第1話 最高級の食材、転移する
残暑の色濃い初秋の候。御用邸の森は、夏の名残を留める深緑と、来るべき季節を予感させる黄金色が錦のように重なり合っていた。
宮内庁管理部大膳課。
そこは、日本という国の歴史と伝統を「食」という形で継承し、守護する部署である。
ステンレスの輝きと、磨き抜かれた檜のまな板が鎮座する厨房で、物延湊は息を整えた。手にした柳刃包丁は、彼の指の一部であるかのように馴染んでいる。
湊がお仕えしているのは、皇族の深山さま。
深山竜胆を御印に持つ宮さまである。猛暑で体調を崩され、病床から回復されたばかりの宮さまのために湊が選んだのは、「甘鯛の鱗焼き」と「松茸の土瓶蒸し」であった。
「……美味しくなれ」
それは祈りにも似た呟きだった。
白く透き通る甘鯛の身に、細心の注意を払って包丁を入れる。鱗を立たせるための松笠切り。ふわり、と立ちのぼるのは、一番出汁の雅やかな香りだ。利尻昆布の深遠な旨味と、本枯節の華やかな香気。それらが渾然一体となり、黄金色の液体となって椀を満たす。
湊にとって、料理とは献身そのものだった。
食べる人の身体を作り、心を癒やす。その一瞬のために、己の技術と魂を注ぎこむ。大膳課の厨司としての誇りであり、生き甲斐でもあった。
湊は和食の担当である。深山さまは洋食も中華もエスニック料理もお好きだが、病み上がりなこともあり、優しい味の和食を所望されたのだった。
仕込みが一段落した午後、湊は年配の侍従に呼び止められた。
「物延くん、少し頼まれてくれないか。奥の蔵の整理をしたんだが、古い調理道具が出てきたらしくてね。見てほしいんだ」
案内されたのは、御用邸の奥深くにひっそりと佇む白壁の蔵だった。
重厚な扉が開かれると、時代が凝縮されたような古びた紙と墨、乾いた木の匂いが鼻腔をくすぐる。微細な埃が舞う中、湊は侍従が言っていた桐の箱を手にとった。
「これか……」
蓋を開けた瞬間、何かピリリとしたものを感じた。
真紅のビロードに包まれていたのは、一本の包丁だった。形状は、牛刀と柳刃を合わせたような古式の剣型。ただの鋼ではない。刀身は黒曜石のような深く沈んだ黒色をしており、刃紋は荒れ狂う波のように乱れている。美しい。そして恐ろしい気がする。道具というよりは、何かを封じ込めた祭具のような……。
魅入られたように、湊は指を伸ばした。柄に触れた瞬間。
――ドクン。
心臓が早鐘を打った。視界がぐにゃりと歪む。
蔵の天井が、壁が、液状化して渦を巻く。足元の床が抜け落ちたような浮遊感。
「う、わ……っ?」
声にならない叫びを上げた時、湊の鼻を突いたのは蔵の埃っぽい匂いではなく、もっと濃密で圧倒的な「水」の匂いだった。
潮の香りとも違う、清冽でいてどこか生臭い、深淵なる水の香り。
意識が遠のく。
次に彼が瞼を開けた時、世界は一変していた。
音のない世界だった。
いや、音はある。絶えず響く水音のみが。無数の水の囁きが、大気を満たしている。
「……ここは」
湊は、硬く冷たい岩肌の上に横たわっていた。ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡して息を呑む。見渡す限りの水面。空は鮮やかな瑠璃色に染まり、雲の代わりに金色の粒子が川のように流れている。
自分がいる場所はただの岩場ではなかった。あまりにも平坦で、広大。まるで、巨人が使う「まな板」のような、一枚岩の祭壇。
その時、水面が爆発したかのように隆起した。天を衝く水柱。降り注ぐ飛沫が、宝石のように煌めく。現れたのは、生物としての規格を逸脱した存在だった。
――龍。
それは、東洋の神話に語られる長い胴を持つ水龍だった。
鱗は深海の色を映したような蒼黒。鬣は銀色の光を放ち、長く伸びた髭が優雅に宙を舞う。何より湊を射竦めたのは、巨大な黄金色の瞳だった。そこには、人間が抱くようないかなる感情もなく、絶対的な「支配者」としての冷徹な光だけが宿っている。
(夢だ。これは夢だ……)
湊は腰を抜かして後ずさる。
背後は断崖絶壁の水面。逃げ場はない。
龍が巨大な頭部を湊へと近づけた。熱い吐息。湊の肌が粟立つ。龍の瞳孔が、スリット状に細まった瞬間、眩い光が溢れ出した。巨躯が霧散するように縮んでいく。
光が消えた後に立っていたのは、一人の青年だった。
この世の造形美を集めて結晶化させたような、凄絶な美貌である。濡羽色の長髪は頭上で結ばれて背に垂れ、切れ長の瞳は先ほどの龍と同じ、冷酷な黄金色。
身に纏っているのは平安の狩衣を思わせる、ゆったりとした白銀の装束だ。彼は音もなく湊に近づくと、無造作に顎を掴んで上を向かせた。
「……ほう」
山の洞窟に響く琴の音のように美しく、冷たい声だった。
鋭い爪を持つ長い指が、湊の首筋をなぞる。頸動脈の上で止まる。男は鼻を寄せ、湊の匂いを深く吸い込んだ。
