責任ある不支出
時:1932年(昭和七年)、夏
場所:ロンドン、シティ(金融街)
その日のロンドン為替市場は、殺気と怒号に包まれていた。
「ポンドを売れ! 全部ドルと金に換えろ!」
「CA銀行の焦げ付きで、イングランド銀行の金庫も空っぽだぞ! イギリスはもう金本位制を維持できない! 売れ、売れ!!」
ウォール街の投機筋、フランスの銀行団、そしてパニックに陥った投資家たちが、猛烈な勢いでスターリング・ポンドを売り浴びせていた。
彼らの計算は正しかった。イギリスの金準備高は薄く、政府は失業対策で揉め、アメリカは「アルゼンチン市場」を強奪したばかりでイギリスを助ける義理はない。
「イングランド銀行の金庫が空になれば、我々の勝ち(ポンドの暴落)だ」
投機筋は、勝利を確信していた。
だが、午後2時。
ティッカー(相場表示機)の動きが、突如として不自然に止まった。
いや、止まったのではない。凄まじい勢いで「買い」の注文が入り、ポンドの暴落を岩盤のように支え始めたのだ。
「……な、なんだこの買いは!? 誰が買っている!?」
「イングランド銀行の介入か!?」
「違う! スイスのBIS(国際決済銀行)だ! BISの特定口座から、無制限とも言える『ドル売り・ポンド買い』の注文が機関銃のように入ってきている!!」
その金額は日を経るごとに100万ドル、500万ドル、1000万ドルと膨れ上がり、ついには「2億ドル」という、市場の常識を破壊する規模に達した。そして、まだ止まらない。
「に、2億ドルだと!? どこの国の中央銀行だ!」
「違う、国家の口座じゃない! 『NCPC(日本海軍)』の指定決済口座だ!!」
その言葉がフロアに響いた瞬間、投機家たちの顔からスゥッと血の気が引いた。
相手は、イングランド銀行ではない。
南米の鉱山を支配し、アメリカの中西部で肉を買い占め、ヨーロッパの重工業をリースし、莫大な外貨を『実体経済の血流』として回している、あの「東郷一成のNCPC」だ。
彼らは今、ただのポンド紙幣を買っているのではない。
イギリスとフランスで建造が決定した、「18隻の28ノット級高速給油艦」と「12隻の4万トン級巨大タンカー」、そして現在ヴィッカース社を中心に建造中の「40隻のS型潜水艦」の代金を支払うために、ポンドを買い支えているのだ。
「……ダメだ、逃げろ! 相手が悪すぎる!!」
一人の老練なディーラーが、青ざめた顔で受話器を投げ捨てた。
「我々は『イングランド銀行の薄い金準備』と戦っているつもりだった。だが違う!
今、ポンドの背後には『日本の巨大な造船発注と、世界の海を回る日本海軍の兵站物流網』が防護壁として立ちはだかっているんだ!
……あんなバケモノみたいな実体経済に、マネーゲームの空売りで勝てるわけがない!!」
売り注文は、止まらない日本の買い注文の前に潮が引くように消滅していった。
為替市場において、最も重要なのは現在の金庫の中身ではなく、「最後に誰が買い支えるか(Buyer of Last Resort)」である。
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時:1932年(昭和七年)、夏
場所:ロンドン、ホワイトホール近郊の高級クラブ(サロン)
紫煙の漂うサロンの奥で、大英帝国の財政を司る大蔵省(Treasury)の高級官僚たちが、苦虫を噛み潰したような顔で葉巻をふかしていた。
「……信じられん。日本海軍の2億ドル以上の介入と造船発注のおかげで、ポンドの暴落が止まり、クライドの造船所はフル稼働が決定。失業率は目に見えて改善し始めている」
官僚の一人が、手元の経済指標を信じられないものを見る目で睨んだ。
「我が国がいくら金利を上げても、緊縮財政で予算を削っても良くならなかった経済が、他国の軍隊の『お買い物』一つで持ち直すとは……」
「その通り! まさに痛快な喜劇じゃないか、諸君!」
その時、朗々とした、しかしどこか人を食ったような声が響いた。
現れたのは、当代きっての異端の経済学者――ジョン・メイナード・ケインズである。
「ケインズ教授……」
大蔵官僚たちは、露骨に嫌な顔をした。彼らは「政府の借金で公共事業をやれ」と主張するこの男を、正統派経済学の破壊者として毛嫌いしていたのだ。
「私はね、東洋の提督(東郷)がやったことの『歪さ』に、腹を抱えて笑っているのだよ」
ケインズは勝手にソファに腰を下ろし、ブランデーのグラスを掲げた。
「あの日本の提督は『ポンドの金本位制を守るため』などと称して介入を行った。
金本位制の防衛……本来なら、それは君たち大蔵省が大好きな『緊縮・賃下げ・失業の容認』というデフレ的手段でしか成し得ないはずの苦行だ。
だが、彼はどうした?
