ポンドを買う艦隊
時:1932年(昭和七年)、6月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官府
深夜のワシントン。
人目を忍んで日本大使館の裏口から入り、重厚なソファに身を沈めたその男は、葉巻の煙を深く吸い込み、そして吐き出した。
ウィンストン・チャーチル。
かつて大蔵大臣として1925年にイギリスを「金本位制」に復帰させ、大英帝国の誇りを取り戻した(と自負している)男。
今は政権の中枢から遠ざけられているが、シティと海軍、そして保守党の一部にとって、なお「帝国の声」を持つ男だった。
「マクドナルド首相も、ノーマン総裁も、顔色が悪い」
チャーチルは、苦々しげに言った。
「クレディ・アンシュタルトの破綻で、中欧・東欧の債権が紙くずになった。そこへフランスが金塊の引き出しを要求してきている。
ポンドに対する猛烈な売り圧力だ。だが、アメリカの銀行団は助けてくれない」
対面に座る東郷一成少将は、静かに小百合の淹れた紅茶を差し出した。
「無理もありません。アルゼンチンの市場を巡って、貴国とアメリカは現在、血みどろの関税戦争の真っ只中ですからね。
『ポンドを救ってほしければ、アルゼンチンの市場をアメリカに開放し、日本の物流を黙認するのをやめろ』
アメリカ政府は、そう要求してきたのではありませんか?」
チャーチルは、ギリッと歯軋りした。
「いかにも分家らしい、下劣な条件だ。
大英帝国の威信にかけて、そのような要求を呑むことはできん。だが……我が国の金準備は、もう限界だ」
東郷は、静かに頷いた。
「閣下。私は、1925年の貴方のご決断(金本位制復帰)を、深く尊敬しております」
東郷の言葉に、チャーチルは怪訝な顔をした。
「尊敬、だと? 経済学者の中には、あの決断がイギリスの輸出産業を殺したと批判する者も多いが」
「彼らは、バランスシートしか見ていないのです」
東郷は、真っ直ぐにチャーチルの目を見た。
「ポンドは単なる通貨ではありません。大英帝国が、世界に対して発行してきた約束そのものです。
その約束が破られれば、帝国はただの島国と植民地の集合に戻ります。
我々日本海軍は、トラファルガー以来の英国海軍の名誉が、紙屑のように売り叩かれる光景を、黙って見ているほど礼儀知らずではありません」
チャーチルの顔に、一瞬明らかな誇りと喜びの色が浮かんだ。
「……トーゴー。君は、武士道というやつをよく分かっているな。極東の海軍が、ポンドを礼儀で買い支えるとでも?」
「いいえ。礼儀だけなら、紅茶を出せば済みます」
東郷は封筒を一つ、卓上に置いた。
「BISおよびウォール街にある日本海軍系資金を用いた、ポンド買い・ドル売りの市場介入案です。初動投入は2億ドル。以後、ロンドン市場の圧力に応じて段階投入します」
チャーチルの葉巻が止まった。
「2億ドル……」
「弾薬庫から全弾撃つとは申しておりません」
東郷は微笑んだ。
「ただ、大英帝国が『金本位制の守護者』として、最後まで立派に立っていてくだされば、我々にはそれで十分です」
チャーチルは、一瞬感動すら覚えかけた。
だが、彼も老練な政治家だ。東郷の言葉の裏にある刺に気づかないほど愚かではなかった。
「……君は、英国を助けるのではないな」
チャーチルの声が、低く、警戒を帯びたものに変わった。
「英国が倒れた時に、自分の足を挟まれないようにしているのだな?」
東郷は、表情を変えずに薄く笑った。
「帝国を助けるなど、我々には荷が重すぎます。
我々はただ、帝国が倒れる方向に、我が国の船が停泊していないよう努めているだけです」
「……」
チャーチルは、忌々しげに葉巻を噛んだ。
屈辱だった。かつて世界の銀行であったロンドンが、極東の海軍が持つBISの隠し資産で買い支えてもらわなければならない。
しかも相手は「助けてやる」とすら言わない。「お前が倒れるとこっちの商売の邪魔だから、しばらく立っていてくれ」と言っているのだ。
「……断ると言ったら?」
「それは、貴国の自由です」
東郷は、一枚の新聞の切り抜きをテーブルに滑らせた。
それは、イタリアの「コムイト銀行破綻」と「産業復興公社(IRI)による国有化」を報じる記事だった。
「ですが閣下。ローマは軍艦を持っておりました。造船所も、演説も、勇ましい新聞もありました。
しかし銀行の心臓が止まった瞬間、それらは全て置物になった。