「良い香りだ」
うっとりとした表情ではない。
極上の獲物を値踏みする捕食者の目つきである。
「穢れがなく、魂の滋養に満ちている。これほど上質な『人餌』が迷い込むとは僥倖というべきか」
「あ、あの……あなたは……」
湊の声は震えていた。
男――伊槌は、湊の問いには答えない。
彼は湊の頬を片手で万力のように掴むと、親指の腹で強引に唇を割り開いた。口内を検分するように覗き込まれ、湊は屈辱と恐怖で息を呑む。
「歯並びも良い。骨格も確かだ。これならば細かく叩けば、七凪の喉も通るだろう」
「なな、ぎ?」
「我が弟だ。生まれつき体が弱く、神界の食事を受け付けぬ。だが、芳醇な香りを放つお前の肉ならば……あるいは」
伊槌の瞳が、ギラリと獣の色を帯びた。
瞬間、湊は理解した。自分は人間として扱われているのではない。「食材」として、品定めされているのだと。
逃げなければ。とにかく逃げなくては。
なのに、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。
伊槌の手が、湊が着ている白のツイルコックコートの襟を掴む。バリッと乾いた音がして、布地が乱暴に引き裂かれた。露わになった首筋に、伊槌の鋭い爪先がスッと食い込む。微かな痛感と共に血の匂いが漂うと、伊槌が満足げに牙をのぞかせた。
「う、わあぁぁっ!」
恐怖が限界を超えた。湊は伊槌の手を振り払って転がった。まな板のような岩の上を這いずり、距離を取る。伊槌は動じず、不愉快そうに眉をひそめただけだった。
「暴れるな。肉が硬くなる」
「た、食べないでください。俺は食べ物じゃありません!」
「黙れ。人間など、我らにとっては栄養価の高い餌に過ぎぬ。感謝せよ。お前は水龍の血肉となるのだ」
伊槌が一歩踏み出す。足元から、水が蛇のように鎌首をもたげ、湊の手足を拘束しようと迫る。死ぬ。切り刻まれる。調理される。
(――調理される?)
調理。その単語が、極限状態の湊の脳裏で火花を散らした。
自分は料理人だ。食材の命を預かり、最も輝く形へと昇華させるプロだ。それなのに、ここではただの「肉塊」として消費される? 冗談じゃない。
料理人としての意地と矜持が、恐怖をわずかに凌駕した。
「ま、待ってください!」
湊は両手を突き出して叫んだ。
「弟さん……七凪さまは、食欲がないのですね。体が弱くて、何も食べられないのですね?」
伊槌の足が止まる。
「それがどうした。だからこそ、お前のような滋養のある餌が必要なのだ」
「違います! 弱っている方に、いきなり生肉を与えても消化不良を起こすだけです。最悪の場合、命に関わります」
湊の剣幕に、伊槌がわずかに目を見開いた。
湊は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。大膳課で培った知識と和食への執念、全てを込めて。
「俺は宮内庁大膳課の料理人、物延湊です。食材を見極め、その人の体調に合わせ、最も美味しく仕立て上げるプロフェッショナルです」
湊は震える膝に力を込め、目の前の美しい人外の王を真っ直ぐに見据えた。
「俺を食っても、一回の食事で終わります。でも、俺を生かしておけば、弟さまのために毎日違う……美味しくて元気が出る料理を作ることができます。どちらが弟さまのためになるか、あなたならわかるはず」
沈黙が降りた。水音だけが、変わらず響いている。
伊槌は無表情のまま、湊を見下ろしている。黄金の瞳の奥で、何かが揺らいだように見えた。
「……料理、だと。この私に取引きを持ちかけるか、人間」
「はい。俺は、あなた方のような高貴な舌を満足させる自信があります。だから……俺を調理するのではなく、俺に調理をさせてください」
命を懸けた一世一代のプレゼンテーションだった。
まな板の上の鯉ならぬ、まな板の上の料理人。伊槌はしばらく沈黙した後、ふっと鼻を鳴らした。
「面白い」
拘束しようとしていた水の蛇が、パシャリと弾けて消える。伊槌は冷ややかに、だが幾分興味を引かれたように笑った。
「よかろう。その生意気な減らず口を試してやる。……だが忘れるな。もし七凪が一口でも残せば、その時は即座にお前を捌く。骨の髄まで啜ってやるからな」
脅しではなかった。
伊鎚の中ではすでに確定した未来だ。
しかし、湊は生きている。首の皮一枚、包丁の刃渡り一枚ほどの隙間で、命を繋ぎ止めた。
「承知いたしました」
湊は深く頭を下げた。
皇族に対する最敬礼と同じく、美しく洗練された礼だった。顔を上げた湊の瞳には怯えだけではない、職人としての静かな炎が宿っていた。
異界にある水天宮。
神と人、食うものと食われるもの。
奇妙で過酷な共同生活がこうして幕を開けた。




