深く。最後に、葛のような根から取った澱粉を水で溶いて流し入れる。
とろりとろりと、鍋の中で、出汁が光沢を帯びた餡へと変化する。鼈甲細工のように艶やかで美しい「鼈甲餡」だ。
「仕上げだ」
青白い卵を割り入れると、驚くほど鮮やかなオレンジ色の黄身が顔を出した。
溶き卵を、煮立った餡の中に糸のように細く垂らす。
ふわりふわりと、黄金色の粥にかき玉が花のように咲いていく。最後に三つ葉に似た清涼感のある草を散らして火を止める。「鼈甲餡の卵粥」の完成だ。
「できたか」
いつの間にか背後に立っていた伊槌が、鍋の中を覗き込む。その端正な眉が、不快そうに歪んだ。
「……なんだこれは。肉も魚の身も入っていないとは。これはただの糊ではないか。こんなもので精がつくというのか」
「召し上がっていただければわかります」
湊は、伊槌の黄金の瞳を真っ直ぐに見返しながら言い切った。
案内されたのは、宮殿の奥にある寝所だった。
薄絹の帳が幾重にも垂れ下がり、香炉から重苦しい香煙が立ち込めている。
中央の御帳台に敷かれた布団の上に、少年が横たわっていた。
伊槌の弟である七凪の外見は七、八歳ほど。
透けるような白い肌、伊槌と同じ濡羽色だが先端にいくにつれ青みがかっている髪。
額には小さな二本の角がある。その頬はこけ、唇からは血の気が失せていた。
「七凪」
伊槌が、これまでの態度が嘘のような優しい声で呼びかける。
「膳だ。今日は珍しいものが手に入った」
七凪がゆっくりと目を開ける。瞳は、淡い銀色に近い金色だった。
「兄上……。僕、いらない」
「何を言う。食べねば元気になれぬぞ」
「でも……血の匂いがするものは嫌だ。生き物の悲鳴が聞こえるようで……怖い」
七凪は布団を頭まで被ろうとする。
彼は兄と同じ神でありながら、他者の命を奪うことを極端に恐れていた。
伊槌が湊を睨みつける。その目には再び「失敗すれば殺す」という冷酷な光が戻っている。
湊は深呼吸をし、盆を持って一歩前へ出た。
「七凪さま。失礼いたします」
「……だれ?」
「大膳課の厨司……いえ、あなたさまのお食事を用意した物延湊と申します」
湊は膝をつき、土鍋の蓋をそっと取った。
その瞬間。重苦しい香の匂いが立ち込めていた部屋に、ふわりと陽だまりのような香りが広がった。
出汁の豊かな風味、米の甘い匂い、卵の優しさ。
「んっ……」
七凪の鼻がひくりと動いた。
布団から恐る恐る顔を出す。湊は椀によそった粥を匙ですくい、ふうふうと息を吹きかけて冷ました。
「熱いですから、お気をつけて」
差し出された匙。七凪は警戒するように湊を見つめ、それから椀の中の黄金色に輝く粥を見た。
「きれい」
小さな呟きが漏れた。
「血の匂いがしない。お日さまみたいな匂いがする」
七凪が震える唇を開いた。湊はそっと、匙を口の中へと運ぶ。
とろりと舌の上に乗った瞬間、鼈甲餡が解け、出汁の深い旨味が口いっぱいに広がった。
米は舌で押しつぶせるほど柔らかく煮込まれ、卵が優しく喉をすべり落ちていく。
「……あ」
七凪の瞳が見開かれる。
飲み込んだ後、ほう、と熱い息が漏れた。蒼白だった頬に、ぽっと赤みが差す。
「どうだ、七凪」
伊槌が硬い声で問う。だが、七凪は答えなかった。
代わりに、湊の袖口を小さな手でぎゅっと掴み、無言で次をねだった。
湊は急いで二さじ目を運ぶ。三さじ、四さじ。止まらない。七凪は貪るように粥を求めた。
「美味しい……。あったかい……」
七凪の瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「兄上、これ……すごいよ。お腹の中がぽかぽかする。苦しくないよ」
泣きながら、それでも口を動かし続ける。
見つめる伊槌は、完全に呆気にとられていた。人間など、ただの肉だと思っていたのに。この男が作ったものは一体なんだ?
やがて土鍋は空になった。
七凪は満足げに息をつき、横になると安らかな寝息を立てて眠りに落ちた。
「……信じられん」
伊槌はゆっくりと湊の方へ向き直った。
黄金の瞳から、明確な殺意が消えていた。
代わりに宿っていたのは、理解不能なものを見る困惑とほんのわずかな称賛の色。
「お前、名は?」
「……物延湊です」
さっきから名乗っているのにと思いつつ、湊は答えた。
これまでは餌の名前などどうでもよかったのだろう。
「みなと、か」
伊槌は眠る弟の髪を撫でると言った。
「約束だ。当面の間、生かしておく。七凪の命を繋いだその腕に免じてな」
その言葉を聞いた瞬間、湊は安堵で膝から崩れ落ちそうになった。
……助かった。首の皮一枚で生き延びたのだ。
(よかった。食べてもらえた)
空っぽになった土鍋は、湊にとって何よりの勲章である。
「下がれ」
投げかけられた伊槌の言葉は命令口調ではあったが、当初のような冷たさは消えていた。
「かしこまりました。……明日からもご期待以上のものをお出しします」
湊は深く一礼し、寝所を後にする。
廊下に出ると、空には異界の月が蒼く輝いていた。
水天宮の最初の夜が、静かに更けていく。




