同業他社
時:1932年(昭和七年)、夏
ロンドンでドルが売られ、ポンドが買われ続けている日、ワシントンの高級ホテルでアメリカ海軍主催により開催された日米の親善レセプション。
駐米武官の東郷一成もまた、胸に手を当てて直立した。周囲のアメリカ人たちと同じ作法だった。
その時、白い給仕服の男が列を乱して前へ出た。
ウェイターに変装していた一人の男が、狂気に満ちた目で東郷に向かって突進してきた。
その手には、導火線から火花を吹く黒い鉄パイプ――手製の爆弾が握りしめられていた。
「死ねッ! ジャップの悪魔め!!」
会場に悲鳴が上がる。
だが東郷一成は、国歌に対する敬意を示すため、胸に手を当てた直立不動の姿勢(アメリカ式の敬礼)を崩さなかった。
東郷の背後に控えていた木梨大尉が、弾かれたように動いた。手に持っていた銀色の分厚いトレイを、フリスビーのように男の足元に滑り込ませた。
「あっ……!」
男はトレイに乗って派手に転倒し、手から爆弾がすっぽ抜けた。
宙を舞う、火を噴く鉄パイプ。
小百合が庇いに入る前に、東郷は姿勢を大きく崩さぬまま、半歩だけ前へ出た。そして革靴の足先で、落ちて床を転がってきた爆弾をサッカーボールのように横へ払う。
床を滑った爆弾は、会場脇に置かれていた氷水で満たされている巨大シャンパン・クーラーの中に、見事な放物線を描いて飛び込んだ。
そして東郷は、何事もなかったかのように直立不動の姿勢に戻り、国歌を歌い続けた。
数秒後、水の中で鈍い破裂音が響く。
銀の容器が大きく跳ね、水柱が噴き上がった。
悲鳴。だが破片は氷水に抑え込まれ、会場中央の賓客たちに被害は出なかった。
♪ O'er the land of the free and the home of the brave...
国歌の演奏が終わった。
静まり返る会場。転倒して取り押さえられ、呻いている暗殺者。
東郷は左手をハンカチで拭きながら、氷水の滴るシャンパン・クーラーの成れの果てを見下ろし、極めて流暢で、冷ややかな英語で言った。
「……相変わらず素晴らしい国歌だ。
だが、君たちは礼儀を学び直した方がいい。いかなる理由があろうとも、自国の美しい国歌が演奏されている最中に、騒ぎを起こすものではないよ」
事件後、大使館へ戻る車内。
小百合は、珍しく不機嫌そうに唇を尖らせていた。
「……閣下。私の護衛任務を奪わないでください。あのような素人、私が0.5秒で首の骨を折っておりましたのに」
「すまんすまん」東郷は苦笑した。
「だが、アメリカの国歌が流れている最中に、うら若きレディに血なまぐさい真似をさせるわけにはいかんだろう?」
「では、血を流させずに絞め落とします」
「そういう問題ではないのだが……」
一方、東郷の無事とは裏腹に、アメリカ側は文字通り「地獄絵図」と化していた。レセプション会場の空気は、最高級のシガーの煙と、殺意にも似た暴力的なまでの屈辱感で満たされていた。
よりにもよって『合衆国海軍主催・日米友好レセプション』の会場である。そこで、主賓の東郷一成少将が爆弾で襲われたのだ。その目撃者となったアメリカ海軍の中枢を担う将官・佐官たちは、誰一人として酒を喉に通すことができずにいた。
まずウィリアム・ハルゼー大佐が、グラスをテーブルに叩きつけ、苛立たしげに吐き捨てた。
「あんな無様なテロリストを雇ったのは、どこのどいつだ! 腹いせにしても三流すぎる! おかげで我々海軍の警備体制は、世界中のメディアから『ボーイスカウト以下』と笑い者にされているんだぞ!」
その怒れる猛犬を制するように、チェスター・ニミッツ大佐が静かに口を開いた。
「分かっている。だからこそ、恐ろしいのだ」
ニミッツの青い瞳は、冷徹な分析官の光を帯びていた。
「……あの爆弾と銃が本物であった以上、誰かが彼を本気で殺そうとした。だが、問題は『誰が』だ。
……アーネスト。もしこれが、我々の『身内』の仕業だったとしたら?」
その言葉に、キングとハルゼーの動きがピタリと止まった。
「……身内、だと?」
「ああ。例えば、東郷のNCPC債のせいで税収が干上がり、メンツを丸潰れにされた財務省やFRB。あるいは外交の主導権を奪われ、日本を憎悪している国務省の強硬派。
……連中が、破産したチンピラを金で雇って『憂国テロ』を偽装したとしたら?」