『ポンドを守る』という名目で買った資金を、そのまま造船所という『巨大な需要(インフラ投資)』に流し込んだ!
金の鎖を守るために、その鎖を作る工員に莫大な賃金が支払われ、経済がインフレ拡張の方向へ回っている。
……病人に輸血をしながら、同時に毒(緊縮)ではなく特効薬(雇用)を飲ませているのだ!」
ケインズは、面白くてたまらないという顔で笑った。
「日本海軍は、金本位制なんか一インチも信じちゃいない。
ただ、金本位制という『建前』を口実に使って、イギリスの失業者に仕事を与え、自国の巨大な船を造らせているだけだ。
……もし我がイギリス政府が、同じことを自国の信用(赤字国債)でやっていたら、もっと正直で、もっと早く国民を救えただろうにね」
その言葉に、大蔵官僚の顔がサッと赤くなった。
「き、詭弁だ! ケインズ教授! 我々大蔵省正統派は、国家の信認を守るために均衡財政を貫いているのだ! 政府の無計画な支出は、民間投資を押しのける(クラウディング・アウト)だけだ!!」
「ほう? 民間投資を押しのける、とな?」
ケインズは、冷ややかに片眉を上げた。
「ならば、今クライドの造船所で起きていることは何だね?
誰も船を発注せず、数千人が路頭に迷っていたあの廃墟に、日本の資金が入った。……誰か『押しのけられた』民間人がいたかね?
むしろ鉄鋼、機械、港湾、すべての産業が息を吹き返しているではないか!」
「そ、それは……相手が外国(日本)の持ち込んだ外貨だからであって……国内の税負担がないから……」
官僚がしどろもどろに弁明するのを、ケインズは氷のような微笑みで見据えた。
「なるほど、よく分かったよ」
ケインズは、グラスをコトリとテーブルに置き、そして……イギリス財政史に残る、極めて辛辣な「死刑宣告」を下した。
「君たち大蔵省は、イギリス政府が借金をして自国の工員を雇うことには、経済学の理論を振りかざして猛反対する。
だが、日本の海軍が、我々の造船所を借り切って同じ工員を雇うことには、一切の反論もできず、沈黙して喜んでいる。
……ならば、君たちが今まで国民を見殺しにしてきた均衡財政への反対というものは……経済学の問題ではなく、ただの『礼儀作法の問題』であったのかな?」
「…………ッ!!」
大蔵官僚たちは完全に言葉を失い、顔を土気色にして硬直した。
「……遊休している人間と設備がある時、支出は浪費ではない。眠っている所得を起こす呼び鈴を鳴らした極東の提督に、感謝状でも送らねばなるまいな。もっとも、感謝状の宛名には注意が必要だがね」
ケインズは呆然とする官僚たちを残し、上機嫌でサロンを後にした。
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場所:ロンドン、ダウニング街11番地(大蔵大臣公邸)
メロン財務長官がロンドンに到着した日、空は申し分なく英国的だった。
灰色で、湿っていて、歓迎の意思を一切表明していなかった。
馬車ではなく自動車で大蔵大臣公邸に到着したメロンは、玄関先で出迎えた執事の完璧な礼に、かえって背筋を冷やした。
「閣下。ようこそお越しくださいました」
執事は微笑まなかった。
格式高い応接室には、最高級のアールグレイの香りが漂っていた。
応接室には、ネヴィル・チェンバレン大蔵大臣がいた。細身の体に隙のない仕立てのスーツ。手には傘。室内で傘を持っているのは、英国人にとって武器を抜いているのとほぼ同義である。
その横には、イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン。
痩せた顔。深い眼窩。生気の薄い目。
メロンは一瞬、本当にロンドンの銀行家なのか、それともイングランド銀行の地下金庫から召喚された幽霊なのか判断に迷った。
「……というわけで、我が合衆国政府は、貴国のポンド防衛について重大な関心を持っている」
メロンは、ふんぞり返って葉巻の煙を吐き出した。
「だが、支援には当然条件がある。