大英帝国が同じ過ちを犯すとは、私は思いたくありません」
チャーチルの頬が、ピクリと引きつった。
「英国を、イタリアの道化と一緒にするな」
「もちろんです。ドゥーチェは戦艦で銀行を救えると思っていた。
閣下は、そのような錯覚をなさる方ではありますまい」
「君はイタリアのバカとは違うよね?」と問われれば、チャーチルは「もちろんだ」と答えるしかない。だがそう答えた瞬間、彼は東郷の提案を「現実的な解決策」として受け入れざるを得なくなる。
「トーゴー」
チャーチルは、重い溜息をついた。
「我々が貴国の申し出を受けたとして……ポンド防衛の代償は、何だ?」
「……閣下。我々が差し上げられるのは勝利ではありません。時間です」
東郷は、静かに言った。
「ですが閣下。帝国にとって、時間ほど高価なものはありますまい?」
時間。
イギリスが自らの経済を立て直し、アルゼンチンの利権を整理し、アメリカとの関係を再構築するための時間。
だが、その時間を買うための代金は、「東郷のNCPC債が、イギリスの植民地経済圏にさらに深く根を下ろすことを黙認する」ことだった。
「……英国は、友を選ぶ」
チャーチルは、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「そして、嵐の中で艦を浮かべておける友は、多くない」
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場所:東京・霞が関、海軍軍令部・総長室
「……高橋。これは、何かの冗談か?」
軍令部総長・伏見宮博恭王大将は、新任の軍令部次長・高橋三吉中将が提出した「作戦計画書」に、厳しい視線を向けていた。
伏見宮は皇族でありながら、日露戦争の黄海海戦で連合艦隊旗艦「三笠」の後部砲塔指揮官として実戦に参加し、重傷を負った生粋の武人である。その言葉には、一切の飾り気のないドスが効いていた。
通常、軍令部の机に上がる作戦書といえば「第〇艦隊の演習海域」や「敵艦隊の邀撃計画」である。
だが、今目の前にある書類のタイトルは、こうだった。
『対米金融牽制およびポンド防衛支援に関する、BIS保有資金(10億ドル)の市場投入作戦』
「冗談ではありません、殿下」
高橋三吉は、生粋の鉄砲屋らしからぬ極めて真面目な顔で、直立不動のまま答えた。
「ワシントンの東郷少将からの『作戦認可』の要請です。
現在、イギリスのポンドは欧州の金融不安により暴落の危機にあります。ここで我が海軍がBISに保有するドルを売却し、ポンドを買い支えます。
これにより、アメリカへの資本の一極集中を防ぐことが可能です」
「ドルを売り、ポンドを買う……それが、海軍の作戦だと言うのか?」
伏見宮は、微かに眉をひそめた。
大砲を撃って敵の船を沈めるのが海軍の仕事だと思っていた。
「高橋」
伏見宮は低く、しかし凄みのある声で言った。
「これは明らかなアメリカへの『敵対行為(経済攻撃)』だ。万が一失敗すれば、日米関係は破滅する。……余一人の権限では、とても許可できんぞ」
「承知しております」
高橋は、深く頭を下げた。
「ゆえに、殿下。本件は『帷幕上奏』を願い出ます。
統帥権の独立に基づき、殿下から直接、天皇陛下にこの作戦の裁可を仰いでいただきたいのです」
伏見宮は、書類を置いた。
置いた、というより、机の上にそっと戻した。まるで、信管の抜けていない不発弾を扱うような手つきだった。
「軍令部は、いつから為替相場を艦隊運動図のように扱うようになった」
高橋は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
伏見宮は、深く椅子に身を沈めた。皇族軍人の顔に、形容しがたい感情が浮かんだ。
「……予はな、黄海で『三笠』の砲塔に乗っていた。敵艦隊の煙を見つけ、距離を測り、血と硝煙の中で砲弾を撃ち合う。それが戦争だった」
伏見宮は、窓の外の霞が関を見た。
「だが今はどうだ。ポンド、ドル、BIS、関税、生糸……。軍令部総長の机に、大蔵省と外務省と農林省を煮詰めたような作戦書が載っている」
高橋は静かに言った。
「それらすべてが、大日本帝国の海上交通と直結しております」
「詭弁だな」
「はい」
伏見宮は、そこで初めて高橋を見た。
高橋の表情は、鉄砲屋としてのプライドを噛み殺した戦略家のそれに変わっていた。