キングの顔色が怒りの赤から、殺意の青へと変わった。
「政治家の連中が、我々海軍のパーティを『暗殺の舞台』に利用したと言うのか?」
「証拠はない。だが、動機はある」
ニミッツは、静かに言った。
「もし東郷がここで死ねば、誰が一番得をするか。少なくとも、我々海軍ではない。我々は『ゲストを守れなかった無能』として、さらに予算を削られるだけだ。だが、NCPCという制度の首魁が消えれば、喜ぶ政治家は山ほどいる」
キングは、ギリギリと奥歯を噛み締めていた。
彼にとって東郷は、アメリカの誇りである『プレジデント・フーヴァー級(空母の卵)』を2隻奪っていった憎き仇だ。だが今の光景は、その憎悪すら上回る「アメリカ軍人としての恥」だった。
「……いずれにせよ、これほどの屈辱はない。我々アメリカ海軍は、自国の国歌の最中に、仮想敵国に命を救われ、あまつさえ『礼儀作法』まで説教されたのだからな!」
⸻
場所:ニューヨーク、ウォール街。JPモルガン商会・大講堂
翌日、JPモルガンの大講堂には、全米の主要な機関投資家、ファンドマネージャー、そして経済紙のトップアナリストたちがひしめき合っていた。
演壇に立っているのは、日本大使館の東郷一成少将。
彼の背後には、巨大なスライド映写機で「円グラフ」や「組織図」が次々と投影されていた。
それは『日本帝国海軍・中期経営計画(昭和七年度〜十二年度)』と題された、前代未聞の「NCPC債投資家向け説明会」であった。
「……以上が、我々が国内外で急ピッチで建造を進める『給油艦』群の配備スケジュールです」
東郷はポインターで海図の長大なシーレーンを示しながら、流暢な英語で語る。
「投資家の皆様。我々は皆様からお預かりした資金(信用)が、太平洋やインド洋の藻屑となるリスクを極限までゼロに近づける『義務(Fiduciary Duty)』があります。
そのため、従来の戦艦や巡洋艦の艦長といった大砲の専門家ではなく、東京や神戸など全国の高等商船学校から、『航海と荷役、船団維持』に特化した海のプロフェッショナルたちを、特別待遇で3,000名採用し、育成後に正規の士官としてこれら船団の指揮を委ねることにいたしました」
講堂から、感嘆のどよめきが上がった。
「素晴らしい……」
最前列のアナリストが、熱心にメモを取る。
「従来の軍隊というものは、得てして花形の戦闘部隊ばかりを優遇し、兵站を軽視しがちだ。だが、このトーゴーという男の海軍は違う。彼らは利益(物資)を運ぶ『血管』の防衛に、最高のコストと人材を割いている。これぞ真の近代的なコーポレート・ガバナンスだ!」
東郷は、さらに別のスライドを映した。
「また、国内の造船所や製鉄所、電力網へのインフラ投資も順調に進行し、建造能力は過去最高を記録しております。これにより、我々の『任務遂行能力』は向こう十年間、いかなる外的要因(不況や他国からの干渉)にも揺らぐことはありません。
……皆様のNCPC債は、世界で最も強靭な盾に守られているのです」
割れんばかりの拍手が、講堂に響き渡った。
投資家たちは総立ちになり、この「世界で最も確実な利回りをもたらす優良企業(日本海軍)」に、惜しみない賛辞を送っていた。
「素晴らしいプレゼンテーションだ、東郷提督」
質疑応答のセッションに移ると、最前列に座っていたウォール街の大物ファンドマネージャーが、立ち上がって質問を投げかけた。
「提督。貴方のリスク管理能力が完璧なのは、先日の『ワシントンでのレセプション』でも見事に証明されましたな。国歌の演奏中、爆弾を持った暴漢を、靴の先一つで綺麗に片付けられたとか」
会場に、クスクス笑いが起きた。
「……しかし、一つだけ懸念があります」
ファンドマネージャーは、わざとらしく声を潜め、演劇的な身振りで言った。
「市場の噂では、あの爆弾を持ったウェイターは、アメリカ合衆国海軍が誇りを持って開発した、最新鋭の『誘導兵器』だと言われていますが……。
提督が今回発表された強固な兵站部隊は、あのような斬新な新戦術を刺激し、我々の投資資産に不測の事態を招くリスクはないのかね?」
講堂が爆笑の渦に包まれた。
東郷一成は、壇上で静かに微笑んだ。
「良いご質問です。ですが、ご安心を」
