第三十二話
ウェン・スーは呆然としていた。燃え尽きたと言ってもよかった。
目の前に倒れている老人は人生で一番の脅威で、五体満足では帰れないと覚悟していた。あの青い炎を纏った老人に勝てる想像が全く湧かなかった。なのに老人は突然血しぶきを上げながら倒れた。千人長二人との連戦、遊撃隊を飲み込んでしまうほどの結界、緑と青の炎、とても人一人がこの短時間に成せる事ではない。自分自身、今日という一日を現実として受け止め切れていない。老人は限界を迎えたのだろう。
結界が消え、風が吹いてくる。
「竜だ!」
兵の誰かがそう叫んだ。
大空を飛ぶ輪郭は鷹のようだった。鷹というにはあまりにも大きい。この世界に太陽を遮るほどに大きい鷹は、ウェン・スーの知る限り一羽しかいない。この老人のような化け物があと何人もいる。
ウェン・スーは喉元に手を当て、兵士達に指示を出そうとしたが、それよりもイエイレスのほうが速かった。
「弓兵! 魔術師! あれを老人の亡骸に近づけさせるな!」
拡声術式を用いたイエイレスの声は遊撃隊全軍に届く。だが兵士達はいまや疲労困憊となっており、迎撃準備をする者は少なかった。イエイレスは畳みかける。
「カトツェラが死んだ! アプサロムも死んだ! セム・イムも! お前達の家族とも言える者達が多く死んだ!」
大気を割るような鷹の鳴き声が兵士達の耳を襲う。イエイレスは拡声術式を使い続けた。
「お前達も死ぬのか! 多くの犠牲を出して敵を倒したばかりだぞ!」
拙い。と、ウェン・スーは思った。あまりにも拙い。信頼しきっていた参謀を失ったイエイレスの鼓舞は、拙くたどたどしかった。
けれど時として、言葉の巧みさよりも声を上げること自体が効果を生むことがある。イエイレスの鼓舞は今、兵士達の戦意を奮い立たせた。
弓兵が鷹に向けて弓を向け、魔術師達は隊列を組んで術式を構築し始める。
「残りの者は老人の亡骸を囲め!」
盾を持った者を中心とした防壁が築かれる。あの鷹が本気を出せば、この防壁を崩壊させることは容易いだろう。亡骸を傷つけてしまうことを気にしているのか、鷹は上空で円を描きながら飛ぶばかりで降りてこなかった。
イエイレスの拡声術式が響く。
「誰か、あの老人の首を落として見せよ!」
ウェン・スーは堪らず丘の上を見た。あの鷹の狙いは老人の亡骸だ。首を落としてしまっては火に油を注ぐだけではないか。
丘の上のイエイレスと目が合った。彼の目は何かに追い立てられているようだった。ここで老人の首を落として帝都に持って帰り、あわよくば鷹をも討ち取る。そうでもしなければこの損害の穴埋めはできない。
彼にはもうそれしか残されていないというのは事実だった。
独断で行った領土拡大行為で眠れる獅子を起こしてしまい、今や遊撃隊は壊滅に近い。三人いた千人長を二人も失っている。彼は何としてもここで戦果を上げる必要があるのだ。
ウェン・スーは首を振って見せた。それをイエイレスは、名誉を辞退したと受け取った。
「誰か、我こそはという者はおらんか?」
一人の兵士が剣を上げた。
「名乗れ!」
「スタリム!」
彼は拡声術式を有していないようだったが、その声はイエイレスの耳に届いた。
「勇敢なるスタリムよ、今こそその老人の首を――」
大気を割るような声が再び響き渡る。上空の鷹の急降下、凄まじい速度で亡骸に突っ込んでくる。
「撃て」
皆が口々に叫び、矢を、魔法を放ったが鷹の周りに起きる乱気流の前に全て跳ね返される。鷹は体勢を変え、極太の足で亡骸を掴もうとする。それよりも早くスタリムが老人の亡骸の上で剣を構えた。
すると鷹は空中で静止した。滞空したままスタリムと睨み合いになる。この巨体であればスタリムごと亡骸を持っていくことも出来るだろうに。この鷹は、人を殺したくないのだろうか。
遅れて、鷹が起こした乱気流が衝撃波となって兵士達に降り注ぐ。岩に押しつぶされるような風圧に耐えようと、兵士達は皆身体を丸める。鷹はその瞬間を狙って突っ込んできた。
大きく羽ばたき再度亡骸のもとへ移動しようとしたその瞬間、鷹の左の翼を矢が射貫いた。風圧の影響を受けない少し離れた所にいた弓兵の攻撃だ。
鷹の巨体にとって矢は棘にも満たない小さなものだ。痛みはあるかもしれないが、飛ぶことに支障はないだろう。それでも隙はできた。その一瞬をウェン・スーは見逃さなかった。剣を握り直し走り出す。距離にして二十歩程度。兵士達が丸めている背中を蹴り飛ばし、一気に距離を縮める。自己マナで身体能力を強化し、風の術式で自身を鷹の元まで押し上げる。
ウェン・スーと鷹は空中で目が合った。この鷹は巨体であっても戦いには慣れていないように思えた。
ウェン・スーが剣を振る。目指すは鷹の胴体、心臓に届けば良いがこう大きくてはどこが心臓なのかもわからない。それでも胴体に刺されば撤退するくらいの傷にはなるだろうと狙った剣を、鷹は素早く上昇し躱した。狙いのずれた剣が鷹の左足付け根を斬りつける。
鷹の悲鳴がウェン・スーの鼓膜を劈く。堪らず耳を塞いだウェン・スーは地面に叩きつけられたが、回転して起き上がり、槍を構えていた兵からそれを奪い取って投げつけた。
槍は鷹の右翼に吸い込まれるように刺さり、翼を貫通した。片翼に槍が刺さったままの鷹は気力を絞ってその場を飛び立った。上へ上へと昇っていく。
「ウェン・スーが退けたぞ!」
イエイレスの声が聞こえる。兵士達からは安堵と喜びの声が漏れ、それは次第に勝鬨に変わっていった。
戦いは遊撃隊の勝利で終わった。
ウェン・スーにはとても勝利とは思えなかったが……。
「このスタリムが! 我々帝国の脅威の首を落としてみせたぞ!」
スタリムという兵士がバジルの首を切り落とす瞬間を鷹のシリウスは上空から見ていた。その顔を目に焼き付けると、翼を全力ではためかせて槍を折った。そしてシリウスは下へ落ちていく。彼は今まで戦いを避けてきたことを、友の亡骸すら取り戻せなかったことを後悔しながら落ちていった。
生き残った帝国兵は雄叫びを上げ続けていた。
この日以降、この丘の下では稀に青い火が目撃されると人々の間で噂になった。
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kindle出版しているアーカー大陸:楔の本編をこれから毎日最後まで公開していきます。
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