第二十九話
「失礼致します!」
近衛兵の呼びかけでイエイレスは目を覚ました。
「なんだ」
「敵襲です!」
寝ぼけた頭を振って起こす。天幕の外からは兵士達が慌ただしく動き回る音がしている。
敵襲とはいえ、大抵のことであればセム・イムが何とかするだろう。帝国軍を野盗程度が狙うとは思えない。とすればチュワモントの残党勢力か。何れにしろ、よほどの出来事が起きたに違いない。
それにしては敵の様子が全くと言っていいほど報告されなかった。敵の規模や所属等、必要な情報は多くある。会敵したのであれば多少なりとも報告できるはずだ。
「おい、セム・イムの所へ行く。支度を手伝ってくれ」
見張りが天幕の中に入ってくる。睡眠を取っておいて良かった、セムの言う通りだったとイエイレスは思った。だが見通しの良いこの地で敵の情報が報告されないというのは指示系統の訓練を改めねばならないということだ。
甲冑を着たイエイレスは頭を無理矢理覚醒させた。
天幕の外は混乱状態で、兵士達の雄叫びが丘の下から聞こえてくる。金の甲冑のイエイレスは目立つ。なのに周囲の兵士達はイエイレスに気付く様子はなかった。仕方なくイエイレスは兵士達の合間を縫って自身でセム・イムを探した。
「セム! どこだ!」
「こちらです!」
声のする方向に向かうと、必死の形相のセム・イムが陣頭指揮を執っていた。小高い丘の南側、戦場が良く見える位置だ。
「殿下、申し訳ありません」
「謝罪はいい、何が起きた? 敵の規模は、どこの兵だ」
「あの者です」
セム・イムが指した先に、一人の大きな老人がいた。身の丈ほどの大剣を振るい、自在に炎を扱っているように見えた。
「あの者……あれが敵か? あれだけか?」
「はい、単騎です」
「ふん」
「アプサロム隊はほぼ壊滅、アプサロムは戦死した様です。今は残った兵とカトツェラの兵で取り囲んでいます」
「なんだと?」
俄かには信じられなかった。アプサロムは遊撃隊の中でも腕自慢の兵士だ。その配下の兵も練度の高いことで知られていた。それが単騎に壊滅させられるなど、イエイレスの常識ではあり得なかった。アプサロムの隊には千の兵がいたのだ。
「ありえん。ありえんだろう! よく見れば老人ではないか。大男とはいえ老人一人何故殺せぬ! 大体あの者はどこから来たのだ、どこの兵士だ。傭兵か?」
セム・イムの表情が曇る。
「なんだ、心当たりがあるのか」
「いえ……しかしあの者、相当に強――」
眼下から爆音が鳴り響く。老人の振った大剣に周囲の兵士がばらばらと飛ばされていく。
「なんだ! なんと言った?」
「今はあの者の素性を気にしている場合ではありません! 殿下は北へ、ウェン・スーと合流してください!」
「ならん!」
セム・イムの提案はイエイレスにとって侮辱に等しかった。
「俺が自分の命が惜しいと思ったか! お前達に守られるばかりと思ったか!」
あり得ない提案だった。ただでさえイエイレスはシスバーガリ王国南部遠征で目立った戦果を上げることが出来なかったのだ。だからこそベルシビルや近隣の集落を襲撃して少しでも何かしらを持ち帰ろうとしたのだ。
あの老人が何者なのかは分からないが、眠れる獅子を起こしてしまったのだとしたら、そのけじめはつけておかなくてはならない。当初の作戦になかったことをして新たな火種をつくり、部隊を壊滅させられて逃げ帰ってきましたなど、皇族としてあるまじき姿である。
ここであの老人を討ち取る以外の選択肢はない。
セム・イムは食い下がった。
「殿下を失えば帝国は世継ぎを失うことになります。それは最も避けるべきこと。貴方がいなくなれば帝国は混乱どころの騒ぎではありません」
「だからなんだというのだ! 俺は逃げんぞ!」
「逃げろと言っているのではありません! 時には撤退が必要だと申し上げているのです!」
周囲の近衛兵達は二人の様子を隠す素振りもなく観察していた。この二人がここまで大声で言い争う姿は今までに見たことがなかった。
「撤退と逃げは何が違うのだ!」
「撤退には明確な目的と意図があります! 貴方は自身の命を守るために撤退するのではない! 帝国が存続するために! 帝国を守るために撤退するのです!」
丘の下では老人と赤と青の鎧の兵士達が乱闘になっている。帝国兵達は老人を取り囲み続けていた。老人から時折爆発音が轟くと兵の腕や足、首が各所に飛び散っていく。そこに黒鎧の兵士が混ざり始めているのに、二人は気付かなった。
「さっきからおかしいぞセム! お前はいつも俺に、指揮官とは何たるかを教えてくれるではないか! お前の言う指揮官とは強敵が現れれば尻尾を巻いて逃げる者のことか!」
イエイレスの気迫にセム・イムは押されていた。イエイレス優位で会話が進む姿は近衛兵達にとって初めての光景であった。
「どうした。なんだその表情は。セム、俺に何か隠していることがあるのか」
セム・イムははっと目を見開き、それを押し殺すように苦悶の表情を浮かべる。
その姿はイエイレスにとってひどく不快だった。セム・イムが動揺している姿は見たことが無かったし、見たいものでもなかった。
イエイレスはセム・イムの傍に寄り、二人にしか聞こえない声で話しかけた。
「俺はお前を信頼している。お前は優秀な参謀だ」
セム・イムは歯を食いしばった。
「頼む。俺は兵士達を置いて帝都に逃げ帰ることはできない。この場を……あの老人を打ち倒す策を、何か思いつかないか」
消え入りそうな声だった。爆音と炎、兵士達の怒号が飛び交う戦場で、セム・イムの言葉はイエイレスには届かなかった。ただ、謝罪のような言葉が聞こえた気がした。
「千人長カトツェラ様、戦死!」
どこからともなく伝令が叫ぶ。二人の千人長の戦死、兵士の士気を削ぐ重たい空気が戦場を包み込む。
「……俺が前に出よう」
「殿下! それはなりません! 貴方を失うわけに――」
「煩い!」
縋りついたセム・イムをイエイレスは振り解く。
「仲間内で争っている場合ではない。あのような者を相手にするときは上に立つ者が前面に出てこそ士気も上がるというもの。もうここには俺しかいない」
イエイレスは剣を抜く。その手は小刻みに震えていた。
恐怖していた。帝国軍人として、皇族として恥じないように訓練を積んできた。だがあの老人は、人の体をいとも簡単に壊していく。
「セム・イムはここで指揮を執れ。俺はあの老人の相手をする」
「殿下……」
セム・イムは打ちひしがれていた。周囲の誰もが、セム・イムの教えをイエイレスが跳ね除けたことに動揺しているのだと思った。イエイレスさえそう思っていた。
「お待ち下さい」
その空気に割って入ったのは、黒鎧の千人長ウェン・スーであった。
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