我が国のドルを融通する以上、貴国は徹底した緊縮財政を行うこと。
そして何より……我々アメリカの通商を阻害する『帝国特恵関税』のような時代遅れのブロック経済構想は、直ちに放棄していただきたい」
メロンは「どうだ、ありがたく思え」と言わんばかりに胸を張った。
だがチェンバレンとノーマンの顔には、微塵の感謝も、焦りも浮かんでいなかった。
彼らはただ、極めて丁寧な、氷のような笑みを浮かべていた。
「……それはそれは。合衆国政府の寛大なるご配慮、痛み入ります、メロン長官」
チェンバレンが、ゆっくりとティーカップを置いた。
「ですが、いささか奇妙に聞こえますな。
我が国の市場を閉鎖するなと仰りながら、貴国はつい先日『スムート・ホーリー法』という、世界で最も高い関税の壁を自ら築かれたばかりではありませんか?」
「そ、それは我が国の国内産業を保護するための正当な措置であり……」
「ええ、ええ、理解しておりますとも」
チェンバレンは、にっこりと微笑んだ。
「自国の産業を保護するためなら、アルゼンチンのような他国の伝統的な市場に、最新鋭の15門巡洋艦と自動車を大量に押し売りして、我々イギリスの鉄道資産を紙くずにするのも、正当な『アメリカの自由競争』なのでしょうな」
メロンの顔が、ピクリと引きつった。
言葉の端々に仕込まれた、カミソリのような嫌味。
「チェンバレン大臣。アルゼンチンの件は純粋な商業取引だ。我々は……」
「おお、商業取引! 素晴らしい響きだ」
今度は、ノーマン総裁が楽しげに手を打った。
「そういえば、貴国のスタンダード・オイルも、かつて我が国の至宝である『ロイヤル・ダッチ・シェル』を、純粋な“商業取引”で買収しようとされましたな。
あの時は、とある“友人”が間に入ってくれたおかげで、事なきを得ましたが」
チェンバレンが葉巻の灰を落とした。
「もっとも、とある海軍はすでに4,000万ポンド分の関心を示してくれた。なかなか礼儀正しい連中だ。砲艦の代わりに小切手を寄越す」
メロンは咳払いした。
「日本の介入は、必ずしも安定的なものとは限らん。軍事的意図を伴う資金の移動は、国際金融にとって――」
「おお、軍事的意図」
チェンバレンが楽しげに言葉を拾った。
「それは興味深い。アルゼンチンに巡洋艦を売り込む時、貴国の銀行家たちはそれを何と呼んでおられたかな。牧歌的海洋文化交流か?」
ノーマンが、静かに紅茶を口にした。
「ミスター・チェンバレン。お客様に対して、少々直截に過ぎます」
「失礼。では外交的に言い直そう」
チェンバレンはメロンを見た。初めて少しだけ笑った。
「英国には古い諺があります。紳士は小切手を見せびらかさない。貴国は我々の庭に砲塔を植えた。日本は我々の造船所に賃金を植えた。どちらが英国の芝生に優しいか、議会で採決してみるのも一興だ」
メロンは反撃を試みた。
「しかしその船台で建造される船は、日本海軍の兵站を強化するものだ。英国の長期的安全保障にとって危険ではないか」
「危険です」
チェンバレンは即答した。
あまりに素直だったので、メロンは言葉を失った。
「不安定で、極めて危険です。ですから我々は、貴国にも同じ程度の関心を示していただきたいのです」
「同じ程度?」
「4,000万ポンドほど」
沈黙。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
メロンのこめかみがぴくりと動いた。
「合衆国は、無責任な支出によって信用を維持する考えには与しません」
「なるほど」
ノーマンが静かに頷いた。
「では、責任ある不支出によって信用を失うお考えですかな」
チェンバレンは、傘の柄を軽く撫でた。
その日、メロンはロンドンの霧がただの気象ではないことを学んだ。
あれは、英国人が怒りを隠すために発明した、世界最大のカーテンだった。
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