第三十話
「ウェン・スー! よく戻った!」
「状況を教えてください」
イエイレスが状況を説明する。
眼下では既に黒鎧のウェン・スー隊が参戦していた。千人長カトツェラという主戦力を失った兵士達は老人から少し距離を取り、矢や魔術を用いた中距離攻撃に移行している。それでも老人の攻撃を凌げているわけではなかった。中距離からの攻撃は味方に当たってしまう恐れもある。老人は巧みに兵のいる集団に入り込み、矢や術式の攻撃を帝国兵の体を利用して回避していた。
「ウェン・スー、あれをどう見る」
ウェン・スーは顎に手をあて思案する。口元、眉尻、腕にも大きな傷痕がある彼は、この遊撃隊で最も経験豊かな千人長で、元は大陸をまたにかけ活躍していた傭兵だった。彼の部下も傭兵上がりの者が多かった。
実力主義を掲げる帝国では、しばしば彼のようなたたき上げの千人長が誕生する。上流階級出身のカトツェラ、純粋なラルゴン帝国人であるアプサロムも彼には一目置いていた。
戦場での傭兵の振る舞いは軍人とは異なる。名誉や戦果を上げることを第一とする軍人に対して、彼等は自らの信用と生命を第一とした。まず自分達が生き残ること、そして可能であれば自身の信用を落とさない形で生き残ること。彼等の行動原理は現在の遊撃隊のような窮地で、最も合理的な判断を下すことができるだろう。
「あれは化け物ですね。アンギルダン様と並べても遜色ないでしょう」
「またアンギルダンか。いつもあいつの名前ばかりだ」
アンギルダン・クレイム。ラルゴン帝国最強と称される将軍の名である。
今回の遠征でイエイレスに下った命令は、シスバーガリ王国を攻略しているアンギルダンの補佐であった。あくまで主戦力はアンギルダンでイエイレスは兵站の警護や敵の牽制程度に回らざるを得なかった。
アンギルダンは齢六十を超えて尚、常に最前線に立ち続けていた。比喩ではなく、兵士達の一番前で戦い続けた。彼が前に出ると敵の前線は崩壊し、敵を倒し続ける彼の背中を追いかけようと兵士達の士気は自然と上がった。彼一人がいれば戦争ができる、帝都ではそう言う者達さえいた。
皇族であり、身分を重んじるイエイレスと、平民出身の成り上がりであり、誰にでも平等に接するアンギルダンの馬が合わないことは誰の目にも明らかであった。
「だがアンギルダンのような人間がそうそういてたまるか。あれは何者だ」
「グレーリーホールにはあれほどの将はいません、シスバーガリにも。リトルアジアやディエイカーの可能性はありますが、ここは既に帝国領です。一国の将が単騎でここまで来るとは思えません」
ウェン・スーはセム・イムを一瞥する。その視線に怯えるようにセム・イムの身体が縮まる。
「今はあの化け物をどうするかを考えましょう。このまま動き回られては顔も良く見えない。首を落として面を拝めば、どこの誰かはわかるでしょう」
セム・イムがそう言うと、丘の下で動きがあった。
「何だ? 何をしようとしている?」
「何か来ます! 殿下、隠れて!」
「どけセム! 見えんではないか!」
セム・イムがイエイレスを庇おうと前に出て、揉み合いになる。
「来ます!」
ウェン・スーは直立して、老人の動きを見逃すまいと目を見開いていた。
老人を中心に大気が滲んでいくように見える。暑い日の陽炎のようなそれはどんどん広がっていき、イエイレス達をも通り過ぎると、やがてぱきぱきと音を立てて硝子のように透明な円形の壁を構築した。
「なんだ、何がしたかったのだ。何をされた?」
イエイレスは老人に睨まれたように感じ、恐怖を打ち消すように訊ねた。
「恐らく、結界ではないかと」
ウェン・スーが答えた。
「結界だと? これが?」
「狩人が獲物を逃がさぬように使う術にございます。規模はこれほどではありませんが」
「ふむ。しかしあの老人も中にいるではないか。一体何がしたいのだ」
「――動いた」
ウェン・スーは老人から目を離さずに呟く。
老人を中心に緑の炎が渦を巻いて燃え上がる。不思議なことに、イエイレス達の陣で起こしていた焚火も又、緑色の炎となって大きく畝っていた。淡い緑の炎はどんどん濃い色に変わり、その中にいる老人の姿すら見えなくなっていく。老人の姿が炎に消える前、その顔が焼けていることをウェン・スーは見た。渦を巻く炎は大きな火柱となり、天へと伸びた。
ウェン・スーが喉に手を当て、怒鳴る。嫌な予感がする。
「魔術師! 老人に向けてありったけの風を送れ!」
術式で拡声されたウェン・スーの指示に、帝国の魔術師達は機敏に反応し、自らの周りに風を起こし始めた。剣や素手、各自最も得意な方法でマナに指示を出し老人に向けて風を送る。
「魔術師はそのまま風を送れ! 弓兵は射続けろ! 他の者は老人を囲んで盾を構えろ!」
眼下で色とりどりの兵士達が自らの持ち場を探す。やがて前列に盾を持った兵士、その後ろに弓兵、後列に魔術師が並んだ包囲網が形成された。魔術師達は老人に向けて風を送り続け、弓兵は矢を射続けたが、老人に届いているのか確認する術はなかった。