「詭弁です。ですが、正しい詭弁です」
高橋の目に、決意の光が宿った。
「生糸が売れなければ、農村は崩れます。農村が崩れれば、兵員の供給も、国内の治安も、我々が喉から手が出るほど欲しい主力艦建造の大義名分も崩れます」
高橋は一歩進み出た。
「我々は、敵艦を撃つためだけに海軍を持っているのではありません。帝国の生命線を守るために海軍を持っている。ならば、その生命線を絞めるものが何であれ、軍令部が責任を持って迎撃せねばなりません。……海軍省だけに任せておくわけにはいかんのです」
「それが、ドルの売り浴びせか」
「はい」
「アメリカは敵か」
高橋は、ここでわずかに沈黙した。
「敵ではありません」
「ならば、なぜ撃つ」
「撃たねば、交渉の席につきません」
伏見宮は、フッと苦笑いして目を閉じた。
「東郷の奴らしいな。軍人は、もう少し単純なものだと思っていた」
しばらく、部屋には時計の音だけが響いた。
やがて伏見宮は、もう一度書類を手に取った。
「……表題を変えろ」
「はっ」
「『対米金融牽制』などという文言は消せ。陛下の御前に上げる書類に、そのような露骨な言葉を使うな」
「承知しております。既に別案を用意しております」
高橋は、もう一通の書類を差し出した。
伏見宮はそれを見て、深いため息をついた。
『英国通貨安定協力並帝国輸出市場保全ニ関スル特別金融措置案』
「……用意が良すぎる」
「東郷少将から、総長宮殿下は必ず表題にお怒りになるだろう、と」
「奴め」
伏見宮の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「高橋。これは陛下に上げる。だが、その前に確認する」
「はっ」
「この作戦の最大損失は」
「市場売却による為替差損、最大1億2,000万ドル。ポンド崩落時の評価損を含めれば、2億ドルまで拡大する恐れがあります」
「最大利益は」
「ガーメント地区向け生糸輸出維持。輸出産業保全。英国ポンド防衛による英海軍・シティへの影響力拡大。米国の利下げ封殺によるNCPC需要増大。……定量化困難ですが、東郷少将は五年累計で10億ドルを超える制度信用増加と見積もっております」
伏見宮は片手で額を押さえた。
「損失が2億ドルで、利益が10億ドルか。まるで相場師だな」
「軍令部としては、敵主力艦隊の撃滅に匹敵する戦略効果と判断します」
「その言い方はやめろ。予の胃が痛くなる」
高橋は、少しだけ頭を下げた。
伏見宮は、しばらく考え込んだ。
そして低く言った。
「……陸軍には知らせるな」
「既に永田軍務局長には、資源輸入計画との関係で概要のみ」
「馬鹿者」
「申し訳ありません」
「外務省は」
「田中外相と出淵大使には、米国側交渉の関係で必要最小限」
「大蔵省は」
「高橋蔵相は、詳細を承知しております」
「……結局、知らんのは予だけか」
伏見宮の声に、皇族としての、そして武人としての本気の怒りが混じった。
高橋は深く頭を下げた。
「軍令部総長殿下の裁可なく、作戦は実行できません」
「当たり前だ!」
伏見宮は机を叩いた。
だがその怒号には、どこか諦めと、奇妙な高揚感が混じっていた。
彼は分かっていた。もう歯車は回っている。
軍令部だけが、最後に「これは作戦である」と認める役を押しつけられたのだ。
「……よかろう」
伏見宮は、静かに言った。
「帷幕上奏の準備をする。陛下には、包まず申し上げる。これは英国支援であり、輸出保全であり、同時にアメリカへの金融牽制である、と。表題で飾っても、御前で嘘はつかん」
「無論であります」
「そして東郷に打電しろ」
伏見宮は、筆を取った。
「『本作戦、軍令部総長として裁可上奏の準備に入る。ただし、為替を砲弾と思うな。予は砲弾の痛みを嫌というほど味わったが……為替の跳弾は、一瞬で国を吹き飛ばす。最大限慎重に実施せよ』」
高橋は、わずかに表情を緩めた。
「少将は、喜ぶでしょう」
「喜ぶなと言っておけ」
伏見宮は吐き捨てるように言った。
「……まったく。日露の頃は、敵艦隊の煙を見つければよかった。今の海軍は、ロンドンの霧とニューヨークの相場を見張らねばならんのか」
高橋は、静かに答えた。
「はい。殿下。海は、そこまで広くなりました」
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