彼はポインターを下ろし、マイクに向かって穏やかに、しかし確信に満ちた声で答えた。
「我々が護衛するのは、貴方がたの投資資産であり、世界の経済を回す血流です。これを脅かす者は、単なる我々の敵ではなく、世界経済全体の敵となる。
……それに、正直に申し上げまして」
東郷は、肩をすくめてみせた。
「現在、太平洋の反対側にいらっしゃる『同業他社』の皆様は、自社の燃料代の工面に追われ、港から船を出すことすら難しいご様子です。
我が国の戦闘艦隊が活躍するような『不測の事態』は、向こう数年間は物理的に起こり得ないでしょう。……なにしろ彼らは今、雇ったウェイターへのチップを払う余裕もないようですからね」
「Hahaha!!! その通りだ!」
「全く同感だ!」
再び、割れんばかりの爆笑とスタンディングオベーションが巻き起こった。
東郷は、自らを暗殺しようとしたテロ事件すらも、「自らのリスク管理能力の証明」と「最高のブラックジョーク」へと昇華させ、ウォール街の心を完全に掌握したのである。
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時:同日 夕刻
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長室
その頃ワシントンでは、アメリカ海軍の首脳陣たちが、胃に穴が開くような地獄の会議の真っ最中だった。
「……それで日本大使館への公式な謝罪文は、どう書くつもりだ」
海軍作戦部長ウィリアム・プラット大将は、こめかみを両手で押さえながら呻いた。
「『我が軍の警備の不手際により、貴国の提督を危険に晒したことを深く陳謝する』……と書けば、我々の無能を公式に認めることになる。
かといって『あれは単なる民間人の暴走であり、我々に責任はない』と書けば、『合衆国海軍は公式行事の会場管理すらできないのか』とさらに馬鹿にされる……!」
法務総監も、頭を抱えていた。
「提督。そもそも東郷は、あの事件に関して公式には一言も抗議してきておりません。それどころか『素晴らしい余興だった』と、ホテルの備品代まで置いていったのです。
こちらから大袈裟に謝罪すれば、かえって『やはり海軍が裏で暗殺を企てていたのでは? だから慌てて火消しをしているのでは?』と、新聞記者どもに勘繰られる恐れが……」
「ええい! じゃあどうしろと言うのだ! まさか黙殺しろと言うのか!」
プラットが机を叩いた、その時だった。
情報局(ONI)の将校が、夕刊の束を抱えて青ざめた顔で飛び込んできた。
「て、提督! ウォール街の通信社から、本日の東郷の『投資家説明会』の議事録が送られてきました!」
「投資家向け説明会だと? 奴はまた何か株でも売りつけたのか」
「い、いえ。それよりも、質疑応答の内容が……」
将校が震える声で読み上げた「チップを払う余裕もない同業他社」というジョークの応酬を聞いた瞬間。
作戦部長室の温度が、一気に氷点下まで下がった。
いや、静寂の後に訪れたのは、火山の大噴火だった。
「…………あの、イエロー・モンキーめッ!!!」
プラット大将の絶叫が、海軍省の廊下にまで響き渡った。
「ウォール街のど真ん中で! 投資家(アメリカ国民)たちの前で! 我々を『資金難で港から出られない哀れな同業他社』とコケにしおったか!!」
彼は怒りのあまり、デスクの上のインク壺を壁に投げつけた。黒い染みが広がる。
「しかも! 我々の誇りある海軍を、暗殺に失敗した三流のテロリスト扱いだと!? ふざけるな! 誇り高きアメリカ海軍が、あんな素人くさいウェイターに爆弾を投げさせるような真似をするか!!」
「て、提督! 落ち着いてください! 血圧が!」
「落ち着けるか!
我々は軍隊だぞ! 国家の威信と武力を誇る、世界最強の海軍だ!
それがなぜ、金融街の背広を着た金持ちどもの前で、お笑い草のピエロにされなければならないのだ!」
プラットは、呼吸困難になりながら椅子に崩れ落ちた。
屈辱。それは海戦で負けることよりも、予算を削られることよりも深い、魂の屈辱だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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