「殿下、これは結界で間違いありません」
「だからなんだ!」
イエイレスは苛立っていた。これが狩人の扱う結界術式で、異様な規模のものであったとして、だからなんだと言うほかない。
「あの老人は我々を焼くつもりではありません。空気を焼いてしまうつもりなのです」
「!?」
この馬鹿でかい結界は空気を制限するつもりだったのか。それであればわざわざこの場面で結界を張ったことにも納得できる。
「だが、それではあの老人自身も……」
「元より単騎で我らに突っ込んできた者です。生きて帰るつもりもないのでしょう」
緑の火柱は更に大きくなっていく。
「逃げましょう! 殿下、結界の外へ!」
「だがセム、兵を置いてはいけん!」
「あなたの命のほ――」
言いながらセム・イムはイエイレスを突き飛ばした。よろけたイエイレスはウェン・スーに受け止められる。
老人の炎は渦巻きながら上昇していき、やがて結界の天井まで到達した。行き場を失った炎は火の玉となり、兵士達に降り注ぎ始める。その一つがセム・イムに直撃した。
「セム!」
駆け寄ろうとするイエイレスをウェン・スーが止める。セム・イムは一瞬にして燃え上がった。緑の炎が人を焼く様は幻想的で、二人を一瞬魅了した。
セム・イムは真っ黒な炭の塊になった。もはや誰の死体か分からないほどに黒く。
「ウェン・スー、悪かった。もうよい」
イエイレスはウェン・スーの元を離れ、眼下の戦況を見る。あちこちで緑の火の手が上がり、火の玉に直撃したものは燃え上がり炭と化していた。
隊列は崩れ、兵士は散り散りに逃げ回る。もはや戦いどころではない。結界さえなければ、すぐにでも全軍に撤退を命じる所だ。
老人は今もなお炎の中心にいる様で、その証に炎の直径は膨れ上がり、火の玉は降り注ぎ続けていた。
「ウェン・スー、知恵を出して欲しい。この場を生き延びる知恵を」
イエイレスは静かに言った。今彼は、指揮官として大きく成長したのだとウェン・スーは思った。
「あの老人は今も生きています。炎が膨れ上がっているのがその証拠。薪のような燃えるものがあるならともかくあれはマナの炎です。マナ切れまで追い込めば消えるでしょう」
「マナ切れ……そこまでにどれだけ犠牲が出ることか」
「わかりません。ですが既にこれだけの結界を張って炎を産み出し続けているのです。そう長くは持たないでしょう」
魔術を使うと肉体に疲労が蓄積し、使い続ければマナ切れという一時的に魔術を使えない状態に陥る。このマナ切れには個人差があり、マナ切れを起こしにくい者を自己マナが多いと表現した。
「あれが疲れて魔術が使えなくなる瞬間が来るかもしれない……」
「ええ、そういうことです。我々はあの老人に魔術を使わせたほうが良い。むしろ早くマナ切れか疲労困憊に追い込めなければ、全滅です」
ウェン・スーは落ち着いた様子で全滅という言葉を使う。その様子がイエイレスを困惑させた。
ウェン・スーはとても静かな表情をしていた。自身や自分の部隊の生命の危機に瀕しているのに、それを全く感じさせなかった。アプサロムやカトツェラなどはどちらかというと飄々としていて、自身の危機すら楽しんでいる様な素振りがあったが、ウェン・スーは違う。淡々と現状を認識し、どのように振舞うべきかを考え続けている。
彼は一体どのような修羅場を潜ってきたのだろうか。必要以上のことを話さない、寡黙で優秀な部下とだけ思っていた彼に、イエイレスは興味を持った。
「ウェン・スー、先ほど風を送るよう命令したのは何故だ」
「自滅へ追いやるためです。あの老人の元に火を集め己を焼かせるつもりでした。あの老人は自身の火で焼かれています。私はそれを確認しています」
「なるほど」
ウェン・スーは老人から視線を外さなかった。
老人の炎が少しずつ途切れ始めた。緑の炎は消え、立ち上っていた火柱も霧散し始める。
「マナ切れか?」
「わかりません、しかし今が好機! 殿下、指揮を」
イエイレスは生唾を飲んだ。
ここも息苦しくなってきている。丘の下では喉を抑えながら倒れていく兵達が出てきていた。
「ウェン・スー、お前が指揮したほうが良いのではないか」
「私は前に出ます。今総攻撃を仕掛ければ討ち取れるかもしれない」
ウェン・スーはイエイレスの足元を見た。釣られてイエイレスも視線を落とす。金の鎧に包まれた自身の足がぶるぶると震えていた。
「ラルゴン帝国領土拡大遊撃隊の指揮官は貴方だ」
ウェン・スーは剣を抜き、丘を駆け下りていく。イエイレスはセム・イムの亡骸をじっと見つめた。
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kindle出版しているアーカー大陸:楔の本編をこれから毎日最後まで公開していきます。
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